王国一の鍛治師
# 王国一の鍛治師
「その目って、何ですか」
カイルの問いが、薄暗い工房に落ちた。
ガルドは答えなかった。
老人はカイルから視線を外すと、手元の鎌へ目を戻した。
シャッ。
シャッ。
砥石が刃の上を滑る。
先ほどまでと何一つ変わらない、落ち着いた手つきだった。
まるで、カイルの弟子入りなど、最初から取るに足らない話だったかのように。
「帰れ」
ガルドは、鎌を研ぎながら繰り返した。
「待ってください」
「話は終わった」
「俺は七年間、あなたを捜していました」
「それで?」
あまりに冷たい返事だった。
カイルは、両手に持ったナイフを強く握った。
布越しでも、不揃いな刃の形が手のひらへ伝わってくる。
「七年前、広場であなたが魔剣を打つところを見ました」
ガルドの手が、一瞬だけ止まった。
だが、すぐに砥石の音が再開する。
「あの日から、ずっと鍛治師になるために勉強してきました。鉱石の種類も覚えた。炉の扱いも、鉄を打つ順番も見てきた。まだ正式に教わったことはありません。でも――」
「だから何だ」
「せめて、これを見てください」
カイルは一歩踏み出し、ナイフを差し出した。
「俺が作りました」
ガルドは鎌から目を上げなかった。
「見たところで、答えは変わらん」
「それでもです」
「しつこい小僧だ」
「七年待ったんです。これくらいで帰れません」
砥石の音が止まった。
ガルドがゆっくりと顔を上げる。
鋭い目に見据えられても、カイルはナイフを引っ込めなかった。
しばらく二人は無言で向かい合った。
やがてガルドが、深いため息をついた。
「そこへ置け」
作業台の端を指さす。
カイルは布を広げ、ナイフを置いた。
ガルドはすぐには手に取らなかった。
先に研いでいた鎌の刃を布で拭き、光へかざす。
刃先の状態を確かめると、木の枝を細く裂いて作った覆いを刃へかぶせた。
鎌の柄には、麻紐で小さな木札が結びつけられている。
カイルは何気なく、その文字を読んだ。
――北畑、ロイス。
人の名前だろうか。
「それは、誰の鎌ですか」
カイルが尋ねると、ガルドは鎌を壁際の棚へ置いた。
「お前には関係ない」
「でも、王国一の鍛治師が、どうして鎌なんかを――」
言い終える前に、ガルドの目が細くなった。
「鎌なんか、か」
「……悪いと言っているわけではありません」
「なら、どういう意味だ」
「ガルド様は、魔剣を作れる人です」
カイルは工房の中を見回した。
外から見たときにも違和感はあった。
だが、こうして中へ入ると、想像との違いがよりはっきりと分かる。
国宝級の魔剣を生み出した鍛治師の工房。
カイルはここへ来るまで、何度もその光景を思い描いていた。
壁には宝剣や魔槍が並び、棚には見たこともない魔鉱石が積まれている。
炉には魔法陣が刻まれ、七年前に見た黒赤い炎が燃えている。
そう思っていた。
しかし、実際の工房は違った。
中央にあるのは、ありふれた石造りの炉。
側面には何度も補修した跡があり、耐火煉瓦の色も一つ一つ違っている。
金床も古い。
角は丸くなり、表面には無数の槌痕が残っていた。
壁に掛けられているのも、剣や槍ではない。
大きさの違う火箸。
何本もの金槌。
平たがね。
砥石。
鉄を測るための定規。
どれも使い込まれ、煤と油で黒くなっている。
そして工房の隅には、壊れた日用品が積まれていた。
刃の欠けた鍬。
底に穴の開いた鉄鍋。
片方だけ異様にすり減った馬蹄。
軸の折れた蝶番。
柄が抜けた包丁。
歪んだ火箸。
町の工房なら、どこにでも持ち込まれるような物ばかりだ。
魔力を宿した品は一つも見当たらない。
「あなたなら、もっとすごい物を作れるはずです」
カイルは言った。
「魔剣や、魔法の鎧や、英雄が使う武器を」
「鎌より剣の方が偉いのか?」
「偉いというか……」
