8-7 王女の到着
紙に関するライセンス契約のことはジェーン・ドゥに通信で伝えてはいたが、対面でも改めて伝えている。クローンとかテロメアについてはモルから帰りながらオレがエンリに説明した。このときの運転はアンに任せている。
翌日、火曜の深夜、地上中継線はトヨンまで伸ばせた。まだ「網」ではなく「線」の状態だ。距離の長いところや天候によるノイズ混入状況などを見ながら線の弱い区間を優先して多重化し、最終的には「網」形状にしたい。お試しで、海上用というものも一台作ってみたが、これは海流で流された。位置保持用のモーターも積んでいたのだが、パワー不足だったようだ。ビーコンは出ているので、そのまま海流観測用としてベータとガンマに電波を拾わせることにしている。これはこれで、材料さえあれば百ほど作ってあちこちの海域にばらまいてもいいかもしれない。その時には、気圧計とか気象観測用のオプションも付けたい。
数日を経て、ジェーン・ドゥから小ニムエの派遣について根回しが終わったとの通信が入っている。子ニムエ達を住まわせる場所について、また通信で相談しなければならない。その頃、領主館からは紙十二グロスの発注と、工房を拡張することについての連絡が入った。長屋を倉庫にしてるのを見て「これでは人を増やせない」という危機感も起きたらしい。そんな商売上の動きとは別にαからも警告。衛星軌道から見ると台風らしき雲の塊が生じているらしい。もちろん、これは継続監視を頼んでおく。
通信から数日遅れてモルから届いた小ニムエの派遣要請には、紙十二グロスの注文書と、前金としての手形も同梱されていた。通信による補足説明で、モルでも製紙をやってみたいが、まずは現物を使わせて利便性を体感させたいと言われた。紙の材料確保のため、南原では工房の近くから順に草がなくなりつつあり、新池では岸辺の泥炭が少しずつ。溝状に掘り取られている。このあたりでの掘り進め方は、テンギにも話を聞きながら小エビの生息と小舟の利便性を考えながら掘っている。
ヨール王二三年八月十日(金)。
二の鐘で領主館からの注文である紙十二グロスを届けた。台風らしい雲の塊が来る前に一つ仕事が片付いたのはよかった。湿度が上昇しつつあり、乾きが悪くなっていたのだ。ここより奥、北西に見えるムラウーとの国境の山地方向の雲は灰色だ。ネゲイで降っていなくとも、あのあたりは降っている感じだ。
領主館での検品と納品を終えて工房に戻ろうとしているところに、ハンナ・ナーベ一行の先触れが領主館に到着した。先触れは、前にも会った近衛の女兵士ツヤ・ハービンだ。本隊は三の鐘の少し前頃になるだろうと言う。バース達も、そろそろ到着の時期かとは予想していたので客室やヨークの店の空室状況なども確認し、全部で十人程度なら寝泊まりできる場所を用意していた。一行は、先触れを含めて四人だったが。本拠地から十日も離れた場所を移動する王女様の一行が、こんなに少ないものでいいのだろうか?。それだけ治安がいいとも言えるが。
知らせを受けた領主館は忙しくなる。部屋の清掃状況など、最終確認が必要だ。バース達首脳陣は「もう少しいい服に着替えてくるよ。」と一度私邸部分に戻る。オレも、今は新池にいるエンリを呼びに行くことにした。今朝のオレは紙の納品しかやっていないから、服装は汚れていない。エンリは、まあ池の周りで歩き回っているから、膝から下とかは泥汚れがあるだろうな。シャワーでさっと流して、洗濯済みの服に着替えさせてから連れてくるか。多分、一時間もない。急ごう。
