7-4 鏡
ヨール王二三年六月二六日(水)。
スピードは上げずに川筋を遡って、「虫」を回収しながら夜明け前にネゲイに帰着。このまま起きておこう。また睡眠のリズムが狂っている。川での移動は陸路よりは早いが、速度を上げすぎると川底が掘り返されてしまうのは予想外だった。インプラントを使えば強制睡眠や覚醒もできるが、今、こんな時刻なのに眠くない。それに剣術の朝稽古を約束している日でもある。たまには顔を出さねば。
ジェーン・ドゥの文書類はオレ達がまだモルから出発する前に全て文字起こしと索引付けを終えている。ジェーン・ドゥは二世紀ぶりの地球文明圏との接触で話をしたがっているし、αは文書内の汚れて読みにくいところや文意のわかりにくいところについて質問をしたがっている。昨夜は、ジェーン・ドゥの側のバッテリーが空になるまで話をしていたらしい。読みにくい部分の画像を送って説明を求めていたと。画面を付けておいてよかったと思ったが、明るくなるまで充電はできないから、そのあたりは加減して欲しいとは思う。
通信機のプロトタイプ二号を作るときには、少なくともジェーン・ドゥにもらった記録をキーワードで検索できるようにしておこうと思う。これはジェーン・ドゥが「読み直しもしたい」と言ったことにも対応している。マーリン7のライブラリにフルアクセスさせるのは不味いだろうが、オレ達がヤーラ359星系到着以降に集めた情報ならジェーン・ドゥに開示しても問題ないと思う。通信機に関しては使用感を聞いてから不足している点を改良して、最終的には蠟板サイズに小型化する予定だ。ハンナが「カースンでのコビン」となるような落ち着き方をするなら、彼女にも一組渡してもいいかもしれない。ネリとエンリは、そうなるとやはり渡しておいた方がいいんだろうな。
これ以外にも、やるべきことは溜まっている。
・ガラスと鏡
バース達がモルで入手したサンプルは成分分析を終えている。どうやらロットによる成分のばらつきもあるらしい。製造工程の見学はできなかったと聞いた。炉の形だけでも見ることができていれば、内部での熱効率などを推測もできただろうに。しかし完成品の板ガラスを目視観察すれば、フロート法ではなく、金型の上で冷やしたものであるらしいことはわかった。カースンでの話し合いで出ていた案の一つ、「鏡に加工する部分だけをネゲイで」ということを考えれば、単純にこれを研磨するだけでいいのかもしれない。研磨材として粒度を調整した砂は、モルからガラスを仕入れると決まった時点から準備を始めた。小ニムエの体重で研磨し続けて、歪みのない状態にするのにどのくらいの時間がかかるのか、帰還の翌日から実験は始めている。地球式にフロート法が使えれば研磨は最小限だが、火力が不安だ。適当な大きさに切り分けるのは、鉄定規と鉄筆を考えている。上手くいかなければ、一時的措置だがダイアモンドカッターを工房へ貸与してもいい。
・紙のためのフショップの受け入れ準備
材料見本はわかりやすいように分類済。道具類を少なくとも追加でもう一組用意しなければならない。これはまたネゲイ市内の幾つかの工房に、今までのものを少し改良したタイプを発注するつもり。自製すれば一番早いが、ネゲイの職人が発注仕様のとおりに作れるかの実験でもある。
・トヨン訪問
ジェーン・ドゥの記録から、「トヨンにいる娘」はヴォルタ・ドゥ・オーキョーという名で、ジェーン・ドゥが言ったとおり養女らしい。ジェーン・ドゥはデージョー神殿併設の孤児院から見込みのある者を養子に取り、各地の首都級の都市に設けられている神殿に送り込んでいた。その中でもヴォルタは「器用な技」に格段に長けていると書かれていた。今の年齢は二一。五年前にデージョーからトヨンに送り出されている。トヨンに赴くにあたっては、通信中継点の配置計画も考えなければならない。あわせて、ヤダ川沿いの主な山頂に「虫」を使わない地上中継網も作っておきたい。彼女に会うための紹介状は書いてもらっている。
・器用な技
ジェーン・ドゥからはこのことについて詳しく聞く時間を作れないでいる。ジェーン・ドゥ自身がこの能力を使えることは日誌にも書かれていたが、キューブに記録ができなくなって以降の木簡類には詳細な記述がない。これについては「器用な技」の遣い手であるヴォルタ・ドゥ・オーキョーを訪問するまでに詳しく聞いておくべきだろう。面会できなくても、αと短文のやりとりをしてもらうだけでもいい。
