7-9 ゴールの懸念
ヨール王二三年七月五日(土)。
昨晩はエンリが寝入った後でアストラーベを試してみた。蓄光塗料を擦り込んでおいたのは大成功だ。とても使いやすい。とは言え、読んだ数字を人間が記録するには明かりも必要だったが。読み上げた数字は、筆記可能な明るさのところで誰かが書き留めなければならないだろう。だがそれは、今でも似たような手順で行われている作業だ。
今夜はトヨンに移動するつもりだ。すぐにヴォルタと会えて話ができれば、明日、六日の夜にでもデルタにバギーを積んでネゲイに戻れる。ジェーン・ドゥが書いてくれた紹介状があれば、面会の優先度はかなり上位に割り込めると思っている。今日はまた「虫」を始めとする旅行の準備と、もしかすると週明けの七日は不在かもしれないという話をノルンやゴールにしておく。最近は休日の度にマーリン7を訪れているネリにもだ。ネリには、オレが不在でも船に来てエンリと会うことには支障がないことを伝えた。小ニムエ達のことをネリに教えるのはエンリに頼んである。トヨンにはエンリも同行したがっていたが、運が悪ければ帰着が遅れる可能性があるのでこれば次の機会とすることにした。ジェーン・ドゥにも短文で概略は伝えてある。雲観測では当面晴天。海も多分荒れない。このことは、ゴールが少し心配していた。海路と天候の話をしたときのゴール曰く、今年は雨が少ないらしい。旱魃の傾向があると。
「八月に入ったら雨の季節になるが、今の時期に雨が少なかった年は八月の雨が多いとか、言い伝えはあるからちょっと心配してる。マコト殿の知恵では、こういう時にどうしてる?。」
このあたりでは農業用水は川から分岐して流すだけで、ため池のようなものは見ていない。大規模な築造工事にはそれなりに時間がかかる。
「そういう場合の備えは、私の所では溜め池が多かったよ。一つで最低何ヶ月とか、数をこなそうと思ったら何年もかかる。今日言って来月には準備ができるものじゃないと思う。」
「溜め池か。話には聞いたことがあるが、確かに時間と金と職人が要るな。ずっと前からやりたいことの一つにはなってるんだが、まだ手を着けることができてない。マコト殿の知恵で職人や時間が短縮できるなら、何か考えてみてくれないか。職人を増やしても食べるものがないと困る。他所から買って来ようにも、こういう時は他所も不作になるからな。」
「今年はともかく、来年とか再来年に向けた案なら作れると思うよ。案を作るのも何週間か待ってもらわないといないけど。」
また一つ仕事が増えた。ヤダ川の上流で水制をやれば、下流全域で効果が出るかもしれない。
「もしかしたら、ネゲイだけでなくて、ヤダ川回りのあちこちに手を入れるべきかもしれない。そうなるとカースンの半分以上が影響する。王様にも話をするべきかもしれないな。」
「そんな話もありそうで、それも手を着けてない理由の一つだ。」
「ここ、ネゲイで水を取り込むなら、下流の畑にも影響が出る。」
「そうだな。それは確かだ。余剰分は流せばいいとして、ネゲイだけの話にはならないと思ってる。だから手を出しにくい。」
「何しろ、何か考えてみるよ。概略だけまとめたら、バース様を含めて相談して、話の方向次第では、イヤ、多分確実にカースンにも相談する。」
「そうしようか。儂はカースンには縁が薄いが、バース様とマコト殿なら話ができそうだ。押しつけられコビンも、このことを考えたらいい機会じゃないかと思ったんだ。」
ゴールには自分が養女にしたエンリに対する責任もある。「押し付けられコビン」は迷惑な話だったと思う。だがゴールは公的にはネゲイのナンバー二だ。領に対する責任もある。両者の折り合いは、ずっとゴールを悩ませるのだろう。
ネゲイ周辺は「虫」を使った立体地図にできている。ヤダ村と、マーリン7が最初の冬を過ごした谷の周辺もだ。その間の区間でまだ衛星観測でしか立体化されていない地域がある。そのあたりを「虫」で追加の測量をして、更にネゲイ下流、ヤダ川流域全体の立体地図を作って利水治水を考える。どのくらい時間がかかるだろう?。
『立体地図だけで考えるなら、ヤダ川流域の概略はできたわ。部分的に追加測量とか、何かを作る候補地の地盤調査がいるでしょうけど。』
『今頼まれたばかりのことを今説明するのも早すぎるから、追加測量とか地盤確認を幾つか追加してからゴールと話そうか。』