「鍋より鎧の方が価値があるのか?」
「同じ鉄を使うなら、鎧の方が――」
「高く売れる。名が残る。王侯貴族が喜ぶ」
ガルドが淡々と言葉を継いだ。
カイルは否定できなかった。
ガルドは、それ以上何も言わなかった。
作業台に置かれたナイフへ手を伸ばす。
ようやく見てもらえる。
カイルは自然と背筋を伸ばした。
ガルドはナイフを持ち上げ、まず刃の側面を光へ向けた。
次に、切っ先から根元までを目で追う。
親指の腹で峰をなぞり、刃の厚さを確かめる。
柄を握り、何度か持ち替える。
カイルが共同鍛治場で見てきた職人たちは、刃物を渡されると最初に切れ味を確かめていた。
紙を切る者。
木片へ刃を当てる者。
爪の表面へ軽く乗せる者。
だが、ガルドは何も切ろうとしなかった。
代わりに刃の腹を指先で弾いた。
キン。
小さな音が鳴る。
ガルドは耳を傾け、今度は峰を作業台の木枠へ軽く当てた。
コン。
低く濁った音。
それを聞いた老人の眉が、わずかに動いた。
「材料は」
「共同鍛治場でもらった鉄くずです」
「一枚か」
「三つをまとめました」
「どうやって」
「熱して重ねて、叩きました」
「温度は」
「色で見ました。明るい橙色になったところで」
「三つともか」
「……同じくらいだったと思います」
ガルドは返事をせず、刃を横から見た。
「一つだけ、温度が足りていない」
カイルは目を見開いた。
「分かるんですか」
「音が途中で死んでいる」
ガルドは刃の中央を爪で軽く叩いた。
キン。
続いて、柄に近い部分を叩く。
コッ。
確かに違う。
カイルにも聞き取れた。
だが、それは違いを指摘された後だから分かっただけだ。
「ここは、うまくついていない」
ガルドが刃の根元を指した。
「強くひねれば剥がれる」
「でも、普通に使う分には――」
「普通とは何だ」
カイルは答えに詰まった。
ガルドは刃を裏返す。
「切っ先は薄すぎる。腹は厚すぎる。刃の線も波打っている。焼き入れの温度が高すぎたな」
「炉の火が安定しなかったんです」
「道具のせいにするな。安定しない炉だと分かっていたなら、それに合わせろ」
言葉が胸に突き刺さる。
カイルは唇を噛んだ。
それでも、逃げずに聞いた。
「直せますか」
「直すだけならできる」
「なら――」
「だが、直してどうする」
ガルドがナイフを作業台へ置いた。
「これは、何を切るために作った」
「何をって……ナイフです。革でも、紐でも、木でも切れます」
「試したのか」
「木片は削りました」
「誰が使う」
「俺です」
「何をするために」
「それは……必要なときに」
「一日に何度使う。どこへ持っていく。濡れる場所か。火のそばか。素手で握るのか、手袋をつけるのか。硬い物を切るのか、柔らかい物を切るのか」
質問が次々に飛んでくる。
カイルは一つも答えられなかった。
そんなことは考えていなかった。
自分が考えていたのは、刃の形と、切れ味と、見栄えだけだ。
どうすれば剣らしく見えるか。
どうすれば鋭くなるか。
どうすればガルドに、才能があると思ってもらえるか。
「刃物は、切る物によって形が変わる」
ガルドが言った。
「肉を切る刃。木を削る刃。皮を剥ぐ刃。縄を断つ刃。同じ形に見えても、厚さも、重さも、刃の角度も違う」
「全部切れるように作ればいい」
「それで出来上がったのが、これか」
カイルは黙り込んだ。
ガルドはナイフを持ち上げ、柄をカイルへ向けた。
返される。
やはり認めてもらえなかった。
そう思ったが、ナイフを受け取ろうとしたカイルの手が触れる前に、ガルドが問いかけた。
「これは誰のために作った」
「さっき言いました。俺が使うためです」
「違う」
「何が違うんですか」
「お前は、このナイフを使うために作っていない」
カイルは眉を寄せた。
「使うためです」
