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第二十六章 【まだ、日常】

 目を覚ました、はずだった。

 だがその瞬間がどこにあったのか、記憶の端を探しても見つからない。

 それでも私は、もう立っていた。


 水を張った洗面台に顔を近づけ、冷たさで意識をはっきりさせる。

 手ぬぐいで水気を拭い、髪を整え、喪服に袖を通す。

 留め具の位置も、結び目の強さも、迷いはなかった。


 鏡の中の女は、伯爵家当主として不足のない佇まいをしている。

 目の下に薄く影があることにも、唇の色が淡いことにも、特別な意味は感じなかった。


 食堂へ向かい、用意された朝食の前に着席する。

 一口、二口。嚥下する動作は正確で、詰まることもない。

 味がしないことは、判断材料にならなかった。


 ──今日も、やるべきことがある。


 そう思えたから、席を立った。


「本日のご予定ですが、午前は領地からの嘆願への返答、正午に評議会より使者が参ります。午後は──」

「ええ。承知しています」


 返答が早過ぎた。

 家令は一瞬だけ言葉を止め、手元の書付に視線を落とす。


「……午後には、先日の件で教会からも──」

「はい。祈祷堂の使用許可ですね」


 また、被せるような返答。

 正確だ。内容も、順序も、何ひとつ間違っていない。


「その後、夕刻には弔問の──」

「お断りください。今日は対応できません」


 言い切りだった。

 家令の口が、わずかに開いたまま止まる。


「……かしこまりました」


 一拍遅れて、そう答えた声は低い。


 沈黙が落ちる。

 本来なら、その隙間で確認されるはずのことが、すべて省かれている。


 ──体調はいかがですか。

 ──お休みになられましたか。


 どれも、問われない。

 問うべきでないと、家令が判断したからだ。


「他に、何か?」


 リヴィアが顔を上げる。

 その視線は澄んでいて、焦点も合っている。


「……いいえ。本日は以上です、伯爵閣下」

「そう」


 それだけで会話は終わった。


 家令が一礼して下がったあとも、彼女はしばらくその場に立っていた。

 次に何をすべきかは、分かっている。

 ただ、動き出す理由だけが、どこにもなかった。


 扉を閉めたあと、家令は一歩だけ廊下で足を止めた。


 ──これは、止めるべき不調なのか。

 それとも、伯爵として耐えておられる最中なのか。

 どちらであっても、今の自分には踏み込む資格がない。


 そう結論付けるまでに、ほんの数秒を要した。


 朝の支度を告げるため、廊下に控えていた若い使用人が、家令の背に小さく声をかけた。


「……あの」


 呼び止めるには、あまりにも小さな声だった。


 家令が振り返るより早く、彼女は口を閉ざす。

 何を言おうとしたのかは、自分でもはっきりしなかった。


 ──眠っていないように見えた、

 ──朝食に手をつけていなかった、

 ──書斎の灯りが、夜明けまで消えていなかった。


 どれも、“確信”ではない。

 伯爵閣下を止める理由としては、あまりにも弱い。


「……失礼しました」


 それだけ言って、彼女は一歩下がった。


 家令は何も問わなかった。

 問えば、答えを求めなければならなくなるからだ。


 その沈黙が、今日もまたひとつ、

 彼女を独りにしたことを──誰も、口にはしなかった。




 第二十六章 了

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