急遽忙しく動き始めた使用人達を指揮しているのはミナルだ。オレは準備の手伝いをさせるようにと言って、同行していたエリスをミナルに預けた。オレ自身は工房でノルンに状況を知らせ、バギーで新池に戻る。テンギに断りを入れてエンリを積んでマーリン7に接舷し、エンリを準備に行かせる。待つ間にオレ自身の服装を改めてチェック。問題なし。石鹸も使ってさっぱりした顔になってから着替えて出てきたエンリをバギーに乗せて、領主館に向けて走り出す。ついでにテンギには、大エビをどのくらい用意できるか、夕方にでも領主館に知らせて欲しいと頼んでおいた。
門に飛ばした「虫」によると、ハンナ達はもう市内に入っている。領主館の前まで来ると、正面からハンナ達のものらしい馬車が近づいてくるのが見えた。先に門から領主館の敷地に入る。車回しで一度バギーを停め、出迎えに来ていたエリスに運転席を譲る。オレとエンリはバギーを降りてバース達と一緒に出迎えの列に加わった。バギーはエリスが馬車置き場に移動させる。すぐに、ハンナ達の馬車が入ってきて、玄関前に停まった。領主館の馬丁であるエビーと、先触れとして領主館に来ていたハービンが馬に付く。御者台にいたのは三十程歳ほどの軽鎧男だった。御者台から降りてバースに告げる。
「近衛のブリム・ハービンです。ハンナ・ナーベ王女殿下をお連れしました。」
護衛の二人は同姓だった。夫婦なのだろう。馬車の扉が開き、降りてきたのはこれも前にカースンで会っているドリー・コーン。ハンナの侍女だ。ドリーは馬車から降り立って言う。
「ハンナ・ナーベ王女殿下をご紹介いたします。」
ハンナはドリーが差し伸べる手を取って馬車から降り立った。
「ハンナ・ナーベです。皆様、出迎えをありがとうございます。」
バースが答える。
「ネゲイを預かる四位領主のバース・ネゲイです。遠いところを、ご苦労様です。お疲れでしょうから、まずは皆さんを一休みのできる場所に案内させましょう。」
バースは緊張していたのか色々と手順を間違えた。オレを含めた主な面々を紹介するはずだったのだ。ハンナも多分気付いている。ハンナはバースに「では後で案内を頂きましょう」と答えると、オレに近づいてきて挨拶をした。
「お久しぶりです。マコト・ナガキ・ヤムーグ様。ここの方々を紹介していただけますか?」
求めに応じて、さっき名乗ったバースを除き、ヨーサ、ドーラ、ゴールを順に紹介する。
「以上がネゲイの重鎮たる方々です。どの方にも、私は大変世話になってますよ。」
「そしてこちらがマコト殿のコビンと正妻の方々ですか?。」
「ええ。時間が作れる限り、色々話をしてお互いに知り合って欲しいと思ってます。」
「ネリ・ショーです。」
「エンリ・ゴールです。」
今はまだ二人の言葉も短い。到着直後の車回しで、まだ玄関にも入っていない。長くなる話は後だ。主なメンバーが紹介されたところでバースが言った。
「では改めて、少し休める場所に案内します。その後、今日明日の予定などを決めましょう。エビー、馬車を馬車置場へ。あと、荷物を運び込むのを手伝ってやってくれ。」
ツヤは領主館の馬丁であるエビーと一緒に、馬車を馬車置場の方へ連れて行く。残った客人三人は、ヨーサに案内されて建物に入った。ツヤは後でエビーに案内されて馬車からも荷物を運ぶだろうし、全員簡単な身だしなみの整えなどもやって、話ができるようになるまで二十~三十分ほどかかるだろう。金曜だ。今の間に、エリスにベンジーへ行ってもらおう。今日の午後は行けなくなったと伝えてもらわねば。
ハンナ達一行の来訪目的はオレとオレの関係者に会うこと、ネゲイにおける住環境の確認、あとは、結婚に向けての事務的な打ち合わせだ。到着当日の今日になるか、それとも明日になるかはわからないが、工房と新池には来るだろう。そのあたりは、移動でどのくらい疲れているかよくわからないので、この後の打ち合わせによる。オレ達も、「いつもの」応接間に移動した。