・セバヤン訪問
これはトヨンの後になると思う。トヨンで交渉してデルタが使えるようになってから、ハンナを伴わずに行くなら朝に出発して夜には帰ってこれる。「婿殿を歓迎」した上で「泊まっていけ」となる可能性もあるが。デルタが使えるなら午前中にカースンでハンナを拾ってから昼前にはセバヤンまでいけるとも思うが、ネリやエンリよりも先にハンナをデルタに同乗させるのは少し良くないかもしれない。その場合は、カースン近郊までデルタで移動して、カースン~セバヤンはバギーを使うことになるだろう。動くのは紹介状が届いてからだ。予告とか日程は、ハンナと話をした方がいいかもしれない。
・エンリ、ネリ、ハンナの受け入れ
マーリン7内での部屋は決めた。インプラントを使いこなす訓練にどこまで差を付けるかは悩ましい。中でも急ぎは、エンリだ。ヨークの店の予約も含めて「七月中に」やるべきことが山ほど控えている。ヨークの店の費用は、ご祝儀で幾分かは相殺されるが不足分は折半となる。十進数でも十二進数でも、きれいに二等分はしにくい金額になるだろうから、端数はオレが出しておこうと思っている。
・ジェーン・ドゥの影武者計画と治療計画
「顔ナシ」で運用していた小ニムエ五体にも顔を付けることにした。小ニムエ達の名称としてアルファベットは「E」まで使っているので、フェリシア、ジゼル、ホリー、イオナ、ジュリエットとした。うち、ジュリエットはジェーン・ドゥの替え玉とすべく、顔だけでなく手足の長さも変える。ジェーン・ドゥの世話係としてデージョーに送り込むのはフェリシアとジゼル。長期にわたってマーリン7を離れるので、メンテナンスのために交替できるよう、二体を割り当てる。だがこの二体はデージョーに送る前に両方とも内蔵バッテリーの増設や固形物摂取のような機能追加も必要だ。デージョーでの受け入れ体制も含めて、これから一~二週間ほどで準備をしよう。その後は「メンテナンスなし」での運用試験を経てから送り出す。この二体にジェーン・ドゥの動き方や話し方などを観察させて「ジュリエット・ドゥ・オーキョー」を完成させる。うまくすれば秋頃にはジェーン・ドゥ・オーキョーを連れ出せるかもしれない。小ニムエ達の運用を変えるので、船内定期点検のローテーションにも手を入れなければ。あと、ジュリエット以外の四体の指輪はどうしようか。
・ジェーン・ドゥの最初のカプセル探索
まずは写真とジェーン・ドゥからの追加聞き取りで最初の海岸の位置の推定精度を上げる。その後はベータの観測情報から附近の海底にそれらしいものがないかを探る。光学的に発見できるものであればいいのだが、見えないほどの深さに沈んでいたりすればまた別の手段が必要になるだろう。だがこれの優先度は低い。影武者がうまく使えるようになれば、本人を現地に連れ出すこともできるかもしれない。
マーリン7に戻ってすぐ、久しぶりにフォース・クォータの工作室に行ってみた。目的はガラスの確認だ。粒径で何段階かに分けた研磨剤で、小ニムエ達の体重で研磨した場合の最適解が出たと報告があったからだ。
「磨き終わったヤツを見せて貰える?」
「二番に積んであるわ。」
オレは手袋でガラスの一枚を持ち上げてみる。
「いい感じだね。次は銀か何かを貼ることになるのかな?。」
「その工程は、ノルンに頼もうかと思ってるの。蒸着は、ネゲイでは無理でしょ。」
「そうだな。明るくなったら何枚かノルンの所に持って行って、試してもらおう。材料はあるのかな?」
「昨日のうちにノルンとも話してる。銀箔は少し仕入れておいたわ。ベティをハパーの店に行かせたの。そこの板ガラスで十枚分ほどの面積は貼れるわ。糊になるものを変えながら試せるよう、準備済みよ。水銀を使わないことは、ノルンもわかってくれてる。」
「なら、明るくなったらノルンに現物を渡して頼もう。切断の道具は準備できてる?。」
「ええ。木工用だけど鉄筆も工房にあるわ。上手くいかないようなら、先だけ灼きを入れ直せばいいと思う。あと、紙の話だけど、道具類の発注仕様をまとめてあるから見ておいてね。問題ないようなら、今日中に発注したいわ。」
