あめときみ
「雨だ……」
不意に聞こえたそんなつぶやきに目を覚ます。ピクリと耳を揺らしやおら瞼を持ち上げると、薄暗い窓の外をじっと見入る君。
ぽっかりと開いた口に、揺れぬ長い睫。雫に濡れた透明なガラスをうつす瞳は、黒く湿っていた。
やだなぁ、濡れちゃう。
感情を含まない声とともに振り返ると、ぺたぺたと歩いて洗面所へ。すっかり暖かくなってきた最近はもちろん、冬でもはだしでいるキミの足音は、耳によくなじんでいる。
天気を確認したあとは、髪型を整える時間だ。沈黙の十数秒。それを待つと、ひかえめな鼻歌が聴こえてくる。即興で気分のままに奏でる旋律に、秩序はない。今朝はしとやかなメロディー……おそらく、ハーフアップといったところだろうか。
この時間が好きだった。
君の姿は見えないけれど、君の心が部屋を満たして、僕はそれに包まれて。毎朝のこの時間が好きだった。
数分して舞うような足取りで戻ってきた君は、淡いブルーのリボン付きの、ハーフアップスタイル。動きに合わせてふわりと揺れる髪に、さっきのメロディーが絡むようで、綺麗だ。
「ねえ止まないかなぁ」
テーブルに鏡とメークセットを広げると、なんと言ったか、液体を手にとって顔全体に広げている。僕は首を傾いでそれを見上げる。
「……聞いてる?」
パタパタと粉をはたいていた手を止め、じっとこちらを見下ろす。目と目が合って、時間が止まったようになって、僕は閉口した。もじりと前足を動かしてみると、あきらめたようにおしろいを仕舞った。
次に何やらパレットを広げ、小さな筆を取ると唇を噛んで悩んでいる。あーでもないこーでもないと、独り言がもれるが、それですらひとつの歌のように聞こえて、心地よさに目を閉じた。
ぽつり、ぽつりと気の向くままに降ってくる君のおしゃべりは、大した感情も含まれない声なのに、どこか魅かれる。穏やかなのか、単調なのか、区別もつかないような平ったい声なのに、だ。
「……あー。雨、止まないなぁ」
いつの間にか眠ってしまっていた僕は、レインコートを広げるキミを見上げてぱちりと瞬いた。今朝はもう出かける時間なのか。
足もとへ歩んでいくと、頬ずりをする。僕がニンゲンなら、ハグでもキスでもなんでもするところだが、あいにく四足歩行のケモノだ。だからこれが、猫の僕なりの、あいさつ。今日も一日何事もないようにと願う、朝のおまじない。
「もう、くすぐったいよ」
跳ねる声とともに、抱き上げてくれる君。整った顔を目の前に、ぴたっと固まってしまう。日課になっているこの行為であるが、こうまで近くに迫ると、どうにも照れてしまうのだ。
「いってきます」
ぎゅう、と抱きしめられると、君の匂いがふんわりと僕を包みこんだ。淡くひろがる、大好きな匂い。今日は雨の匂いと混じりあって、不協和音を奏でている。居心地のいい、妙なハーモニーだ。
ばいばい、と手を振った君が消えた玄関で、かすかに響く和音に耳を傾けていた。




