オフのきみ
キッチンに立つ、君の足にすり寄る。楽しげな鼻歌が途切れて、大きな瞳が僕を見下ろした。
「おーはよ」
見上げる明るい声に、小さく鳴いて応える。満足そうに微笑んで手を拭った君に抱っこされると、ふいに不思議な匂いが鼻をついて、周りを見渡してみた。
普段はつまらないほど綺麗に片付いているキッチン台の上に、所狭しと並ぶ丸や四角の道具たち。銀色の丸の中に入っている三つの白い丸は、きっと卵だ。ゆで卵かな。あの匂いがしたんだなあ。
「もしかして退屈だった? でもね、今日は料理することに決めちゃったの。だから、ちょっとだけ待っていてね」
淡い色の虹彩、その中心に据える真っ黒い瞳。そこに映り込んでいる光は、シンクの上の味気ない蛍光灯だというのに、キラキラとしていてつい見惚れた。
「そんなに見つめても、だーめ。いい子にできるなら、キッチンにいてもいいよ」
膝を折って僕を床に下ろすと、君は手を洗ってまた料理の続きに戻った。くさいゆで卵は冷蔵庫に仕舞って、野菜を切っている。
トコトコと気持ちのいい音。ちょっと不器用に乱れるそのリズムは、華奢な背中の真剣さとあいまって、キラキラの星をともなって見えた。ぴたりと動かない足の間に入り込んで頬ずりをしたくてたまらないけれど、いまは食器棚で我慢する。明るい茶色の食器棚に横腹をこすりつけて、小さく一声鳴く。もう一度、今度は背中をすりすりとして、大きなあくび。
今日は君が丸一日そばにいてくれる、「オフ」という素敵な日だ。
せっかくの「オフ」なのだからもっといっぱい構ってほしいと思ってじっと見上げると、タイミングよく君が話し始めた。
「今日はね、いいもの作るんだよ。当ててみる?」
ニンゲンの食べ物のことはまったくわからない僕は、首をかしげた。くさいゆで卵を使った料理など、余計に想像がつかない。
「ヒント? しょうがないなー。私のね、大好きだった人の、いちばん好きな食べ物なの」
僕は何も言っていないが、楽しそうに会話をしているかのような様は、そばにいてとても気分がいい。キッチンの床でそのままくつろぐ。
「ねえ、わかった?」
首をめぐらせ僕を見下ろすが、食器棚に背中を預けたまま首を傾けるだけ。だって知らないもの。
「難しいかー。じゃあ、出来上がってからのお楽しみね」
ふふーっ、と声を出して笑う、いつにも増してごきげんな君は、お肉をこねはじめた。ねちねちと聞こえる静かな作業音、真剣な息遣い。白く濁っていくビニル手袋、まわる銀のボウル。じいっと見上げていたけれど、だんだんと心地よくなって、夢の世界へと沈んでいった。
ふんわりといい匂いが漂ってきて、目を覚ます。ぱちりぱちりと瞬いているうちに、君の脚が目の前を横切った。
歌詞も楽譜もない、即興で奏でる鼻歌に乗って、踊るように。真っ赤で大きな手袋をはめると、棚の中段を覗き込んでいる。やおら立ち上がって足を鼻先でつつくと、びっくりしたように足が跳ねた。
「わ……起きたの?」
大きな目をもっともっと大きくしてみせる君に、なぜそんな顔をするのだかわからなくて、ただ見上げて固まってしまった。
「驚かせた側がきょとんとしちゃってる……もう少しで完成だからね、答え合わせだよ」
なにがでてくるかなー。
歌うようにつぶやいて、オーブンを開ける。ほわほわの煙に続いて君が取り出したのは、オレンジ色の器。四角くて、なんだか重たそうだ。
重たそうな四角を傾けて、小さいお皿に流し込んでいるのは、油かな。とろっとしていい匂い。舐めてみたい。
けれど、キッチン台に飛び乗ると思いのほか暑くて、舐めたら火傷でもしそうだ。諦めてじっと見つめる。
ほかほか湯気を立てるお肉の塊を大きなお皿にひっくり返して乗せると、四角を置いてふう、と一息。やっぱり重たかったんだ。労いに手の指へ頬ずりをした。
「ふふ、ありがとう。あとはソースだけ。もう一踏ん張り」
ふうわ、と目元を緩めて微笑むと、さっき流し込んだ油みたいな液体をフライパンへ。換気扇の音がゴーッと鳴ると、僕はあわててキッチン台を飛び降りた。君の足へ身を寄せて、じっとする。
震えてしまいそうなほど怖がっている僕をよそに、ふんふんと鼻歌を再開させて、フライパンをふるう君。赤や茶色の液体が中へ投入されるのをチラチラと見上げながら、大きな音に首を縮こませてじっとしていた。
「あとは盛りつければ……ミートローフ、完成だからね」
それから、あっと声を上げる君。
「もー、言っちゃった。あーあ、ヒミツだったのに」
残念そうにしながら、声だけは楽しそうで。僕は、なんとなくその料理名の響きが懐かしくて、じっと君を見上げた。君は照れたように舌を出した。
包丁を持った君が大きなお肉の塊を切っていくと、中から白と黄色の丸が出てくる。くさいゆで卵は、ここにいたのだ。
大皿に、レタスとトマトと、スライスしたミートローフ。
満足そうに笑う君と、今日は一緒のランチ。
僕用に、いつもよりちょっぴり高いご飯とミルクを並べてくれて、君はやわらかいフランスパンを持ってきて。
「せーの。いただきます」