午前中は工房を経由してネゲイの町中で「紙」用の道具類を注文して終わった。途中で領主館にも顔を出している。ゴールは不在だったが、エンリには会えた。「お披露目会」の場所や招待客の案を書いた紙を預け、ゴールやダールとも相談して適当に加筆するよう頼む。今の案はオレがネゲイで親しくなっている人達に加えて、「エンリの友人数名」「ルーナ」「ソル」「ヤダで親しかった人数名」などと曖昧な書き方になっている。エンリに頼んだ上でリストが養父母であるゴール達に回れば、ネゲイでの社交に問題がないレベルで適宜書き加えてくれるだろう。
昼過ぎに工房に戻ると、ノルンは何かを組み立てていた。
「膠とか糊とか試してみましたけど、あまり満足できなかったんで、マコト殿の言ってた『銀の湯気を』って方法に使えないかと思いまして。」
「どういう仕組みだい?。」
「坩堝の上に、ガラスを載せられる台を付けたらいいかなと。多分、湯気になったら隙間からどんどん抜け出してしまうから、隙間をできるだけなくして、湯気を逃がさずにガラスに当てられるように、そんな形を目指してます。」
「木だと、弱くないかい?。使ってるうちに燃え出すかも。」
「これは仮組みですよ。坩堝の大きさと、ガラスの大きさに合う模型を木で作ってみて、.部品の寸法を決めたら鉄で、同じ大きさになるように鍛冶仕事です。」
オレの疑問にαにはすぐに答えた
『錫なら摂氏三百度にならずに融けるわ。銀だと融点が千度近いから、先にガラスがやられる可能性がある。この方法を使うなら、錫がお勧めね。試したことはないけど。』
「その方法だと、多分、銀より錫の方がいいと思うよ。色は悪くなるかもしれないけど。」
「そうでしょうね。融けるのが早いですから。」
ノルンも融点は意識していた。
「錫の手持ちはあるのかな?。」
「ええ。鏡の話だ出た頃に『銀か錫か』って話をしてたでしょ?。それほど高いものでもないですから、仕入れておきましたよ。」
品質管理的にはオレが提供できる純度の高いものの方が出来上がりのばらつきも少ないだろうが、継続的に作るという条件を考えたらネゲイで普通の流通網から手に入るものを優先するべきだ。
「私も少しは手持ちがあるよ。少し混ざり物とかは違ってるかもしれないけど。もし足りなくなったら言ってくれ。それ以外で、手伝えることはあるかな?。」
「単純に、マコト殿の手を通ったもの、マコト殿が直接何かをやった部分は、私や弟子達がやったところと、出来上がりが違ってる気がするんですよ。考え方だけ頂いて、全部自分の手でやったらどうなるか、それも見たいと思ってますから。」
オレが自分でやった紙漉きにしても、言葉に出していない、説明し切れていないコツのようなものはあるだろう。初見のノルン達が同じようにできないのは当たり前だが、それを気にしているらしい。ノルンの言葉は続く。
「マコト殿の考えを形にするのが私の仕事ですので、できそうなものは全部自分でやりたいんです。それに、多分銀でも錫でも湯気でそんなことをやったら、カースンで、ええと、カースンでそんなことをやった最初の人ですよ。十二年先の宰相様も認める『初代様』ですから、それなりの自慢できるものを……、あれ?、いや、三の四の……合ってる。」
ノルンは模型の寸法を確認する。
「そうか。でも本当に、単純なことでも、手伝って欲しい話があれば言ってくれていいからね。遠慮はいらない。」
「ええ。これを形にしてみて、思ったように鏡が作れなかったら、相談しますよ。」
今は、集中している人間の邪魔はしないでおこう。
工房の第一棟ではノルンが木組みをやっている横で、ノルンの弟子達が相変わらす蠟板とコンテナを作っている。第二棟では小ニムエ達が交替で紙を製造中。製紙のための設備は午前中に追加の手配をやったばかりなので、今は追加の改造とかは考えたくない。先週があまりにも濃厚な内容だったので、ネゲイでの日常のペースに戻れない。カースンへ行く前、こんな時のオレは何をしていたんだろう?。主には紙関係か。材料の採取とか、試作とか。昨日の今頃はモルにいた。眠くなってきたな。まだ四の鐘前だが、マーリン7に帰って寝ておこうか。
