第4話:父からの電話【1/3】
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九月一日、月曜日。
県立彩葉第一高等学校の校舎は、燃えるような茜色の夕日に包まれていた。
「あー、終わった終わった! 今日の六限の数学、マジで拷問だったわ。先生の喋り方、絶対マイナスイオンとか睡眠導入効果のある成分が出てるって!」
終業のチャイムが鳴り終わるか終わらないかのうちに、健太が大きく背伸びをしながら大声で愚痴をこぼした。彼の手元には、ノートの代わりに落書きだらけのプリントが散乱している。
蓮は自分の席でゆっくりと教科書を鞄にしまいながら、呆れたように親友を見た。
「お前、授業始まって五分で完全に意識飛んでたぞ。いびきかきそうになってたから、俺が後ろから椅子蹴ってやったのに気づきもしなかっただろ」
「マジで? 悪い悪い! いやー、昼休みに購買の限定カツサンド争奪戦で全エネルギーを使い果たしたからな。あの人混みを掻き分けるのは、陸上のインターバル走よりキツいんだよ」
健太はカラカラと笑いながら、シャツの第一ボタンを開けて胸元をパタパタと仰いだ。
季節は九月に入ったばかり。朝夕はわずかに秋の気配を感じるようになったものの、日中の教室にはまだ夏の重たい湿気と熱気が居座っている。
蓮は鞄のジッパーを閉め、窓の外に目を向けた。
空は、信じられないほど鮮やかな赤に染まっていた。夕焼けというよりは、空全体に赤黒いインクを流し込んだかのように毒々しく、どこか血の色を連想させる色合いだ。遠くの山々の稜線が、その異様な空を背にして黒々とした切り絵のように浮かび上がっている。
「……すごい色だな、今日の空」
蓮が何気なく呟くと、健太も窓の外を覗き込んだ。
「うわ、本当だ。なんかゲームのラスボスが出てくる直前の空みたいじゃん。不吉〜」
健太は冗談めかして笑ったが、蓮の胸の奥には、金曜日に図書室で葵が口にしていた「嫌な予感」という言葉が、小さな棘のように引っかかっていた。週末を挟んでも、遠くから聞こえてくるサイレンの音は一向に鳴り止む気配がなく、むしろその頻度は上がっているようにすら思えたからだ。
「おい、蓮。帰るぞ。今日は部活休みだから、駅前のゲーセンでも寄っていかないか? 新作の格ゲーが入ったらしいんだよ」
「パス。俺は真っ直ぐ帰る。母さんに、今日はスーパーの特売日だから早く帰ってきて荷物持ちを手伝えって言われてるんだ」
「なんだよ、付き合い悪いなー。事なかれ主義で親孝行かよ」
健太は唇を尖らせたが、すぐに「まあいいや、俺も腹減ったし帰るか」と鞄を肩に引っ掛けた。
二人は教室を出て、喧騒に包まれた廊下を歩き出した。
すれ違う生徒たちは、部活に向かう者、友達と遊びに行く相談をしている者、あるいはスマートフォンを見つめて笑い合っている者など、それぞれが日常という平和な海を泳いでいた。
だが、その会話の端々から、時折奇妙な言葉が漏れ聞こえてくるのを、蓮の耳は逃さなかった。
『――だから、隣町の駅で人身事故があって、電車止まってるらしいよ』
『――また? 最近多すぎない?』
『――ていうかさ、この動画見た? 人が人を襲ってるやつ。さっき別のアカウントでまた上がってたんだけど』
『――うわ、キモっ! 見せないでよ!』
蓮は無意識に眉をひそめた。
ネット上の不気味な動画。サイレンの音。交通機関の乱れ。
一つ一つは「たまたま重なっただけ」で説明がつくかもしれない。しかし、これだけ同時多発的に異常が日常を侵食し始めていることに、なぜ誰も本気で危機感を抱かないのだろうか。
いや、自分自身もそうだ。「事なかれ主義」を盾にして、面倒なことや恐ろしい現実から目を背け、思考を停止させているだけではないのか。
「蓮、どうした? 怖い顔して」
階段を下りている途中、健太が不思議そうに顔を覗き込んできた。
「……なんでもない」
蓮は軽く首を振り、歩みを早めた。
一階の昇降口に到着すると、下駄箱の周囲は下校する生徒たちでごった返していた。靴を履き替えようと自分の場所に向かった蓮は、そこで思いがけない人物の後ろ姿を見つけた。
葵だ。
彼女はすでに靴を履き替え終え、鞄を体の前で両手に抱えながら、誰かを待つように昇降口の柱の横に立っていた。
「おっ、水島さんじゃん」
健太が目ざとく見つけ、蓮の背中をポンと叩く。
葵は二人の姿に気づくと、パッと表情を明るくして小走りで近づいてきた。
「日高くん、城山くん。お疲れさま」
「お疲れ。水島、今日は弓道部じゃないのか?」
蓮が尋ねると、葵は少しだけ困ったような笑顔を見せた。