『それがいいと思うわ。ネゲイの外での調査を始める前には王様にも言っておいた方がいいでしょうし。』
『なら、ネゲイだけの話を今月下旬か来月頭、そこでバースの了解が出たら、来月のハンナが来る時に提案だけでも、というようなペースで進めようか。』
『当面の進め方としては、そんな感じでしょうね。それにあわせて準備します。エンリも話に入れる?。』
『そうしよう。トヨンに出発する前に、エンリには頼まれた話の内容を説明して、そのあと対策案をオレとエンリに聞かせてくれ。エンリにα達のことを教えるいい機会になる。』
『それから、この分野でジェーン・ドゥが何かしてないかも短文で聞いておくわ。』
『そうだな。もしも失敗事例とかがあったら、知っておいた方がいいだろうし。』
本当に、仕事を一つ片付ける前に二つも三つも仕事が増えていく現状は、多分自分が安請け合いをし過ぎているのだろうとは思う。改善しなければ。
夕方、エンリが戻って一緒に夕食を摂りながら互いに今日の話をする。水中メガネは是非とも人数分欲しいという評判だ。だがテンギは価格も気にしている。モル出身のテンギはガラスの値段も知っていて、人数分と予備などと考えると大金貨級になってしまうと心配しているそうだ。ネリの仕事のためにはあった方が便利なのはわかっているので、底板以外の材料を現物で持ってきてくれたら無料で供給すると話すよう頼んだ。試作は透過アルミニウムを使ったが、オレのウーダベーなら底板材料として透過アルミ以外にも、アクリルでもガラスでも作れる。
ジェーン・ドゥには、ゴールに頼まれた旱魃対策についての過去の経緯も聞いてみた。ジェーン・ドゥも、手を出そうとしたことはあったらしい。だが水利権が絡んで話は頓挫して、それ以降は「水利権の話を片付けてから相談に来てくれ」で全部断っていると答えてきていた。少なくとも工事中に一シーズンは農耕ができない期間ができてしまうことが問題視されたらしい。初対面の時に「水利権は面倒」と連発していたのはそういう理由だったのか。
「どんな方法があります?。」
エンリの問いを受けて、オレはαを呼び出す。
「α、説明してくれ。」
「あるふぁ?。」
「アン達を動かしてくれてる、この船がアルファだ。α、自己紹介から始めてもらおうか。」
「エンリ、今まで会話はしてるけど、αとして話すのは初めてね。」
「ええと、アンさん達を動かしてるって、αさんですか。ええと、初めまして。アンさんやベティさんと話をしてるのって、実はαさんなんですか?。」
「そうね。ほとんどが私、αよ。」
「ほとんど?。」
「今は黙らせてるけど、他にβ、γ、δって、会話できる、アンやベティ達を動かせるのが全部で、そうね、四人って、正しい数え方じゃないと思うけど、マコトの手伝いで動いてる『ウーダベー』みたいなのがいるわ。全部を紹介すると話が長くなるから、今は私が代表して話してる。マコトの手伝い、その元締めが私だと思ってくれればいいわ。」
「毎日新しい秘密が出てきて驚いてますけど、宜しくお願いします。」
「その挨拶もアン達を通じて私はもう受け取ってます。こちらこそ、マコトを助けるために、エンリには期待してるわ。」
「まだ覚えることだらけで戸惑ってるばかりですけど、頑張ります。」
「そうね。エンリが私達やアン達がどういうものかをちゃんとわかってくれたら、ネリ・ショーやハンナ・ナーべを迎えるときに心配が減るから、是非ともエンリには頑張ってもらいたいと思ってる。」
そろそろいいだろう。
「α、話を戻そう。ヤダ川流域の治水と利水について、今わかってる地形情報から考えられる内容を話してくれ。」
流域のワイヤフレーム式立体地図が空間投影で映し出された。オレとエンリが食べ終わっていた食器はエリスが片付けてテーブルを拭いてくれた。チェス盤の模様のテーブル上にはエリスの分も含めて水の入ったカップが三つ。更にその上に立体地図が投影されている。高低差は百倍に誇張されていた。数百キロメートルの範囲の地図で、最高でも二キロメートルほどしかない山の高さを同じ倍率で表示しても何もわからない。αが話し始める。
「ゴールが欲しがってるのは、少なくともネゲイでは畑で使う水に困らないこと。下流のことは考えてないと思う。」
「だけどそれじゃあ多分下流から反発が出る。」