ヨール王二三年六月二七日(木)。
今日こそは日常に戻ろうと思いながら工房に到着。ノルンは昨日の仕掛けを作り終えていた。
「さっき火を入れたばかりでまだ温まってませんけど、これから試そうと思ってました。三の鐘の頃には、使えるかどうかわかりますよ。ダメでも、もう何回かは形を変えたりしてみるつもりですしね。」
「横で見ててもいいかい?。鞴で空気を送るぐらい手伝うよ。」
「ええ。ついでに、改造とか、気付いたことがあったら教えて下さいね。」
試作品は開口部の大きさが調整できるようになっていて、今工房にある約三十センチ四方のガラス全面の大きさに対応している。部分的に付着の薄い所への対応や、もっと小さなサイズのガラスを扱う時には開口部を絞るつもりだと説明を受けた。
ノルンは、試作を何度か繰り返すつもりだったらしいが、今日の実験は一回で上手くいってしまった。持ち込んであった研磨済みのガラス数枚を鏡として仕上げる。錫が酸化すると色が変わるだろうが、今はまだきれいだ。酸化防止には膠か何かを裏から塗っておくべきだな。オレが持っているもの、多分アルミニウムか銀を蒸着させているものよりは暗い感じの写りだが、実用レベルではある。なにしろ、手入れは拭くだけ。磨く必要はないのだ。
次の工程は、切ること。鉄定規と鉄筆で筋を入れる。何度も同じところを繰り返して削り、ガラスの厚みの半分弱程の溝が彫れたら裏から同じ作業を行う。やがてガラスは二つに割られた。切断面を見ながらノルンが言う。
「やっぱり切ったらこうなりますか。仕上げは木枠か何かがいりますね。このままだと触ったら怪我をしそうです。あと、錫を貼った面は膠でも塗っておきましょう。固いものが当たると錫が剥がれる。」
酸化対策としてオレが考えていた方法を、ノルンは傷防止のために提案した。反対する理由はない。
「錫が悪くなるのはちょっと心配してたんだ。何か適当な固くなるものを塗るのは、いいと思うよ。時間が経つと色が変わるから、それの防止にもなる。」
話をしながら思う。ウーダベーで「手」が可能なら、「酸化しない錫箔」も可能かもしれない。オーキョーの養女はオレには実現できていないウーダベーの使い方をしている。実験してみよう。だが、「酸化」に関する知識も必要かもしれない。そうであれば、オレにはできても他の人にはできない可能性もある。ただ、今のオレにはウーダベーは「マクスウェルの悪魔」式の使い方しかできていないが。
ノルンは蠟板用に仕入れてあった薄板を鏡のサイズに合わせて切り出し、これも蠟板用に融かしてあった膠を使って鏡に木枠を取り付けた。鏡の裏にも膠を塗っている。
「どうです?。膠が固まったら、これはヨーサ様に報告する話でしたよね?。」
鏡は石鹸から波及した話で、石鹸関連ならヨーサだ。だが仕入れにはバースも関わった。バースは工房への出資の責任者で、カースンでの「私的な茶会」で勧められた職人不足解消のための案として、技術を売る話にも関わっている。バースにも、情報は入れておくべきだ。
「バース様を含めて報告をしよう。研磨済みのガラスが工房に届いてからの分でいいから、原価計算をまとめくれないか?。研磨までの原価計算は船に置いてあるから取ってこよう。ノルンの計算とあわせて全体の原価が出たら、現物を持って領主館に行こうか。」
四の鐘前。領主館に着き、「鏡のことで」とバース、ヨーサへの面会を頼む。サンプルとして木枠を取り付けた鏡を渡す。ヨーサの部屋から出てきたジョーに、応接室へ行くように言われた。応接室で待っていると、バース、ヨーサ、ドーラ、それからこういう場には珍しくエンリの養母であるダールも入ってきた。着席したヨーサはサンプルの木枠付鏡をドーラに渡しながら言う。
「ハパーも呼びに行かせたわ。売値の話にもなるだろうから、商人にも声をかけておいた方がいいと思って。作り方とか、作るのにどのくらいかかってるか、手間と材料費ね。聞かせてもらえるかしら?。」
鏡はドーラ、ダールと順に手渡される。ダールは部屋の隅に控えていたジルを手招きした。声を出さすに口の動きだけで伝えている「タシカメテミテ!」。
