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ねこときみ  作者: 廣瀬伶
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マイ・ヒーロー 後編

「失礼します」

 机を挟んで向かい合ったソファ。上座側でふんぞり返っているまるいおじさんを見つけて、背筋が凍るような気がした。

 この事務所の前社長、私にいやらしいことをたくさんしてきた、とても嫌いな人。

 無意識にマネさんの服の袖を掴む。マネさんは歩調を緩めてくれた。

「お待たせいたしました。本日はどのようなご用件でしょうか?」

 話すのはマネさんに任せて、ただ目だけはそらすまいとしてじっと見据える。「どのようなも、何もなくてだねー」あのときと変わらない、間延びしたようなしゃべり方に、お腹の中がもぞもぞと気持ち悪くなった。

「僕は君と話がしたいのだよ。マネージャーはいらない。席を外してくれるか」

「いえ、そういうわけには……」

「僕は社長だよ。……ああ、言っていなかったね。復帰することになったんだ。今日から。あんな弱々しい社長は追い出した。……ほら、社長の命令だよ、部屋の外へ」

 ウソだ、と思った。けれど、いやらしい目つきでこっちを見ると、私の心を読んだみたいに、にたぁ、と笑った。こみ上げるおぞましいような嫌悪感をこらえきれず、目をそらしてしまう。

「本当さ、ここに書類がある。確認するがいいよ」

 バンッと机に叩きつけたものを、マネさんが急いで確認する。その横顔が、真っ白になっていくのがよくわかった。

「……マネさん?」

 呼びかけた声が、震えていた。

 本当なんだ、って聞かなくてもわかる。嫌だ。怖いもん。

 ぎゅっと両手を握りしめて、もう一度マネさんを見上げると、頑張って何か考えているようだ。

「……マネさん? 私ね、大丈夫。行って。ちょっとお話しするだけだから、ね?」

「でも……」

「彼女の言う通りだよ、早く外へ」

 思案するようにうつむいて、それから私を見たマネさん。小さくうなずいてみせると、不安げにうなずき返してくれた。

「何かあったら、すぐに呼んでくださいね」

「うん、マネさん、あとでね」

 踵を返して出て行く背中に、社長さんが声をかける。

「ああそれと。ドアの外で待っていようなんて、考えないように。遠くへ、そう、楽屋へ行きなさい」

 マネさんは答えなかった。

 けれど、あきらめたような雰囲気から、社長の言うことに従うんだって、直感してしまった。行かないで、なんて言えない。

 一人ぼっちで、戦わなきゃ。

 もう一度、お腹の大きなおじさんをキッと睨みつけた。




「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。あれから一年も経ったんだ、君がどのように成長したのかも、僕は知らない。今後、君を大きく売り出していくために、まずは君を理解しなければ」

「…………」

 このおじさんは、あきらめが悪い。どんなに汚い手を使ったのかわからないけれど、こうして戻ってくるくらいだ。それはもう、信じられないくらいに。

「ほら、あの頃と同じように、隣へ来てみるといい。さあ、僕の隣だよ」

 目尻をこれでもかと下げて、口で三日月を描いて、手を広げる。滑稽なおじさん。

 じっと座り込んだまま動かないでいると、少し怒ったように立ち上がった。ビクッと肩が震えて、なにも考えられなくなった。

「そこを動きたくないなら、僕が隣へ行こうかな。ちょうどもう一人分、ソファが空いているね」

 大きく体を揺らして、机を回り込む。やめて。来ないで。心の中で拒絶するけれど、この人がやめるわけがない。

「ほら、肩の力を抜いてごらん。僕があたためてあげるよ」

 短くて太い腕が、迫ってくる。

 しめつけられるように抱きしめられると、甘ったるい香水の匂いがした。気分が悪くなって、頭がくらくらする。

 けれど、私が逃げないことに気分を良くしたのか、腕を緩め解放すると、今度は頭のてっぺんからつま先までじろり、と見た。舐められているような感触の視線。体が冷たくなっていくような気がした。