「なら、何に使うか答えられるはずだ」
「それは……」
「もう一度聞く」
ガルドはナイフを返さず、カイルの目を見た。
「これは誰のために作った」
工房の中で、炉の炭が小さく爆ぜた。
カイルはナイフを見つめる。
自分で拾った鉄。
自分で造った炉。
何度も失敗し、夜遅くまで削り続けた刃。
使い道など、深く考えたことはなかった。
ただ、完成させたかった。
一本でもいい。
自分が鍛治師を目指してきた証拠が欲しかった。
そして、それをガルドに見せれば、弟子にしてもらえると思った。
「……弟子にしてもらうためです」
カイルは正直に答えた。
ガルドの目から、わずかに力が抜けた。
怒っているのではない。
呆れているようにも見えない。
ただ、どこか悲しそうだった。
「なら、これは道具ではないな」
「ナイフです」
「形の話はしていない」
ガルドは、ナイフを作業台へ戻した。
「鉄を刃の形にしただけだ」
カイルの胸の中で、何かが熱くなる。
「独学で作ったんです」
「ああ」
「まともな炉も、道具もなかった。それでも最後まで作りました」
「そうだろうな」
「なら、少しくらい――」
「努力したことを褒めてほしいのか」
言葉を遮られる。
「俺は、あなたに認めてほしくて――」
「認められれば、よく切れるのか」
カイルは言葉を失った。
「お前が七年努力すれば、この刃が欠けなくなるのか。眠らずに作れば、使う者の手を傷つけなくなるのか」
「それは……」
「作り手がどれほど苦労したかなど、使う者には関係ない」
ガルドはナイフの切っ先を指した。
「必要なときに切れるか」
次に、不揃いな柄へ目を向ける。
「握った手から抜けないか」
最後に、接合の甘い刃の根元を指した。
「壊れたとき、使う者を傷つけないか」
カイルには反論できなかった。
「道具を見るときは、作った人間ではなく、使う人間を見ろ」
低い声だった。
叱りつけるような強さはない。
それでも、その言葉は槌で打たれたようにカイルの胸へ残った。
「でも俺は、まだ誰かの注文を受けられる鍛治師じゃありません」
「だから、使う者を考えなくてもいいと?」
「そういう意味じゃ……」
「お前は、自分が作りたい物しか見ていない」
その言葉に、カイルは顔を上げた。
ガルドはすでにカイルから目を外していた。
工房の隅に積まれた、壊れた道具を見ている。
「そこにある物を見ろ」
ガルドが言った。
カイルもそちらへ視線を向けた。
欠けた鍬。
底の抜けた鍋。
曲がった馬蹄。
壊れた蝶番。
柄の外れた包丁。
どれも珍しくない。
町の工房で何度も見た物だ。
「あれを見て、何が分かる」
「何がって……」
「鍛治師になりたいのだろう。見たままを言え」
カイルは道具の山へ近づいた。
最初に鍬を手に取る。
刃先が大きく欠け、土がこびりついている。使われている鉄も、質のよい物ではなかった。
「鍬は、刃が欠けています。硬い石にぶつけたんだと思います」
「それだけか」
次に鉄鍋を見る。
底には親指ほどの穴が開き、周囲は薄くなっている。外側には黒い煤が厚くついていた。
「鍋は、底が抜けている。薄く作りすぎたか、長く使いすぎた」
「それだけか」
馬蹄は片側だけが大きくすり減っている。
「馬蹄は交換した方がいい。直しても、すぐに削れる」
「それだけか」
どの答えにも、ガルドは同じ言葉を返した。
それだけか。
カイルは苛立ち始めた。
見れば分かることを答えている。
どこが壊れているか。
なぜ壊れたか。
それ以上に、何を答えろというのか。
「全部、壊れた日用品です」
カイルは道具を置き、ガルドを振り返った。
「使われている鉄も安物です。魔力も宿っていない。直すより、新しく作った方が早い物もある」
ガルドは黙って聞いている。
「正直、ガルド様が直すような物には見えません」
「なぜだ」