ヨーサの質問は作り方と原価。基本的な事項なので話す内容も考えてある。ベティがコンテナから研磨前、研磨後、錫を蒸着させたもの、木枠付にした残り、四枚のガラスを取り出して工程の順にテーブルへ並べた。まず研磨前のものを指さして説明する。
「バース様達がモルで仕入れてきただけ、まだ何もしていないものがこれです。」
これだけの説明で、仕入れられたガラスがどのように変化したかは明かだった。最初の一枚はテーブルに置かれてはいても、ガラスとテーブルの間に隙間がある。
「モルではこの大きさで金貨一枚だったよね。マコト殿に預けてる工房で作るとして、売値は、ネゲイまでの運び賃と、ネゲイでの手間賃を足したものか。どのくらいかかったかな?。」
バースの問いにオレが答える。
「ガラスの形を整えるのは一日で三枚ほどでした。これはアン達がやってくれたんですけど、もう少し体の大きな人間なら一日四枚ぐらい、道具を工夫すれば更に枚数は増やせるかと思ってます。」
材料だけで計算すれば、大人一人の一ヶ月分の食費が大体金貨一枚に相当する。これは今の王様の代になってから誘導された経済政策の一つでもある。流通経費などがその「一枚」に含まれているにしても、凶作以外の理由で食糧がその値段で買えないとなると、誰かがどこかであまり誉められないようなことをやっているという目印になる。わかりやすい監視指標なので、物価は安定している。
生活のためには、生で仕入れた食料品以外に燃料費や衣類、交際など様々な費用が必要なので、一ヶ月、労働日数にして二五日間で、最低でも金貨二~三枚は欲しい。家族がいたりすれば必要額はもっと上昇する。
仮に一ヶ月の必要額を金貨四枚と仮定して(これは既婚者としては最低ランクに近い)、一日の研磨四枚、二五日で九六枚の仕事ができるとすれば、一枚あたりの手間賃としては金貨四枚=銅貨換算五百七十六枚の九十六分の一で、銅貨六枚となる。そうなると、磨きの職人の雇用主としては、設備費や消耗品費を上乗せして、手間賃としては銀貨一枚近くの価格設定にしなければ赤字だ。磨きが終わったら銀でも錫でもいいから蒸着の工程に入る。ここはノルンが計算している。ノルンは自分が持ち込んだ木簡と蠟板を見ながら話す。
「今日初めてここまできれいに作れた試作段階なので原価計算も誤差はありまして、それでも毎日これを続けるとして、ガラス以外の材料や燃料で、鏡一枚で銀でも一枚ほどではないかと思っています。だから、工房としては、磨かれたガラスを鏡に加工する工程では、切断や木枠の組み上げまで含めて銀三か四枚ぐらいかと思います。」
「磨きで銀一、仕上げに銀四。仕入れと合わせて、全部で金一と銀五くらいが最低ということだね。」
オレが答える。
「最低は、そのあたりでしょう。仮にハパーがその値段で仕入れたとして、彼なら倍以上の金三枚で売るかもしれませんが。」
切断前の鏡を見ながらドーラ言った。
「単純にこの大きさの物を銀だけで作るとしたら、そうね、最低でも銀貨二四枚ぐらいを鋳潰して、薄く広げて木枠にでも填めるんでしょうね。木枠ナシならもっと厚みがいるから、銀貨四八枚?。もっと?。なら、材料費で金貨四~五枚、手間賃を入れたら金貨六枚になる。その上で、これは磨き直しとか、ほとんど手間かがかからないんでしょ?。金貨で七以上よ。ハパーが金貨十二と言っても驚かないわ。ネゲイだけで作るなら、競争で値下げとかを考えないなら、わかりやすく金十二で始めてもよさそうな気がする。」
話しているうちにハパーが到着した。ヨーサが改めて状況を説明する。ハパーはテーブルから木枠付の鏡を手に取って自分の顔を写してみている。
「ハパー、あなたならこれが幾らで売れると思う?。」
「今までに例がなくて、値付けが難しいです。『鏡』。今在庫にも何枚かありますけど、材料や飾りで色々変わりますけど、掌の大きさでも金貨四~五枚からです。縁起物ですからね。」
翻訳の中に気になる単語が出てきた。視界に重ねられる翻訳文の中でも文字色が変わっている。
「『縁起物』?。」
「そうですよ。光を呼び込むとか、そう言う意味で代々受け継がれたり、分家を作る時に贈ったりします。ちょっと前、石鹸の話を聞いて、その話の中で鏡で自分の顔の変わり方を見たとか聞いて、どんな鏡だろうとか思ってましたよ。」
