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12【救い】

 

 カツーン……カツーン。革靴の音が廊下にこだます。次第に近づいてきたその音は、この部屋の前でカツン、と止まった。ぷしゅっと音を立ててドアが開くと、現れたのはシドだった。


「……アハルテケ?」


「おっ。船長」


 シドは、体液にまみれ、痣だらけになった俺の姿を見て眉を顰めた。


「……あぁは言ったがここまでして良いとは言っていないぞ」


「どこまでしていいか言われていないからな」


 軽口を叩くアハルテケに呆れながら、シドは俺の腕を吊し上げていた鎖と手錠を外していく。ずっと吊り上げられていたせいで、両手の感覚がほとんど無くなってしまっていた。手首には青紫色の痕がくっきりと残っている。


「アイザック。行こう」


「う……」


 汚れた身体を、シドの上着で包んで抱き抱えられる。ふわりと香る甘いムスク。上着越し、久しぶりに感じた、誰かの体温の温もりに、思わず目の前が滲んだ。その温もりは、自分を宇宙船という檻に閉じ込めている張本人のものなのに、緊張した身体が解れていく。そのまま、彼に揺られて向かったのは大浴場だった。準備中の札がかかっているのにも関わらず、シドは中へと躊躇無く進んでいく。俺をバスチェアに座らせると、シドはズボンの裾とシャツの袖を捲り、自ら俺の体を湯で流し始めた。優しく泡立てたソープが、傷に染みた。


「…………勝手に彷徨いてはだめだろう」


「……もう、殺してくれ」


「…………」


 排水溝に吸い込まれていく、血と泡の混合物。ぼーっと眺めながら呟いたその言葉も、汚濁と一緒に流されていく。シドは、体を洗いながら、俺の恨み言を黙って聞いていた。


「……なんで俺だけ生きてるんだ……」


 シドは微笑んだ。


「……傷だらけの美しいおまえを一目見た時に私はどうしようもない所持欲と独占欲に駆られたのだよ。まるで、一級品の黄金狐の毛皮を見つけた時のように、高揚した……。身体だけで無く、心まで私の物にしてしまいたくなった。……それだけでは理由は不十分か?」


 ……たったそれだけ?

 あまりのシンプルさに愕然とした。シドの個人的な欲求を満たすために、俺は生かされている。碌でもない目に遭ったのも、彼の手中から逃れようとした俺へ下った罰なのだろうか?

 シドの言葉は、胸の中にじわりと膿が滲ませた。じくじくと痛む心の傷が、ゆっくり、深く、化膿していく。


「ここから逃げ出したいか?」


 俺は答えなかった。


「それは叶わんよ。お前はもう私の物なのだから。……逃げたければ試してみるといい。また痛い目に遭って、連れ戻されるだけだがね」


 この船から逃げられない理由をわかりきっているくせに。リュウを見捨てて、この船から脱出するなどという選択を、俺ができないのを分かって言っている。


「……リュウを返してくれ」


 声を絞り出すも、求めた返事は返ってこなかった。


「……ゆっくり湯船で温まると良い。あとでCBをよこそう。あいつはいい腕をしているから、きっとその傷も綺麗に治してくれるだろうよ」


 そう言って、俺を湯船に静かに沈めるとシドは浴場から出ていった。心が波立つ。定まらない心は、湯気と共に霧散していく。何故涙が止まらないのか、自分でも分からない。


「…………リュウ……」


 リュウを呼ぶ声が、かすかに浴場に反響する。――彼に届くはずも無いと、分かっているのに。

 ――自分の身体を掻き抱く。あの、下卑た男の手の冷たさが未だに肌に貼り付いて剥がれない。


 ……どれくらい時間が経っただろう。扉をノックする声が聞こえて顔を上げると、CBがこちらを見ていた。いつもの無表情が、わずかに歪んでいる。


「……着替えを持ってきました」


「…………ありがとう」


 俺はCBの助けを借りて、浴槽から立ち上がった。ふらつく身体を支えられながら、脱衣所へと向かう。

 粛々と、体を伝う水滴を拭き取られ、清潔な服を着せられる。まるでされるがままの人形のようだ。ふと、自分の手首が目に入る。くっきりと残った拘束具の痕。湯に浸かった程度では落ちないらしい。

 それから、俺は浮遊車椅子に乗せられて、再び、あの白い無機質な部屋へ連れ戻されたのであった。


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