「うん。今日は先生が急な会議に入っちゃって、部活は早上がりになったの。だから、今から帰るところ」
「へえ、そうなんだ。奇遇だな、俺たちも今から帰るとこ。せっかくだから、途中まで一緒に帰ろうぜ!」
健太が勝手に話を進め、蓮の背中をグイッと押した。
「お、おい健太……」
「いいでしょ、水島さん?」
「うん。もちろん」
葵が嬉しそうに頷いたため、蓮もそれ以上は何も言えなくなった。内心では健太の気の利いた計らいに感謝しながらも、表面上は「仕方ないな」という態度を装う。
三人は校門を抜け、夕日に照らされた通学路を歩き始めた。並木道の影が、アスファルトの上に長く伸びている。
健太が車道側を歩き、真ん中に蓮、一番内側の歩道側に葵という並びだ。
「そういえばさ、水島さん。金曜日の図書委員の時、蓮とどんな話したの?」
歩き出して数分後、健太が突然、ニヤニヤしながら爆弾を投下した。
「ブッ!」
蓮は思わずむせ返り、健太の脇腹を肘で小突いた。
「お前、急に変なこと聞くなよ!」
「なんだよ、気になるじゃん。俺の親友が、ちゃんと女子と会話できてるかどうかの保護者面談みたいなもんだ」
健太のふざけた態度に、葵はクスッと上品に笑った。
「ふふっ。城山くんって、本当に日高くんのお母さんみたいだね。図書室ではね、お互いの家族の話とか、好きな本の話をしたよ。日高くんのお父さん、サバイバルナイフとかキャンプが好きで、すごくワイルドな人なんだって」
「あー、あの親父さんな! 確かに、昔から蓮の家に行くと、ガレージにすげえゴツいアウトドア用品がいっぱい積んにあるんだよ。蓮とは全然似てないのな!」
「うるさい。親父は趣味に生きてるだけだ」
蓮が口を尖らせると、葵が優しくフォローを入れた。
「でも、いざという時はすごく頼りになりそう。私、お父さんが家族を守るために色々準備してるのって、すごく素敵なことだと思うな」
「ほら見ろ蓮、水島さんが褒めてくれてるぞ。お前も親父さん見習って、もっとサバイバル術とか身につけろよ。ゾンビが出た時とか役に立つぜ?」
健太が冗談めかして言った言葉に、蓮はピクリと反応した。
「……ゾンビって、お前、まだあのネットの動画のこと信じてるのか?」
蓮が低い声で尋ねると、健太は肩をすくめた。
「信じてるっていうか、エンタメとして楽しんでるだけだって。でもさ、今日の昼休みも、別のクラスのヤツらが騒いでたんだぜ。なんでも、隣町の病院で、救急搬送された患者が急に暴れ出して、医者や看護師に噛みついたらしいって」
「噛みついた……?」
葵の足が、ピタリと止まった。
彼女の顔から先ほどまでの穏やかな笑みが消え、みるみるうちに血の気が引いていく。
「ちょ、城山くん……それ、本当なの?」
葵の声が震えている。
「いやいや、だからただの噂だって! ネットのデマが大きくなっただけでさ。みんな面白がって尾ひれをつけてるだけだよ」
健太は慌てて取り繕おうとしたが、葵の表情は晴れなかった。彼女は金曜日の図書室で「嫌な予感がする」と怯えていた。その恐怖が、健太の言葉によって再び引きずり出されてしまったのだ。
「健太、いい加減にしろ。そういう悪趣味なデマを面白半分に広めるな」
蓮は強い口調で健太をたしなめた。
「わ、わかってるよ。ごめん、水島さん。怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
健太が素直に頭を下げると、葵は力なく首を振った。
「ううん、大丈夫。……でも、やっぱり少し怖いな。最近、本当に救急車の音が多いし、お母さんも『なるべく寄り道しないで帰りなさい』って毎日のように言うから」
「水島、大丈夫だ」
蓮は、葵の不安を拭い去るように、彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「ネットの噂なんて、九割が嘘だ。それに、もし本当にヤバい事件が起きてるなら、警察とか自衛隊が動くはずだ。俺たちは普通に高校生活を送っていればいいんだよ」
事なかれ主義の自分を総動員して、可能な限り正常バイアスを働かせる。それは葵を安心させるためであり、同時に、自分自身の内側に芽生えつつある恐怖を押し殺すための自己暗示でもあった。
「……うん。そうだよね。ありがとう、日高くん」
葵は小さく深呼吸をして、再び歩き始めた。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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