ネゲイで鏡のことについて話すことが増えたのは石鹸がきっかけだった。用途が違っていても機能が同じなら翻訳は通じる、ということだろうが、オレが思う「鏡」は実用品で、彼等の感覚による「鏡」は縁起物の装飾品だ。文化摩擦の原因になりかねない。少しそのあたりも気を付けるようにしよう。だがそうすると、カースンで鏡の話をした相手である宰相殿と王様がどんなニュアンスで「鏡」のことを感じていたか、疑問も感じるが。
「ここでは鏡はそういうものか。」
「ええ。きれいに磨かれた固い金属の模様のない板。光が当たると別のところを照らす、よく手入れされたものは自分の顔がわかる程になるけど滅多にそこまで手入れされたものはない。そんな感じですかね。鏡で自分の顔を見るとか、マコト殿が石鹸の使い心地を確認してもらうために自分の鏡を持ち歩くまでは、そんな使い方をしようとか誰も思ってなかったと思ってますよ。いわば、『鏡の概念を打ち破る新しい鏡』ですね。」
「概念」とか、何処でそんな単語を集めたのかと思ったが、ベンジーでの数学談義だった。数学は役に立つな。ハパーの話は続いている。
「飾り物なら、これを金貨で最低十二枚から始めましょう。」
ハパーは切断されていない三十センチ四方の鏡を指さしながら言う。
「原価をまだ聞いてないですけど、注文があったときだけ作る、そんなペースで、金十二枚なら広まりは遅いでしょうけど、まあ、考えることはほとんどありません。でもこれは、石鹸で顔や頭を洗った前後をわかりやすくするために作り始めたのでしたよね。今までの鏡とは使い方も違う。今までと同じには、家のお守りとして飾るには、ちょっとそぐわないかと思います。雰囲気も明らかに違うし。形や大きさはこれが基本ですか?。この木枠付きの小さいもの、新しい鏡の新しい使い方、これで上限金貨一枚あたりから?。銀六ならみんな買いますよ。普段使いとなると、どのくらいまで下げられます?。あと、職人が足りない話はどうなってます?。」
ハパーの幾つもの質問にバースが答えた。
「この前儂がマコト殿達とカースンに行ってたのは知ってると思うけどね、『色々やりたいことはあるがネゲイだけでは人が足りない』という話から、モル出身の宰相閣下が『モルからガラスを仕入れてネゲイで鏡に加工する』という案を出したんだ。話がうまく運べばモルも儲かるしね。カースンから帰る途中、モルでガラスを仕入れて、今日持ち込んだのはそのガラスで作ったものだよね。ええと、ノルン、さっきマコト殿から『磨きで一日四枚』って聞いたけど、ノルンはガラスに銀を貼って鏡にする部分をやってるんだよね。一日でどのくらいできそうと思ってる?。」
ノルンはまた自分の蠟板を見ながら答える。
「銀じゃないんですけど、炉さえ暖まってれば、一日で十二枚とか二四枚とかはできそうですね。切る分は除いて。適当な大きさに切って木枠を付けてとなると、元の大きさの鏡十二枚で一日かかりそうです。仮に一人で全部となると、磨きを三日、錫貼りと切り出しでそれぞれ一日ずつ、合計五日で、元のガラス十二枚分の仕事になりますかね。一週間ですか。計算には便利そうです。でも結局、ガラスを作る部分を除いても、ネゲイで一人か二人職人をこれに割り振ることには変わらないんですけどね。」
「また、『やり方を売る』ことを考えてるよ。紙ではその方針でカースンと話をしてるからね。ハパー、さっき『木枠付で切ったものを銀六から金一枚くらい』で売りたいとか言ってたよね。」
「ええ。部屋の飾りじゃなくて、自分の顔を見るための道具として、誰でも買える、売った我々も儲かる、そんな値段ならそのくらいかと。」
「ノルンとマコト殿には、作り方の値段設定について考えてもらおうかな。磨き方と、銀の貼り方、切り方、そのあたりで値段付けをして、ハパーが言った『木枠付で金貨一枚まで』に納めようと思ったらどんな計算になるか。まあ、ダメならもう少し高く売ってもいいよ。そのあたり、ハパーとも相談してね。で、『紙』の視察が来るときに話をするか、鏡の話だけで一度カースンに行くかだね。そのあたりは、これから何日かのうちにまとめよう。」
作り方は確立したが、売り方も含めての話は時間がかかる。