「もっと、君の素の姿を見ないといけないね。ちょっと、服を脱いでみようか」

 内臓が全部、凍ってしまうような感覚……唇を噛みしめてこらえる。

「……いや、です」

「うん? なにか言ったかい? すまないね、耳が遠くなってきて。歳のせいかなー」

 ぐっ、と顔が近づけられて、いっそう香水の匂いがきつくなる。大きな耳が目の前に迫って、胃の中身どころか、胃が丸ごと全部口から出てきてしまいそうで、ぎゅっと目をつぶると、叫ぶように言った。

「脱ぎません!」

 ハッとして口を閉ざしたけれど、ほんの十センチ目の前にある頭が、耳が、みるみるうちに真っ赤になって、ブルブルと震えだした。

 ぎろり、と見開いて血走った二つの眼に捉えられると、もう動けなかった。心も体も竦みきって、これっぽちも動かない。

「しょうがないね、僕は仕事でやっているんだよ。ほら、暴れちゃダメだ」

 今日着てきた服。カレが昨日のデートで買ってくれた、お気に入りのトレーナー。それに手をかけられると、もう何がなんだか分からなくなって、抵抗することも忘れてしまった。

 たまに弱々しく、やめて、と言うけれど、聞く耳を持たないおじさんに、声どころかその想いが届くはずはなかった。

 また、これの繰り返しなのかな。

 つんと鼻の奥が痛んで、じんわり涙が浮かんでくる。

 このおじさんに気持ち悪いことをされて、このおじさんを満足させる日々なんて。

「入るぞ!」

 大きな声が聞こえて、我にかえる。

 力なく入口の方を見ると、息を切らした、カレがいた。

 幻……?

 大嫌いなおじさんに襲われて、いやでたまらなくて、幻でも見ているのかな。

「取り込み中だ、出て行ってくれたまえ。それに、よそ者の入っていい場所じゃない」

 あごの下の肉なのか、皮なのか、ぷるぷると揺らして怒るおじさんを見上げる。私の服を脱がそうとしていた手は、動くのをやめていた。

「よそ者はどっちだ!」

 カレの声が、ぼんやりと聞こえる。こんなに怖い声を出しているのは、聞いたことがなかった。ちょっとだけ驚いて見つめる。

 ううん、これもひょっとすると幻かな? 助けてほしいって思ったら、きっと、私の頭がこんな想像を始めちゃったんだ。だって、カレか事務所の中まで来るはずがないもの。

 しかし、駆け寄ってきたカレは、おじさんを押しのけると私に手を伸ばした。

「ごめん、迎えが遅くなって。帰るよ」

 カレにお姫様抱っこされると、嗅ぎ慣れた車の匂いが、ふわっと香る。本物だ。そう思えると、もう怖いものはなかった。

「僕の会社の大事な、モデルをどうするつもりだ。それは僕のものだ!」

 大きなお腹を震わせて、カレの背中へ飛びかかるが……なにも言わずにそれを振り払い、カレは走り出した。

 待て、とか、訴えるぞ、とか、叫んでいるのが聞こえたけれど、カレは沈黙したまま。私はカレの服をぎゅうと握って、ただその温もりに身を寄せていた。

 車に乗せられ、いつも通り安全運転で走り出したけれど、カレは口を閉ざしたままひたすら前だけを見ていた。

「あの……さ。ありがと、助けてくれて」

 いつもなら右折する曲がり角を無視して突き進むカレに、声をかける。まだ全身の震えが収まらなかったけれど、いつもと同じ温度、いつもと同じ匂い、いつもと同じ音楽……気持ちを落ち着かせるには十分だ。

「……怖かった?」

 問いかけるカレの声は、いつも通りやわらかい。けれどどこか、私と同じだった。

 震えていた。カレも、私と一緒に震えていた。カレも、きっと怖かったんだ。

 数多の雨粒にゆがんだ景色を見ながら、カレと一緒に震えた。


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