バース達とは優先して案内しておくべき場所などについても話を済ませている。工房と新池は必須。市街地の主な商店、ベンジー、時間に余裕があれば領内各地ということもあり得るが、これは多分無理だろう。あとは、先方の要望を組み入れて微修正だ。
聞くとネリとエンリは、まずは友好の意を示すべく以前から話の進め方を考えていたらしい。「今日はまず歓迎ですよ。」「暑いですけど曇ってるからちょっとマシですね」「好きな食べ物は?」。そういうあたりから始めると。基本中の基本ではある。
やがて、ハンナ達一行四人がジルに案内されて応接室へ入ってきたので、一同はメインテーブルに集まった。旅装のままだ。このあとどうにでも動き回れるようにだろう。先方で着席したのはハンナ一人。残りの三人は後ろで控えている。こちらも、オレとバースだけが着席している。
「では、改めて、バース・ネゲイです。こちらはマコト・ナガキ・ヤムーグ殿。」
紹介されて軽く頭を下げる。
「ハンナ・ナーベです。やっとここまで来れました。楽しみにしてたんですよ。」
「それは嬉しいお言葉です。一応、我々の方でもナーベ様には見ておいていただきたい場所などは考えておりますが、場所によっては出迎えの準備がいるとか、工房で何かを作っているところを見たかったのに別の物を作る予定の日だったとか、そんなこともあるでしょうから、ナーベ様方が考えておられる『見ておきたい場所』というのもお聞かせいただけますか。」
「そうですね。こちらでも考えております。」
ハンナの背後にいたドリーが物入れから数枚の紙を取り出してハンナに渡す。
「ええと、私が住むことになるマコト殿のお住まい、それから多分手伝いに入るだろう仕事場、マコト殿の知恵で何かを作ってる場所と作っている様子、あと、日常の物を買うための店、道具類の店、食料品の店、その他の商店。それから、これは父の意向もあるんですけど、ヤダの廃市も見てみたいですけど、遠いですか?。」
廃市とは、エンリ達が「夏の放牧地」と呼んでいる場所だろう。地理だけならエンリが一番詳しい。一応、確認しよう。
「廃市というのは、ヤダ川のもっと上流にある昔の町の跡のことですか?。」
「ええ。他のところは普通に考えたら出てくる場所なんでしょうけど、廃市は、どうも父は、私の行き先がムラウーに近いことをちょっとだけ気にしてまして。」
王はどっちの方向に考えているのだろう。防衛なら協力するが、攻め込む気があるなら一考しなければ。そんな話は戦後の処理を含めて、手間が無茶苦茶に多い。オレは後に立っているエンリに声をかける。
「エンリ、あの場所は、今この部屋の中にいる人達の中で、多分エンリが一番歩き回ってるよな。」
「そうですね。道案内ぐらいならできます。昔あそこで何があったかとか、あまり細かなところまでは知りませんけど。」
エンリの言葉にハンナの護衛として随行しているブリムが言った。
「知りたいのは、廃市に通じる小径とかです。ええと、主街道以外でに廃市に行ける道はあるはずで、そういう場所を完全に潰してしまうか、逆に囮として見張りやすい場所だけ残しておくとか、そんなことの下調べをしたいのです。」
エンリは答える。
「ちゃんと作った道かどうかは知りませんけど、そういう、人が通れる場所はありますね。私は去年まであそこで羊飼いをしてましたから、どこに通じてるかまでは見てませんけど、廃市から主街道以外で、外に通じる道が何ヶ所かあるのは知ってます。」
「なら、ええと、エンリ・ゴール殿、我々が廃市に行く時に同行をお願いできないだろうか?。」
「私は構いませんけど、マコト様とバース様?。いかがです?。」
オレよりも先にバースが答える。
「いいと思うよ。ついでに、マコト殿、国費であのあたりの地図を作る契約なんかどうかな?。」
「地図?。」
ブリムが聞く。
