第二十八章 【沈黙の向こう側】
扉を叩く音がした。
それは急ぎでも、形式でもなかった。
ただ──ここに来てはいけない人間が、来てしまった音だった。
「……リヴィア」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥で何かが小さく折れた。
この邸で、その声でそう呼ぶのは、一人しかいない。
「少しだけ、話をしに来た」
その言葉が、決定打だった。
今日は何事もなく終えられるはずだった。
書類を片付け、予定を消化し、夜を迎える──その計画が、音もなく崩れる。
扉の向こうに立つ気配は、静かで、優しくて、だからこそ、どうしようもなく残酷だった。
ねえ、アシェル様。
あなたが来てしまった時点で、私はもう──“一人で壊れる”ことすら許されなくなってしまった。
「……今は、当主として対応しています」
助けて、なんて言葉は浮かびすらしなかった。
それでも、ここであなたが“私”を求めてくれたなら。
「……そうか」
──扉越しのその声に……静かに、膝が折れた。
*
扉の向こうから、返事はなかった。
物音も、足音も、衣擦れの気配すらない。
先ほどまで確かに感じていた“人の存在”だけが、薄くなっていく。
アシェルは、呼びかけるべき言葉を探して――何ひとつ、見つけられなかった。
沈黙は、拒絶ではない。
許可でもない。
ただ、判断を許さない無音だった。
一拍。
二拍。
……長すぎる。
彼はようやく気付く。
この沈黙は、待っていい種類のものではないと。
沈黙は続いた。
呼吸の気配が、分からなくなるほどに。
アシェルは一度だけ、目を伏せた。
そして──ノックも呼びかけもせず、扉に手をかけた。
鍵は、かかっていなかった。
静かに開いた扉の先で、リヴィアは床に崩れたまま、声もなく俯いていた。
泣いてはいない。
けれど、その背は、二度と一人で立てないほどに折れている。
アシェルは、何も言わなかった。
言葉を差し出す資格が、もう残っていないことを、理解していたからだ。
ただ一歩だけ、近づいた。
それが──今の彼にできる、唯一のことだった。
第二十八章 了




