第三十二章 【静かな危うさ】
よくお休みになられたようで、と家令が眉を下げていた。
今日こそは、という視線が刺さって、味の感じない食事を少量、無理に押し込んだ。
「今日は、少し顔色がいいな」
シルヴァンが、安堵の溜息を吐いた。
彼が同席する中、伯爵代行を務めてくれている者から、ひとつの事項が通達された。
「伯爵府からの通達です。リヴィア・スノウレイ伯爵閣下の長期静養の決定が下されました。期限は明確ではありません」
手続きは整然としており、異議も出ることはない。
リヴィアも抗わなかった──いや、抗う言葉も既に持たなかった。
やるべきことを持つことを許されず、必要とされず、ただ街を彷徨っていた。
傍目には“散歩“に見えていることだろう。実際、家令をはじめとする使用人たちにも、そう思われて見送られたのだから。
重そうに流れていく雲から、うっすらとした白銀の結晶が降りてくる。
冷えていく空気の中、行き交う人々が徐々に鼻先を赤く染めていくが、リヴィアの肌はどこも白いままだった。
リヴィアの視界の端で、一人の幼い少年が蹴躓いて転んだようだ。
助け起こしたのは母親だろうか、擦り剥いた少年の掌に滲む血を目にして、困ったように周りを見回している。
──以前のリヴィアならば、少年が転んだ時点で駆け寄っていただろう。
しかし今は、“転んだな”、“怪我をしたのか”と事実をただ認識しているだけ。
不意に、母親が立ち尽くすリヴィアの姿に気が付き、息子を抱き上げて足早に歩み寄ってきた。
「スノウレイ伯……!ご静養中に申し訳ございませんが、お願いできませんか……!」
静養の情報は既に周知されているようだ。そんなことを意識の外でぼんやりと考えながらも、リヴィアは反応を返せなかった。
応答しないばかりか、治癒士としての動作すらも。彼女の様子に、母親が痛ましそうに目を細める。
「……大丈夫では、なかったのですね」
一礼して去っていく背中を眺めるラベンダー色の瞳は、光を含んでいるようには思えない。
その一部始終を、少し離れた角からリュクスは眺めていた。
──ああ。これは、誰のせいでもないやつだ。
リヴィアの危うさを感じ取っているのは、このアルシエルで、彼ひとりのみだった。
第三十二章 了