「ああ、マコト殿に頼んで試しに作った地図が、いい出来でね。ネリ、持って来てくれないか?。」
「この前のクボーのヤツね。取ってきます。」
ネリは地図を取りに行くために退室した。αは、紙などにはしてなくても、少なくとも分水線までの地形図は作成済だと思う。分水線は、多分国境と同じだろう。
『もちろんよ。国境を越えてムラウーの領域も作ってるわ。人が通れそうなところ、バギーでも行ける範囲、デルタと隠せるところ、そういう分類で印も入れてあるわ。廃市って、そう呼んでるのね。そこから主街道以外で、山越えできそうな道も見つけてる。人間しか通れないかもしれないけど、密輸とかには使えそうよね。何処まで開示するか、それは考えないといけないけど。』
『了解。地図作りであのあたりを歩き回る形は見せないとダメだろうから、スケジュールとか、また考えておいてくれ。』
地図抜きでも、一行四人とオレ、エンリ、小ニムエ、更に歴史の解説役でグレン師とかが加わる可能性を考えると、バギーでは辛い。馬車か徒歩移動になるだろう。結婚準備の話のはずが、国防の話に変わってしまっている。どこで話を戻そうか。それに、主賓のハンナが放置されてしまっている。
「ヤダ村の奥は、私も一緒に行くよ。久しぶりにあのあたりも見てみたいし。それで廃市は距離もあるから今日はちょっと無理として、今日明日にどこの案内をするべきか考えたいんだが。今日ネゲイに到着された一行の中で一番色々見てもらいたいのはハンナ殿だけど、ハンナ殿が動くときは近衛のどちらかと、ドリー・コーン殿はいつも一緒なんだよね。ハンナ殿を含めて、今日はどこかを見に行くことはできるのかな?。疲れ具合とかも考えてもらって。」
ハンナは背後の三人に振り返る。
「三人とも、カースンからここまでずっと、絶対に誰か一人は起きてるように、交替で変な時間に寝てたわよね。」
ツヤが答えた。
「起きた順番からして、今、一番元気なのは多分私ですね。普段と違う動き方をしてますすので、普段のこの時間よりは疲れてますけど。」
ネリが部屋に帰ってきた。テーブルに地図を広げながら言う。
「さっき話に出てきた地図です。それと、町中を歩くんじゃなくて、私とエンリとマコト殿で、ハンナ様に工房とか南原とかを案内するなら、お付きの方は最小限度かナシでもいいんじゃないですか?。南原を普通に動き回ってて、一番危ないのは、足元が汚れやすい場所や虫が多いって、そんなくらいですよ。」
「人が隠れるような場所は?。」
ブリムが聞く。護衛なら気にする点だろう。
「市内に入る前に左前方に見えていたかと思いますが、草の高さは人が隠れられるぐらいにはなってます。でも、そこで誰かが来るのを待ち続けるのは、私はイヤですね。じっとしてたら虫が足から登ってきますよ。」
「なるほど。そんなところで鐘半分ほどでも、じっとしてるのは難しいかな。ええと、ネリ・ショー殿の提案で、随行三人は今日は休ませてもらおうか。一応、最初だけは私は一緒に行って、虫がどうこうという具合だけは確認しておこうと思うが。」
ハンナが答える。
「そうですね。一緒に来た三人を休ませてやりたいし、マコト殿とネリ・ショー殿、エンリ・ゴール殿なら、私がこれから一番一緒にいることになる人達ですから、私も賛成です。今日このあと、五の鐘少し前ぐらいまで、ご一緒させていただけますか?。」
「私も、ハンナ様とはお話ししてみたいですから、賛成ですよ。」
エンリも承諾の答えを返した。このあたりの会話も仕込みだ。数日前にエンリとネリも含めて打ち合わせをしてあった。護衛がオレ達を含むこのあたりの危険度をどの程度と評価しているのかを探るのと、インプラント準備ための採血の機会、或いはインプラントを入れる機会をどうするかを検討するためでもある。護衛の見ている前で王女様から採血するのは色々と問題がありそうだから、護衛なしでハンナを新池まで連れて行きたかったのだ。事前に話をする機会はなかったが、ハンナも流れに乗ってくれた。オレはこのあとの予定を確認する。
