影②
その日の夜。
アズマは自分の部屋で、昼間取ったぬいぐるみを眺めていた。
ベッドの上に置いてある。
「……買ったことにするか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
自分でも苦しい言い訳だと思う。
けれど、もう手元にある。
返しに行くのも面倒だった。
アズマは電気を消した。
窓から入る街灯の明かりで、部屋の中に薄い影ができる。
その影を見ていると、昼間とは違うことに気づいた。
「……ん?」
自分の影。
その向こうに、カーテンの影。
さらに、その向こうに窓。
アズマは立ち上がった。
影を伸ばす。
壁まで。
さらに伸ばす。
カーテンのところまで届く。
そこで止める。
「……ここまでは昼と同じか」
影の先を、壁からカーテンへ移してみる。
影がカーテンに貼りついた。
「……」
引っ張る。
カーテンが少し動いた。
「え?」
もう一度。
ぐいっ。
カーテンが開いた。
アズマは目を丸くした。
「影で動かしてる……?」
さっきまで物を直接掴んでいたときとは違う。
今度は、影が直接その物に触れていない。
カーテンに落ちている影を掴んだ。
それだけで、カーテンそのものが動いた。
「……じゃあ」
部屋の電灯のスイッチを見る。
壁に落ちたスイッチの影。
アズマは影を伸ばす。
指の形にする。
スイッチの影を押す。
カチッ。
電気がついた。
「…………」
アズマはしばらく黙っていた。
「影そのものを掴んでるんじゃない」
自分で口にしてみる。
「影を掴むと、元の物まで動く……?」
確信はない。
けれど、何度か試してみる。
椅子。
カーテン。
机の引き出し。
どれも動いた。
影さえ見えていれば。
「……なるほど」
アズマは椅子に座った。
少し考える。
そして、思いついた。
「これ……鍵も開けられるんじゃないか?」
*
翌朝。
アズマは駅前のコインロッカーの前に立っていた。
昨夜から、ほとんど眠れていない。
影で鍵を開けられるか。
そればかり考えていた。
別に、何か盗みたいわけではない。
ただ、試してみたかった。
アズマは人の流れが途切れるのを待った。
ロッカーの鍵穴に、細い影が落ちている。
影を伸ばす。
鍵穴の影を掴む。
回す。
カチッ。
開いた。
「……」
中には誰かの荷物が入っていた。
アズマはすぐに閉めた。
「……できるんだ」
悪用できる。
その事実だけで、少し怖くなる。
だが同時に、別の考えが浮かんだ。
「じゃあ、鍵のかかってる場所も……」
駅の裏手を見る。
立入禁止の扉。
鍵がかかっている。
アズマはしばらく見つめた。
扉の前まで行く。
影を伸ばす。
鍵穴へ。
「…………」
やめた。
さすがに怖い。
戻ろうとした、そのとき。
扉の向こうから物音がした。
ガタン。
「……?」
人の声はない。
もう一度、音がした。
今度は小さい。
扉の下で、細い影が動いている。
「……猫?」
アズマはしゃがみ込んだ。
影を鍵穴へ伸ばす。
カチャ。
鍵が開いた。
扉を少し開ける。
黒い猫が飛び出してきた。
「おお……」
猫はアズマを一度だけ見た。
そのまま走っていった。
アズマは扉を閉めた。
「……これは悪用じゃないな」
自分に言い聞かせる。
けれど、さっき開けた鍵穴を見ていると、別のことを考えてしまう。
鍵がいらない。
鍵を持っていなくても、影さえあれば開けられる。
そう思うと、急に街の中にある鍵という鍵が気になってきた。
店の裏口。
自転車の鍵。
ロッカー。
金庫。
家の玄関。
「…………」
アズマは歩き出した。
その顔から、さっきまでの笑みは消えていた。
便利だから怖い。
怖いのに。
使ってみたい。
その気持ちのほうが、少しだけ強かった。
*
駅を出たところで、アズマは足を止めた。
商店街の角に、質屋がある。
ショーウィンドウの中に、腕時計や指輪が並んでいた。
その奥に、店の裏口が見える。
鍵の影が、朝の光の中に細く落ちている。
アズマは立ち止まったまま、そこを見ていた。
「……入れるよな」
もちろん、入るつもりはない。
ただ、できるかどうかを考えただけだ。
そう思いながら、影を伸ばす。
裏口の鍵穴へ。
あと少しで届く。
そのとき、店の中からシャッターを開ける音がした。
アズマは慌てて影を引っ込めた。
店主が裏口から出てくる。
「……」
「……」
目が合った。
「何か?」
「いや」
アズマは裏口から離れた。
「道、間違えただけです」
店主は怪訝そうにアズマを見た。
アズマはそのまま商店街を歩き出す。
角を曲がってから、胸に手を当てた。
心臓が早い。
「……何やってんだ、俺」
自分でも分かっている。
さっきのは、試しただけではない。
開けようとしていた。
中に何があるのか、見ようとしていた。
「……でも」
アズマは自分の足元を見る。
伸びた影が、靴の先から細く揺れている。
「これなら、誰にも見つからない」
その考えが浮かんだ瞬間、アズマは立ち止まった。
怖い。
けれど、同じくらい楽しい。
その感情を、少し離れた電柱の影からデビルくんが見ていた。
アズマは気づかない。
デビルくんは何も言わない。
ただ、アズマの影が伸びたり縮んだりする様子を、じっと眺めていた。




