第35話:再び屋上へ【2/2】
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広大なコンクリートの平床。
特別棟の屋上は、昼間であれば青空の下で生徒たちが他愛のない話を交わし、爽やかな風を感じていたであろう見晴らしの良い空間だ。
普段は生徒の転落や自殺を防止するための「防犯ルール」によって厳重に南京錠で施錠され、一般の生徒が足を踏み入れることなど決して許されなかった禁断の場所。
だが今、彼らは自らの知恵と肉体、そして恩師の命と引き換えにした鍵によって、その禁を破り、学園の最高地点へと到達していた。
中央には、学園全体の水道を支える巨大な直方体のコンクリート製受水槽と、銀色の円筒形換気塔が、本棟の猛火の赤光を浴びて不気味な黒い巨影となってそびえ立っている。
周囲には、高さ1.5メートルほどの頑丈なスチールメッシュの安全フェンスが四方を隙間なく張り巡らされていた。
そして、その頭上には、本棟の火災の照り返しによって毒々しい赤黒い色に染め上げられた、重く垂れ込める夜の雲が広がっていた。
「……ヘリだ! 救助ヘリがいるはずだぜ!」
大の字に倒れ込んでいた健太が、弾かれたように跳ね起きた。
手甲で顔の煤と涙を乱暴に拭い去り、鉄パイプ戦斧を拾い上げると、興奮を隠しきれない足取りで屋上の安全フェンスへと駆け寄った。
「さっき職員室のラジオで言ってただろ! 【避難集結ポイントは市立総合病院・第1駐車場】だって! そこに自衛隊の大型輸送ヘリが配備されて、市外へピストン輸送してるってな!」
健太の大きな瞳に、眩いばかりの光が宿っていた。
「あそこへ行けば助かるんだ! ヘリに乗れれば、こんな化け物だらけの街から一瞬で逃げ出せる! 葵のお母さんにも会えるし、俺のオカンや日高の家族の救助だって頼めるはずだ!!」
「うん……! お母さん……きっと病院で待っててくれてるわ!」
葵も胸元で十字槍を固く握り直し、小走りで健太の隣へと駆け寄った。
その顔には、先ほどまでの絶望と悲痛を押し流すような、切実な希望の笑顔が浮かんでいた。
市立総合病院の救急病棟で看護師長として勤務している母。
幼い頃から『看護師はね、人が一番困っている時に手を差し伸べる仕事なのよ』と誇らしげに語っていた母。
その母が、自衛隊の避難拠点となっている総合病院の現場で、今も命を救うために必死で戦っているはずなのだ。
小林もまた、痛む右足を引きずりながら、コンクリートの壁に手をついて必死に立ち上がろうとした。
「日高……俺にも見せてくれ。外の空を……ヘリの明かりを……!」
「ああ、焦るな。肩を貸す」
蓮は小林の右脇を抱え、健太と葵が立つ西側の安全フェンスへと、ゆっくりと歩み寄った。
職員室で傍受した、手回し防災ラジオの緊急放送。
警察や消防の通信網が崩壊し、自衛隊の初期封鎖線が突破された絶望的な壊滅情報の中で、唯一提示された一筋の光明。
【自力移動が可能な市民は、明朝午前5時までに、市立総合病院の第1駐車場へ到達してください】。
ここから西へ約2.5キロ。
住宅街の暗がりを抜けた先にある、市立総合病院。
その上空で、赤と青のストロボライトを点滅させながらホバリングし、生存者を救い上げているはずの自衛隊の航空力。
その姿をこの目で確認できれば、自分たちがこれから暗黒の市街地へと踏み出すための、何物にも代えがたい勇気と確信になる。
4人は引き寄せられるようにして、高さ1.5メートルのスチールメッシュフェンスに身を寄せた。
冷たい金属の手すりを両手で握りしめ、冷たい夜風を正面から浴びながら、4対の瞳が、一斉に彩葉市の夜空へと向けられた。
救助ヘリを探して。
希望の光を求めて。
しかし。
「……え……?」
フェンスの手すりに身を乗り出していた健太の口から、掠れた疑問の声が漏れた。
夜空。
赤黒く染まった煙の雲が低く垂れ込める、彩葉市の夜空。
そこに、あるはずのものが存在しなかった。
赤と青のストロボライトを明滅させ、暗闇を切り裂くような探照灯の白い光条を地上へと投げかけているはずの、自衛隊のヘリコプターの影が、上空のどこにも見当たらなかったのだ。
「そんな……どこにいるの……? ヘリコプター……」
葵が、縋るような目を夜空へ向け、幾度も視線を激しく泳がせた。
「さっき理科室を出た時も、家庭科室にいた時も、上空をヘリが飛んでいく音が聞こえたじゃない……! なんで……なんで1機も飛んでないの……!?」
耳を澄ませても、大気を震わせるはずの『ババババババババ……ッ!』という重厚な回転翼の重低音は、どこからも聞こえてこなかった。