「夕食までにここに帰るような動き方でいいですか?。」
これにはミナルが答えた。
「マコト殿達はどうされます?。ネリ様は普段こちらですけど、今日はマコト殿とエンリ殿ほか何人か、ここで一緒にというのもいいかと思ってましたが。」
一つ思い出した。ミナルには伝えておかねば。
「さっき新池で、テンギ殿に大エビを頼んできたんだ。今夜だと泥抜きは間に合わないと思う。だから『みんなで揃って』というのは、エビの準備ができてからというのはどうかな?。何かここでも考えてることがあったら、それに合わせるけどね。」
「ああ、なるほど。今日は準備もできてなかったので普通の食事ににするつもりでしたけど、明日か明後日あたりには、そんな席もとは思ってたんです。」
「今日の夕方にテンギ殿が帰ってきたら、準備の具合、数とか、いつ準備できるとか聞けると思う。そこで細かい話を決めてもらえばいいんじゃないかな。」
「そうさせてもらいましょう。では今日はマコト殿とエンリ殿はナシ、ということでいいですか?。」
「ああ。ハンナ殿とショー殿、ブリム殿は夕方ここに送り届ける。」
「わかりました。テンギ殿と話して……、マコト殿は明日もここにいらっしゃいますよね?。」
「特に何もなければ、二の鐘頃にはここに来るつもりだったよ。」
「ではその時に、テンギ殿と話した結果などをお伝えしましょう。」
「それがいいね。テンギ殿とはよく新道で顔を合わせるから、先に教えてもらってるかもしれないけどね。」
手許の「やることメモ」を見ていたハンナが言った。
「カースンで紙の注文を幾つか預かってきているんですけど、領主館を出発する前にその話をさせてもらっていいですか?。後にすると忘れそうで。」
「そんな話があるなら工房で聞こうか、できあがりの在庫は今ちょっと少ないと思う。材料の在庫とかも含めて、納期を考えないといけないな。」
その後ハンナの簡単な支度を待って工房へ移動した。単純なものだ。ドリーから紙の注文関係の書類を受け取って自分の物入れに仕舞う。あと、物入れの中にハンカチが入っているかとか、基本的なものを確認するだけ。準備ができたら馬車置場からバギーで工房に向かった。メンバーはオレ、ハンナ、ネリ、エンリ、エリスとブリム。ブリムを助手席に乗せ、女子三人組は後部座席。エリスは荷台。人数を考えると、廃市に行くのにバギーはやはりちょっと小さ過ぎるようだ。
工房ではまずノルンやザース達を紹介する。ザースを筆頭にノルンの弟子達は王女様の登場でガチガチになっていた。
「ノルン、紙の注文の話もあるらしい。材料の在庫も確認してからの方がいいと思って、まずその話をしたい。」
「わかりました。この前のフショップ殿達と同じような紙作りの体験コースも用意してましたけど、その注文の話を先にやりましょう。注文内容で、もし材料が足りないようなら、材料集め体験コースも追加しますよ。」
ノルンが笑いながら答える。
「ええと、あっちで座って話をしましょうか。安物の椅子で申し訳ありませんが。」
テーブルに着くとハンナは物入れから数枚の紙を取り出した。注文書だ。
「王城と、工務と商務でそれぞれ十二グロス、合計三六グロスを頼まれてます。」
三六グロス。五千枚以上。全部積み上げると多分五〇センチを超える。先日の領主館からの注文で十二グロスを作ったが、他の仕事もあるし、設備的にも一日二グロスあたりが限界だった。先日のフショップ訪問時の試算ではその四倍、一日で八グロスと計算していたが、乾燥棚の数が足りない。モルから受けた十二グロスはまだ手を着けることができないでいる。材料の在庫は多分大丈夫だが、設備が足りない。一番場所を取るのは乾燥棚か。工房の増築の話も始まっているが、すぐにできあがるものでもない。注文書には希望納期が書かれていなかった。
