第二十七章 【問題ありません】
朝の水は、いつもと同じ温度だった。
指先を濡らしたまま、リヴィアは次に何をするのか思い出せずに立ち尽くす。
その沈黙を、誰も破らなかった。
*
朝の支度を告げてから、いつもなら数分で返事がある。
それが今日はなかった。
家令は一度だけ、砂時計を裏返した。
それでも、水場の方から足音は戻らない。
――長い。
用件を思い返す。
時間は合っている。指示も簡潔だった。返答を待つ必要のある内容ではない。
「……伯爵閣下」
呼びかける声は、必要以上に低くなった。
それでも返事はない。
水音だけが、一定の調子で続いている。
家令は一歩だけ、近づいた。
扉を叩く理由を、まだ見つけられないまま。
家令は、扉の前で立ち止まった。
叩くために上げた手が、途中で止まる。
――今は、違う。
理由は言葉にならなかった。
ただ、ここで扉を叩けば、それは“当主に向けた呼びかけ" ではなく、何かを壊す合図になる気がした。
水音は続いている。
一定で、正確で、あまりにも――作業的だ。
家令は、ゆっくりと手を下ろした。
そして何も告げないまま、廊下へ一歩退いた。
今日の予定は、まだ伝えられていない。
だが、それを理由に扉を叩くことは、
今の彼にはできなかった。
しばらくして、あれほど規則的だった水音が──止んだ。
しかし、扉は開かない。
手つかずのまま下げられる朝食。
来客には“体調が優れず”とだけ伝えられる。
書類は“後ほど”に回される。
扉は、静かに開いた。
家令は中を一瞥し、何も言わずに一歩、脇へ退いた。
リヴィアは、そのまま外へ出てきた。
その指先が赤いのは、あの一定の水音の結果だろう。
「本日のご予定をお伝えいたします」
家令の声に、リヴィアは一度だけ頷いた。
それだけで、すべてが進み始める。
朝の報告。
来客の名。
署名を要する書類の束。
どれも昨日と変わらない。
変わったのは、確認にかかる時間が、わずかに長くなったことだけだった。
「問題ありません」
そう答える声は、澄んでいた。
誰の耳にも、異変として届かないほどに。
扉が閉じる。
足音が遠ざかる。
書斎に残されたのは、当主の席に座るひとりの女性と、今日という一日を、最後までやり切るための静けさだけだった。
第二十七章 了




