マイ・ヒーロー 前編
モデルの仕事が終わってスタジオを出ると、見慣れた白い車を見つける。強くなってきた雨に濡れるのも気にせず駆け寄ると、手を伸ばして助手席のドアを開けてくれるカレ。
「おつかれ」
「うん、ありがと」
シートベルトを締めて落ち着くと、暖房の効いた車内に、ほうっと息をついた。耳に心地よいクラシックが、私を包み込む。
「今日はどうだった?」
緩やかにアクセルを踏みこんだカレの、この言葉もお決まり。居心地の良さに、流れるクラシックに合わせて、適当な歌を口ずさんでみる。
「いいことがあったみたいだね」
目をふわりと細めて笑う、カレ。うん、と笑顔を返すと、今日あった出来事を話し始めた。相づちも何もないけれど、ちゃんと聞いてくれているのはよく分かっているから、どんどん話してしまう。
「……でね、マネさんったらね、あわてちゃって」
内容のない話でも、カレはいつも通り笑って聞いてくれる。調子に乗って喋りすぎると、ちょっと困ったような顔をするけれど、そんな表情も好きだった。
「相変わらず、楽しそうだね」
「うん! マネさんも、今の社長も、いい人だよ」
「そっか、よかったね」
信号が変わって車を止めると、カレが大きな手で頭を撫でてくれる。つい、えへへ、と素直に喜んでしまうのだった。
「……安心した」
青信号とともに動き出すと、めずらしくカレが真面目な顔をしている。私は首を傾げた。「んー? どうしたの?」
「うん? だって、キミが楽しそうに仕事の話をするから。もう、不安もない?」
やわらかい声で、ゆっくり話してくれるカレ。こうやって、ささいな部分で気遣ってくれるのがすごく嬉しい。
「……ちょっとだけ。やっぱりね、怖いよ。でも、マネさんが大丈夫って」
「マネージャーさんのこと、信頼しているんだね」
「もっちろん。今日もね、カメラマンのクマさんから私のこと守ってくれたんだよ」
「クマさんって、おやじギャグが多いあの……?」
「うん、今日はすーごく絶好調だったんだー。困っちゃった」
ふふっと笑ってカレを見上げると、カレも困惑したような顔をしていた。私のためにこんな顔をしてくれる。そんな人がいるだけで、ふわふわした心地で、なんだか幸せだった。
「マネさんが守ってくれるから。事務所では大丈夫だよ。前の社長みたいに、目の前で脱いでごらんって言う人もいないし。それに、お外では守ってくれるでしょ?」
えー、と口では言いながら、毎日こうして迎えにきてくれるのが、なによりの証拠。近所に住んでいるという前の社長に、万が一にも鉢合わせてしまわないために、一年経った今も続けてくれている。わかっているから、安心して車に乗っていられる。
窓の外を見ると、今朝家を出たときと変わらない一面雲の空色。けれど、カレが隣にいて、耳になじんだクラシックに包まれている今、とても気分がいい。
「ね、デート行こう、デート」
ワクワクして誘うと、目を大きくして、それからほんのちょっぴり呆れたような顔をした。
「付き合ってないんだから、簡単にデートなんて言わないの」
翌日。
昨日とは打って変わって、すっきりといい天気。
「じゃあ、いってきまーす」
事務所まで送ってもらった、車から飛び降りる。日差しもぽかぽかとして、いい気持ち。
それに、今日はなんと言っても、お気に入りの服を着てきたのだ。昨日のデートで、カレが買ってくれた、お花の柄が入ったトレーナー。
これまでにないくらい晴れやかな気持ちで自動ドアをくぐると、細い廊下へ。三つあるドアのうち一番奥が、私の他に六人が一緒に使う楽屋だ。
「おはようございまーす」
部屋に私の声だけが大きく響いて、ちょっと寂しい。
まだ誰も来てないんだなー、と独りごちてミラーの前に座った。鼻歌を歌いながら、カバンの中から水筒とメークセットを取り出して並べる。リップを手直ししたところで鳴る、ノック音。
「はーいどうぞ」
パタパタと広げた道具を仕舞っていると、マネさんが入ってきて隣に立つ。
「おーはよ。今日は夏ワンピースの撮影だったかな?」
「おはようございます。そうです、よく覚えていましたね。そのあとはレッスンもあるので、忘れないでくださいね」
「うん、ありがと。衣装これー?」
更衣室横のラックに歩み寄り、一枚ずつ確認する。肯定の返事とともに、ここからここまで、と範囲を示された。
「……わ、いっぱいある」
「着せ替え人形ですね。最初は、白いロングワンピースからだそうです。十分後に撮影スタジオまで、お願いしますね」
「はーい」
パタンとドアが閉まると、早速着替えてクマさんが待つスタジオへ。チラッと目に入った窓の外に、ふと足を止める。少し雲が出てきているみたいだった。
「え……応接室に?」
撮影が終わると、かすかに青ざめたマネさんが駆け寄ってきた。
「前社長が、いらしてるんです」
「っ……!」
私の表情がこわばったのを見たのだろう、あわてたように付け加える。
「無理に行くことはないと思います。私が代わりに行ってもいいですし……」
「マネさん……ううん、私、行くよ」
楽屋への廊下を急ぎながら、そっと表情を消した。本当のことを言うと逃げたくてたまらなかったけれど、マネさんの心配そうな顔を見たら、なんだか負けちゃいけない気がして……
「お話しするだけだよね。マネさんが隣にいてくれたら、私大丈夫だから」
隣で悲しそうな顔をするマネさんを見上げた。
そのちょうど真後ろに、窓があった。大きな水滴がたくさんついた、窓。撮影している間に、こんなにも降り出してしまっていたんだ。
「大丈夫、私ちゃんとやれるよ」
まったく納得していない様子だったけれど、一応はうなずいてくれて、応接室へと足を向けた。
あの人がまた、ここへ来ているなんて。
会う前から泣き出しそうだったけれど、ふんばってドアを押し開けた。