「ええと、三六ともなると、ちょっと時間がかかることはわかって欲しい。いつまでに作ればいいんだろう?。紙には別の注文も受けてて、そうだな、来月の今頃には三六も作れると思うが。」
ノルンも注文書を見ながら言う。
「注文書に期限が書かれてませんね。三六グロス。ウチの折り畳み箱で一つ半ぐらいですか。マコト殿なら、できあがった分だけ先に運ぶこともできませんか?。」
「やれないこともないけどね。十二グロスずつとかね。どうせ行くなら別の用事も合わせて済ませたいけどね。まあ、『別の用事』というのも、探せば幾らでもありそうだけどね。」
ここでハンナが言う。
「王城の分は秋の領主会議で広めたいということで、余裕はあります。契約に書くべき納期は、カースンまで運ぶのにも日数がかかるだろうということで、三件とも、ここで話をして決めていいことになってます。それから、別の用事というのは、ありますよ。」
ハンナはそう言って更に二枚の紙を取り出した。一枚は紙の契約に関する工務省からハンナへの委任状。もう一枚は、カースン市内の紙工房新設の目処がついたので技術指導に誰かを派遣して欲しいとのフショップからの要請だった。日当も出すので、できれば九月一日に来て欲しいと。三六グロス分の注文書を見た時に、王城と商務はともかく、工務の分の契約もハンナがやって問題ないのか少し気になっていたが、そこに関しても問題はなさそうだ。
「マコト殿なら事前に一回ぐらい打ち合わせに来れるのでは?。」
「了解。注文を受けよう。打ち合わせの時にできている分だけでも持って行けるよ。ノルン、九月一日のこと、誰が行くのがいいと思う?。」
「ザース達にもいい経験になるでしょうけど、ここのいつもの顔ぶれで、紙なら、ゾムかな。鏡ならザース、木工なら私だけど……、わざわざカースンまで木工を教えに行く機会はなさそうですね。」
名前を挙げられたゾムの方を見ると嬉しそうな表情を浮かべていた。ゾムはノルンの遠縁で農家の次男だ。どこの社会でも、次男以下は家を出て暮らしていかなければならない。年齢はアッザとザース兄弟に挟まれている。ノルンが続ける。
「この前ちょっと手伝ってもらって思ったんですけど、実は紙漉きはエンリが一番上手いと思ってます。でも忙しいでしょうから『空いた時間にちょっとだけ』とかでは、カースンまで行けませんからね。」
「カースンに行くのがゾム一人というのも、未成年だしあまり良くないな。結局私が送り届けて連れて帰ることになりそうな気がするけど、細かい話はあとで考えよう。行き方も含めてね。一応、遠出させることは家の方にも言っておいた方がいいだろうし。」
できあがった紙を売る話から、ちょっと逸れかけている。方向を戻そう。
「で、紙の注文の話の途中だったな。ハンナ殿。受けるよ。契約書を作るなら、ショー殿とエンリに清書を頼もう。」
ハンナは定型の契約文の見本を取り出した。それを見ながらハンナがまず王城分を書き上げ、更にそれを手本としてネリとエンリが商務と工務の契約書を仕上げる。余裕を持たせて期限は全て九月末となった。ネリが言う。
「カースンでの契約の書き方はネゲイとちょっと違ってるんですね。守秘義務って、ネゲイでは書いたことがなかったです。」
「紙の契約ぐらいなら関係ないかもしれませんけど、小さい契約でもこういうのは追加したらそれ以降は外しにくいんですよ。これナシで契約書を持って帰ったら『守秘のことが抜けてるぞ』とか言われてしまいます。」
ハンナが答えた。田舎町と首都では、商売の流儀も若干違っている。