「あなたは、王国一の鍛治師だからです」
カイルは真っ直ぐに答えた。
「七年前、国宝になる魔剣を打った。誰にも作れない物を作れる人が、どうしてこんな安い道具ばかり直しているんですか」
工房に沈黙が落ちた。
ガルドは、壊れた道具を一つずつ見渡した。
その視線は、カイルが道具を見るときとは違っていた。
刃の欠けた鍬にも。
穴の開いた鍋にも。
片減りした馬蹄にも。
それぞれ、持ち主の姿を見ているかのようだった。
「そうか」
ガルドが小さく呟く。
そして、わずかに目を伏せた。
「やはり、お前には何も見えていない」
「見えています。壊れている場所なら――」
「壊れている物は見えている」
ガルドがカイルを見る。
「だが、その向こうにいる人間が見えていない」
カイルは答えられなかった。
老人は作業台からナイフを取り、今度こそカイルへ差し出した。
「持って帰れ」
「まだ話は――」
「明日、この鍬を取りに来る家族がいる」
ガルドは、欠けた鍬を持ち上げた。
「この鍋を待っている者もいる。お前の相手をしている時間はない」
まるで、カイルよりも壊れた鍬や鍋の方が大切だと言われているようだった。
実際、ガルドにとってはそうなのだろう。
カイルはナイフを受け取った。
七年かけて追い続けた王国一の鍛治師。
その男は、魔剣ではなく鎌を研ぎ、鍬を直し、穴の開いた鍋を待つ者のために働いている。
理解できなかった。
納得できなかった。
「俺は、あなたの魔剣に憧れたんです」
カイルはナイフを握りしめた。
「あの剣を見たから、鍛治師になろうと決めた」
ガルドの眉が、わずかに動いた。
「俺は、鍬や鍋を直すために七年待ったわけじゃない」
「なら、何のためだ」
「あなたを超える魔剣を作るためです」
その言葉を聞いた瞬間。
ガルドの表情から、わずかに残っていた柔らかさが消えた。
老人の右手が、無意識に左の手のひらを覆う。
煤に汚れた指の隙間から、黒く焼けただれた古い傷が見えた。
それが何の傷なのか、カイルには分からない。
ガルドはしばらく目を閉じていた。
やがて、低い声で告げる。
「ならば、なおさら教えるわけにはいかんな」
「なぜですか」
「お前は、あの剣の何を見た」
「何をって……」
美しい刀身。
空へ立ち上った赤い光。
人々の歓声。
剣を掲げた騎士。
そして、一本の魔剣を生み出したガルドの姿。
カイルが答えようとしたとき、老人が先に口を開いた。
「次に来るなら、答えを持ってこい」
「次に来てもいいんですか」
「弟子にするとは言っていない」
ガルドは、欠けた鍬を作業台へ置いた。
「お前が作ったそのナイフは、誰を助ける」
カイルは手の中のナイフへ目を落とした。
「そして、あの魔剣は――」
ガルドの声が、わずかに重くなる。
「あの剣は、誰を明日へ連れていく」
答えは浮かばなかった。
魔剣は敵を斬るものだ。
国を守り、英雄を勝利へ導くものだ。
そう答えればよいはずなのに、なぜか言葉が喉から出てこない。
ガルドはもうカイルを見ていなかった。
槌を取り、欠けた鍬の刃を調べ始めている。
話は終わった。
そう告げる背中だった。
カイルはナイフを腰袋へしまった。
工房を出る直前、もう一度だけ振り返る。
王国一の鍛治師は、名もなき農夫の鍬を直そうとしていた。
七年前。
広場中の視線を集めながら、魔剣を打っていた姿とはあまりにも違う。
それでも、鍬を見つめるガルドの目は、あの日に鉄を見つめていたときと同じだった。
一切の妥協を許さない、鍛治師の目。
カイルには、その理由が分からなかった。
重い扉を押し、工房の外へ出る。
山の冷たい風が、熱くなった頬を撫でた。
腰袋の中には、不格好なナイフがある。
それを作ったのは自分だ。
だが、誰のために作ったのか。
その問いに、カイルはまだ答えを持っていなかった。




