第三十章 【昼と夜のあいだ】
朝だった。
目は覚めていた。
それだけだった。
水を使った。
冷たいとも、温かいとも感じなかった。
指先の感覚は、ただ濡れたという事実だけを伝えてくる。
鏡に映る顔は、知っている形をしていた。
瞼の重さも、呼吸の深さも、異常ではない。
異常でないことが、どこか不自然だった。
衣を選び、袖を通す。
動作は滞りなく、迷いもない。
迷う理由が、存在しなかった。
窓の外では、雪が積もっている。
昨夜から降っていたのか、朝からなのかは分からない。
白さは、時間を測る役には立たなかった。
歩く。
止まる。
また歩く。
目的地は決めていないのに、廊下は終わる。
階段も、扉も、順番を守って現れる。
誰にも呼ばれていない。
それでも、朝は進む。
──進んでしまう。
時間が余った。
余ったという認識すらなく、ただ、次にすべきことが見当たらなかった。
デスクの引き出しを開ける。
中には、すでに整えられた書類が並んでいる。
崩れてはいない。乱れてもいない。
それでも、角が微妙に揃っていない気がして、指先で紙を撫でた。
一枚ずつ、端を合わせる。
重ね直す。元に戻す。
意味はない。
けれど、手は止まらなかった。
別の引き出しを開ける。
こちらも同じだ。
封筒、書類、覚書。どれも既に分類され、順序も守られている。
――何かを、探しているわけではない。
ただ、開けて、閉める。
開けて、整えて、閉める。
その途中で、指先が触れた。
紙の質が、違う。
書類よりも薄く、けれど不用意に扱えない感触。
視線を落とすより先に、分かってしまった。
それでも、確認するように、ほんの少しだけ引き出しを引いた。
二通の封筒。
並べられているわけでも、隠されているわけでもない。
ただ、そこにある。
父の名。
弟の文字。
胸の奥で、何かが動いた。
冷たさ。……確かに、冷たさだった。
思い出しかけた。
雪の感触。
夜の星。
折れた穂先の重み。
――だめだ。
考える前に、身体が先に動いた。
封筒に触れることはしない。
引き出しを、静かに押し戻す。
音を立てないよう、鍵もかけず……ただ、なかったことにするように。
引き出しの前に、しばらく立っていた。
何秒か──あるいは、もっと。
やがて、背を向ける。
デスクに戻り、書類の角をもう一度だけ揃えた。
冷たさは、消えた。
温度は、戻らなかった。
無温のまま、時間だけが過ぎていく。
太陽は、いつの間にか高い位置を離れていた。
書斎の窓から差し込む光が、机の端をなぞる角度に変わる。
それに気付いたのは、書類の影が少し伸びたからだった。
昼を告げる鐘が鳴ったのかもしれない。
聞こえた気もするし、しなかった気もする。
リヴィアは席を立たなかった。
空腹も、眠気も、思考も――どれも、特に主張をしなかった。
紙を一枚、持ち上げる。
内容は、さきほど確認したものと同じだ。
それでも目を通し、角を揃え、元の位置に戻す。
窓の外で、光がさらに傾く。
白い壁に落ちていた明るさが、少しずつ色を失っていく。
誰も来ない。
呼ばれない。
急かされない。
それは、休息のために用意された時間だったはずなのに。
気付けば、書斎の中は昼でも夜でもない色に満たされていた。
影が長くなり、輪郭が曖昧になる。
リヴィアは、ただそこにいた。
今日という一日が終わりへ向かっていることを、止めも、追いもせずに。
何も起きないまま、日だけが、静かに傾いていった。
第三十章 了