「そうね。私達はまだここに来てから一年経ってないから、畑でいつ水を使ってるかとか、よく知らない。ネゲイで困らない方法を考えても下流から苦情が出るのは結局ネゲイが困る。それから雨が多い季節、少ない季節もまだ詳しくは知らない。だからエンリ、知ってる範囲で教えてくれる?。種を撒く時期とか穫り入れの時期とか、水が一番必要な時期とか。雨の降り方とか。」
エンリは少し考えている。
「羊の仕事が多かったですから、畑はあまり詳しくないんです。夏の放牧地あたりでは、川の水が涸れたことはないと思います。麦は四月に播いて九月に刈り入れてました。他の野菜は、色々ですね。秋に播いて春に獲るものもありましたし、水はヤダ川から枝分かれさせて種播きの後で畑が浸かるぐらいにさせてから止めます。その後は雨に任せてますけど雨が少なくて枯れそうになったらまた川の水を入れてたみたいです。ヤダもネゲイも、同じようなやり方みたいですね。ネゲイの方が種を播く時期がちょっと遅いみたいでしたけど。」
種を播く時期が違うのは、種播き直後で大量に水を使う時期が重ならないように調整された結果かもしれない。
「雨は?。今年は雨が少ない感じだってゴール殿も言ってたけど。」
「そうかもしれませんね。春から今までのことを考えると、雨はそう思います。私もネゲイに移ってきたばかりで、七月のこのあたりの川の水がいつもはどのくらい流れてるか知らないんですけど、雨が少ない気はしてましたから、水の量も多分少ないんでしょう。」
「八月に入ったら雨が多くなるって聞いてるけど.どのくらい降るの?。」
「一日か二日、長いときは三日ぐらい、大雨が降り続けることがあります。雨は時々やんだりしますけど風も強いです。」
やはり台風のような降り方らしい。
「八月から九月頃の大雨の後は今私達がいるこの池を含めてヤダ川の川幅がネゲイの町近くまで広がってるのを見たことがあります。ヤダの村でも、あそこも街道から少しずつ低くしながら畑が川の近くまで並んでますけど、一番低い畑は水が来ても流されにくいように果物の木を植えています。」
「木を植えているところは何年に一回かは水が来るということかな?。」
「そうですね。果物が植えてあるのはそういう場所です。」
「ヤダで、そこまで水が増えてるのを見たことはある?。」
「ええ。毎年じゃないですけど、私が覚えてるのは三回ぐらいです。」
数値記録ではないが、エンリの年齢から考えて五~六年に一回程度、ヤダ村での水位がどこまで上がるかは情報を得た。αがヤダ村付近を拡大表示する。
「今聞いた果樹園あたりまで水が来るって、こんな感じかしら?。」
立体地図に水面が表示された。エンリはそれを見ながら言う。
「もう少し上ですね。今はないですけど、ここに昔小屋があったんです。大水で流されて今はその場所も木を植えてますけど。」
エンリが図の中の小屋跡地の区画を示し、水面もそれにあわせて上昇した。
「ええ。私が見た一番水が多かったときが、こんな感じですね。四歳か五歳でした。」
「他の大水の時は?。」
エンリは「多分十歳の時」「二年前」の時の最高水位を示した。地形データに水を流すシミュレーションをやれば大体の流量がわかる。そこから総雨量とかも推定できるだろう。αが追加で聞く。
「この池あたりの川幅が広がってたって時は、どのくらいまで水が来てたか覚えてる?。」
画面はネゲイ近辺に変わっている。
「ごめんなさい。二年前の大水の時ですけど、『増えてるなー』って思っただけで詳しくは覚えてないんです。」
「今工房が建ってるクボーのあたりは?。」
「多分浸かってなかったです。測量の時に、『ここは残ってた場所だ』って思いながらやってましたから。もしかすると私が見ていない時に水が来ていたかもしれませんけど。」
二年前のヤダとネゲイでの最高水位の目安ができた。ネリならネゲイの水位について補足できるかもしれないが、今はこれを仮の数値として計算はできるだろう。同じように考えたのかαが宣言した。
「仮の基礎データ揃ったから、シミュレーションをやってみるわね。まず、ヤダからネゲイにかけての今の状況を出します。」
立体地図は「夏の放牧地」からネゲイの少し下流までの範囲になった。地形はワイヤフレームのままだが水面は面として着色されている。ネゲイの新池のすぐ上流と、ヤダ村での水位と流量も表示されている。エンリが言った。