聞こえるのは、特別棟の外壁を叩く冷たい夜風の哭くような音と、背後の本棟で木材や窓ガラスがパチパチと爆ぜる火災の音、そして遠くの街の底から微かに反響してくる正体不明の破壊音だけ。
空は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
ヘリは、いなかった。
あるいは、自分たちが校内で死闘を繰り広げ、職員室へ降りて鍵を奪還している間に、燃料の限界によって基地へと帰投してしまったのか。
それとも、地上の混乱によって着陸不能と判断され、他のエリアへと去ってしまったのか。
「嘘だろ……? おい、嘘だろ……!?」
健太の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。
鉄パイプ戦斧を握る指先が白く変色し、愕然とした表情で夜空を見つめ続ける。
「ラジオでは……ラジオでは確かに言ってたじゃねえか! 病院と市役所にヘリが配備されて、ピストン輸送してるって!! なんで空っぽなんだよ!!」
小林もフェンスの金網を両手で強く掴み、唇を震わせた。
「ヘリが……いない……。俺たち、屋上に来れば助かるんじゃなかったのかよ……!? 自衛隊が……助けに来てくれるんじゃなかったのかよ……!!」
絶望の冷たい刃が、再び4人の胸を突き刺そうとしていた。
屋上扉を開ければ、空に救助の光が見えるはずだった。
その希望だけを胸に抱き、恩師の死を乗り越え、命を削る思いで階段を駆け上がってきたのだ。
それなのに、頭上に広がる空は、どこまでも冷酷で、暗く、沈黙を守り続けていた。
「……落ち着け」
蓮の静かな、氷のように澄んだ声が、凍りつきかけた空間に落ちた。
蓮はフェンスの手すりを両手で強く握りしめたまま、夜空からゆっくりと視線を下ろし、眼下に広がる広大な『彩葉市のパノラマ』へと鋭い目を向けた。
「空を見るな。……街を見ろ」
蓮の言葉に、健太と葵、そして小林がハッとして息を呑み、視線を地上へと落とした。
そして――。
「……っ……!!」
葵の喉から、声にならない悲鳴が漏れ、その場に崩れ落ちそうになった。
健太も、小林も、目の前に広がった光景に言葉を失い、ただ目を見開いて立ち尽くすしかなかった。
そこに見えたのは、彼らが期待していたような「救助の手が差し伸べられた街」などでは、断じてなかった。
街は、死んでいた。
4階建ての特別棟の屋上から見下ろす、彩葉市の全貌。
かつて自分たちが毎日自転車で走り、コンビニに立ち寄り、友達と他愛のない冗談を言い合って笑っていた、あの平和な街の姿は、跡形もなく消え去っていた。
住宅街の街灯、幹線道路のナトリウム灯、店舗のネオンサイン、信号機、民家の窓から漏れる温かな蛍光灯の光――それら文明の営みを示す光はことごとく途絶え、街全体が、底知れない巨大な「漆黒のインクの海」へと沈み込んでいた。
そして、その黒い闇を無残に切り裂くようにして、街の至る所から立ち上っていたのは――。
天を焦がす無数の「紅蓮の火柱」と、夜空を覆い尽くす「どす黒い煙の巨塔」だった。
まず、すぐ足元。
特別棟の直下にそびえる、中央本棟。
3階と4階の教室は完全に猛火に飲み込まれ、木製フレームやカーテンを焼き尽くしながら、巨大な火の竜巻となって黒煙を吹き上げている。
熱気によって窓ガラスが粉々に砕け散る炸裂音が、一定の周期で夜空に響き渡っていた。
本棟の屋根瓦や天井裏のトラス構造がミシミシと悲鳴を上げ、いつ大規模な崩落を起こしてもおかしくない危険な状態に達している。
そして、その火災の赤い光に照らし出された、広大なグラウンドと中庭。
そこには、まるで黒いアリの大群をぶちまけたかのような、無数の小さな影が蠢いていた。
数100、いや、数1,000体を超える感染者の群れ。
彼らは燃え盛る校舎を取り囲むように密集し、互いに折り重なり、押し合いへし合いながら、本棟の炎へ向かって狂乱の咆哮を上げ続けていた。
あの地獄の海を正面から突破することなど、天地がひっくり返っても不可能だった。
「う……あ……あ……」
小林が金網を掴んだまま、腰を抜かしかけて震え上がった。
「なんだよ……あの数……。学校じゅうの人間が……全部あそこに集まってんのかよ……!?」
だが、地獄は学園の敷地内だけに留まっていなかった。
フェンスの向こう側――彩葉市の市街地全域に視線を巡らせると、絶望はさらにその深度を増していった。
遠く東側を走る、片側3車線の国道バイパス。
