第2話 この布団、行きたいところに連れて行ってくれるのか? いや、夢か?
ピピピピ、ピピピピ。
目覚ましの音で、目を開けた。見慣れた天井。見慣れた六畳間。もちろん、エッフェル塔もモナ・リザもない。
そもそも夢を見たこと自体が久しぶりだった。気絶して布団に倒れ込む毎日だと、ノンレム睡眠が主導権を握るからだろうか。夢を見る余裕などない。……というか、覚えていないだけかもしれんが。
「やけにリアルな夢だったなぁ。死ぬまでに一度は行ってみたかったフランス。そして、モナ・リザを見ることができるなんて。贅沢すぎるだろ」
父方の実家で偽のモナ・リザを見たことがあったのだが、本物との違いはさっぱり分からなかった。結局、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いたという実績が重要なのである。
美術館でナポレオンの冠を見るのを忘れていた。少し、心残りである。
それにしても、体が軽い。いつもなら起きた瞬間から肩が石のように重く、布団から這い出るのに時間がかかるのに、今朝はすっと起き上がれた。頭もすっきりしている。
……これが50万円の力か。
俺は布団に向き直り、「ありがとう。お前を買えて良かったぜ。今晩もよろしくな」と伝えて、仕事に向かった。
*
その日の仕事は捗った。まさかのまさかだ。
なんと、大口顧客の富裕層に家が売れたのだ。しかも売れたのは、うちのエース営業マンが一年間担当しても買い手がつかなかった、いわゆる「塩漬け物件」。駅から遠く、間取りにクセがあり、内見に来た客が首をかしげて帰っていく。社内では誰も触りたがらない、いわくつきの一軒だった。
それがどういうわけか、今日はこの家の良さを熱意をもって引き出せた。窓から見える景色を説明していたら、なぜか昨夜のセーヌ川を思い出して、気づけば饒舌に喋っていた。お客様は最後に「あなたの話を聞いていたら、ここに住む自分が想像できたよ」と笑って、契約書にサインしてくれたのだ。
職場に戻ると、みんなが驚きの顔を見せてきた。
……いや、確かにな。半年連続でノルマ未達成の俺が、あの物件を売るなんて、天地がひっくり返っても誰も想像しないだろう。そもそもあの物件を押しつけられたのだって、売れない俺への当て付けだったのだしな。
「おめでとう。すごいぞ、村田。今日は雪が降るんじゃないか」
部長はいつもにない笑顔で俺を迎えてくれた。
*
そのおかげで、今日は定時で退社。ラッキーだ。
定時退社なんて何年振り?? もう、わからない。入社してから一度もなかった気さえする。まだ明るい空の下を帰るのは、なんだか悪いことをしているような気分だった。
とはいえ、早めに帰れたからといって、やることはない。ネットのサブスクで話題のドラマを再生しても、漫画アプリを開いても、心が踊らない。画面の向こうで誰かが笑っていても、俺はただそれを眺めているだけだ。
俺は、平日の楽しみ方を忘れてしまったのだ。
休日なら、まだいい。趣味の街歩きができる。行ったことのない駅で降りて、あてもなくブラブラ歩く。知らない路地や古い商店街を見つけると、ちょっとした冒険をした気分になれるのだ。……まあ、その休日もここ最近は寝て終わっているのだが。
仕方がないので、風呂にゆっくり浸かり、お気に入りのパジャマに着替える。50万円の布団に入るのだから、身だしなみは大事だ。
そして、俺は、普通に21時に寝た。
*
……また、夢か?
さむっ。……いや、寒くない?
目を開けると、一面の銀世界が広がっていた。
空から雪がしんしんと降っている。見渡すかぎりの雪原。その向こうに、赤や青や黄色の小さな家々が、肩を寄せ合うように並んでいる。
……部長、本当に雪が降りましたよ。
ここはどこだろう。そう思ったとき、ふと中学のころの記憶がよみがえった。国語の授業で読んだ、北の果ての話。氷の大地、夜空に揺れるオーロラ、その寒さの中で暮らす人々。授業中、俺はその話に夢中になって、先生にあてられたことにも気づかなかった。
――まるで、氷の惑星だ。
あのとき、ノートの端にそう書きつけたのを覚えている。いつか見てみたい。見たら、きっと幸せになれる。子どもの俺は、本気でそう思っていた。
そうか。俺はずっと、ここに来てみたかったのか。
布団がふわりと浮いて、村のほうへ進んでいく。雪は布団の上に落ちてくるのに、なぜか俺には一粒も触れない。マイナス何十度の世界で、パジャマ一枚。それなのに、ぬくぬくだ。
村の外れでは、そり犬たちが丸くなって休んでいた。そのうちの一匹が、ぴくりと耳を立てる。
「ワンッ! ワンワンッ!」
え、俺? 今、俺に吠えた?
つられて他の犬たちも一斉にこちらを向いて吠えはじめた。飼い主らしき男性が振り返るが、俺のいるあたりを見て首をかしげるだけだ。
人には見えていない。でも、犬には見えている。そんな様子だ。
……なんだそれ。
逃げるように進んだ先に、小さな集会所があった。窓からのぞくと、ストーブを囲んで子どもたちが座り、真ん中で白髪のおじいさんが何かを語っている。言葉はわからない。けれど、見学に来ているらしい外国人の一行に向けて、若い女性が英語で通訳していた。
学生時代の英語を総動員して、耳をすます。
「――昔から、眠ったまま空を旅する者がいるそうです。そんなの夢の世界の話ですよね。でも、もしかしたら……今も近くにいるかもしれませんよ」
心臓が、どくんと鳴った。
眠りながら、旅をする?
それって、まるで今の俺じゃないか。……まあ、どうせ夢だしな。50万円の高級布団は、いい夢を見せてくれるらしい。
*
ピピピピ、ピピピピ。
目覚ましの音で飛び起きた。見慣れた天井。見慣れた六畳間。
夢だ。夢に決まっている。そう思いながら布団に手をついた瞬間、俺は固まった。
冷たい。
布団の表面が、ひんやりと冷えている。そして掛け布団の端に、溶けかけの小さな白い粒がいくつか残っていた。
指でつまむと、それはすぐに水になって消えた。
……雪だ。
「お前、まさか……」
布団は、何も答えなかった。