「深さはわかるんですけど、量の意味が、どのくらいなのかわからないです。」
毎秒何トンという表示が、エンリには「毎秒何立法クーイ」に翻訳されているらしいが、「秒」がわかっていないらしい。秒も元は地球の太陽に対する自転周期を基準にしているから、自転周期が異なるヤーラ359-1では、本当は使うべきではないのだろうな。αが補足する。
「心臓の脈拍二回よりちょっとだけ短いぐらいの時間に流れてる量よ。『立法クーイ』はわかるでしょ?。」
「そういうことですね。わかりました。続けて下さい。」
αは新池に移動して以降で降った雨の度に観測していた水位の変動を示した。
「ここまでは昨日までに実測でデータを整理してたのよ。これから、さっきエンリに聞いた水位まで上がる条件を探します。」
画面の中で流域全体に毎時五十ミリの雨が降り続けた場合の水位と流量の変化が表示される。「毎時五十ミリ」の説明を、エンリは求めなかった。単純に雨の量を表す「マコト式」表現だと思っているのだろう。
均一に五十ミリが延々降り続けるような事例はまずないだろうが、シミュレーションだからそのまま続ける。水位は上昇したが、ヤダでの水はエンリが言った「小屋が流される」ところまでは行かなかった。
「条件を変えるわ。ここで百ミリに増加」。
毎時五十ミリが延々降り続いていたところに次の雲塊が来て雨量が強まった想定。水位はすぐに上昇し、エンリの経験にある最高水位を突破してヤダの農地全域が水没した。
「行き過ぎね。このくらいかしら。」
雨量表示の数字が下降し、表示の中の水位も下がった。毎時六八ミリでヤダの水没状況がエンリの記憶に近い状態になる。このときのネゲイの状況を見ると、クボーの附近、工房は一応は大丈夫そうだ。余裕は三十センチほどか、井戸は数日ほど濁るかもしれない。
「誤差はあるでしょうけど、エンリが今までに見たことがある状況、この十五年くらいで降ったような雨なら、クボーは多分大丈夫、というところまでは確認できたわ。」
「それは洪水に対してだよね。渇水はどう?。ため池とか、作れるのかな?。」
「洪水対策としても、『十五年に一回』級の雨には大丈夫でも、二四年とか四八年になるとわからないわよ。ここでの気象観測データが不足してるから、単純に悪い方に考えて、さっきの毎時六八ミリの二倍まで降ると仮定したら、ヤダにしてもネゲイにしても、ダムか何かを作るべきね。」
「ジェーン・ドゥにはできなかったヤツだな。」
「ため池もね。」
「ジェーン・ドゥは多分ここまでのシミュレータは用意できなかったと思う。その上で工事中の影響の悪い方を並べていったら、反対意見が多くなって手が着けられなかった、という感じじゃないかな。」
「そんな感じでしょうね。」
「その上で、聞こう。川の近くにため池を作るとか、川をせき止めてため池にするとか、候補地は考えてあるだろ?。例えばマーリン7をここまで動かすのに船をバンクさせないと通れないかもとか言ってた場所とか。」
「R1ね。あそこなら二十メートルほど堰上げても街道に影響は出ないわ。最有力候補よ。でも工事中に水涸れしないようにと考えたら、川から水を引いたため池の方がいいわ。候補地はこのあたりよ。」
立体地図に赤丸が追加された。ヤダ村の上流とネゲイの上流でそれぞれ一ヶ所ずつ。川から水を引き入れて、放流は今使っている農業用の分水路に向けてある。ヤダ用のものは多分問題ない。だがネゲイ用のものは、今は農地として使われているところを潰していないか?。
「この場所は、ちょっとまずくないか?。」
「そうね。基本は盛り土による築堤だけという条件で高低差からみて選んでるけど、私も満足はしてないわ。せめて二~三年分の雨と流量の観測記録があったらもっと使えそうな計画が作れるけど、今の時点ではR1で堰き止めを含めて、このくらいよ。」
「ゴール殿には今すぐ答えるつもりはないって予定だったよね。」
「そうね。何を作るにしても候補地は見つけてるけど、その近くでいい材料が手に入りやすいかどうかは別よ。行って、少し掘ってみて、そんなことを何回かやらないと。」
「仕方ない。やることリストに入れておいてくれ。材料調べとか時間が作れるのは、フショップ達が帰った後になりそうだな。」
すぐに答えが出るわけではないと言ってはおいたが、無為に雪の閉じ込められていた冬が懐かしい。