そこは、パニックの中で衝突事故を起こした数10台の大型トラックやタンクローリー、乗用車が折り重なって大炎上を起こし、真っ赤な『炎の川』となって街を真っ二つに分断していた。
時折、ガソリンタンクに引火した激しい爆発音が、ドォォォン……と数キロの距離を隔てて重い地鳴りのように響いてくる。
駅前の商店街からは、延焼した古い木造家屋からモクモクと巨大な煙が立ち上り、変電所の付近では時折、高圧送電線のショートによる青白いアーク火花が、爆発音と共に夜空を不気味に照らし出している。
大型ショッピングモールの広大な立体駐車場もまた、炎上する店舗の赤光を浴びて、無数の感染者たちが黒いシミのように蠢いているのが、ここからでもはっきりと視認できた。
街全体が、燃え盛る巨大な火葬場と化していた。
警察も、消防も、自衛隊の初期部隊も存在しない。
サイレンの音すら聞こえない世界。
ただ、夜風に乗って漂ってくるのは、焦げたプラスチックと化成品の異臭、そして――無数の有機物が焼ける、生々しく脂じみた臭気だけだった。
そして――何よりも4人の息の根を止めたのは、西の方角だった。
「あそこ……見て……!」
葵が震える指先で指し示した先。
ここから直線距離でおよそ2.5キロ先。
住宅街の暗黒の海の向こう側に位置する、あの目的地――『市立総合病院』の方角。
そこからもまた、太く、重々しい1本の黒煙が、赤黒い炎の照り返しを伴って、夜空高くへと立ち上っていたのだ。
「総合病院も……燃えている……?」
健太の喉から、掠れた声が絞り出された。
葵の顔から、完全に血の気が引いていった。
「そんな……嘘でしょ……? お母さんの……病院が……」
葵の手から、両刃の十字槍が滑り落ちそうになるのを、蓮がすかさず横から支えた。
葵の身体は激しく震え、目からは再び大粒の涙がポロポロと溢れ出していた。
「お母さん……! お母さん……嘘でしょ……!?」
病院の敷地周辺と思われる路地には、避難しようとして乗り捨てられた無数の自家用車や救急車がバリケードのように折り重なり、停電によって闇に沈んだ巨大な病棟の周囲を、夥しい数の黒い影が波のように取り囲んで蠢いているのが見えた。
救助ヘリの姿など、どこにもない。
自衛隊の防衛線が整然と維持され、生存者を温かく迎えてくれるような安全な避難所など、この壊滅した街のどこにも存在していなかったのだ。
ラジオの放送は嘘ではなかったかもしれない。
だが、それは「病院へ行けば無条件で救われる」という意味では決してなかった。
地獄の炎と無数の感染者に包囲されたあの病院の駐車場に、もし本当にヘリが降りてくるのだとしても、それは自力でこの死の街を踏破し、血みどろになって辿り着いた者だけが、一握りの運命として掴み取れるかどうかの、細い細い蜘蛛の糸に過ぎなかったのだ。
ヒュオオオオオ……と、湿った冷たい夜風が屋上を吹き抜けていく。
焦げたプラスチックの臭気、立ち上る濃密な黒煙、そして遠くの街から漂ってくる猛烈な熱気。
それらが混ざり合い、4人の制服と皮膚を冷酷に包み込んでいた。
ラジオで告げられた運命のタイムリミット――【明朝午前5時】。
現在の時刻は、おそらく午後8時半を過ぎたところだ。
夜明けまで、残された猶予は約6時間半。
その限られた時間の中で、彼らはこの燃え盛る特別棟を抜け出し、何千という感染者たちが蠢く暗黒の市街地を2.5キロにわたって自力で踏破し、大炎上と混乱の渦中にある市立総合病院へと到達しなければならない。
空に見えたのは、救助の光などではなかった。
ただ、どこまでも広がる圧倒的な夜の闇と、街の至る所から立ち上る無数の黒煙だけだった。
「……日高……」
健太が、鉄パイプ戦斧を握りしめながら、震える声で蓮の横顔を見つめた。
「俺たち……どうすりゃいいんだ……? ヘリもいねえ……病院も燃えてる……。街全体が、こんな地獄になっちまってるんだぞ……!?」
蓮は答えなかった。
ただ、屋上の安全フェンスの手すりを、革手袋の手で白くなるほど強く、強く握りしめていた。
その瞳には、絶望の涙も、恐れによる狼狽もなかった。
眼下に広がる破壊と炎のパノラマ、そして2.5キロ先で立ち上る黒煙を、冷徹なまでに網膜へと焼き付けていた。
救助ヘリは来ない。
誰も、助けには来てくれない。
生き残るためには、自分たちの足で、この地獄を踏破するしかないのだ。
張り詰める極限の緊張感。
絶望的な現実を突きつけられた少年少女たちの頭上で、赤く染まった重い雲が、嵐の前触れのように不気味に渦を巻いていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




