第36話:絶望の俯瞰【1/2】
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ヒュオオオオオオオ……と、湿った冷たい夜風が、特別棟の屋上を容赦なく吹き抜けていた。
それは、本棟を焼き尽くす紅蓮の猛煙と血の臭気を孕み、スチールメッシュの安全フェンスに身を寄せる蓮、健太、葵、そして右足を負傷した小林の4人の頬を、冷酷なまでに叩き続けていた。
雨を含んだ重い雲が夜空を低く覆い、時折、遠くの街のどこかで燃料タンクが破裂したのか、ドォォォン……と鈍い重低音が大気を震わせて届いてくる。
制服の上から纏った二重の紺色デニムエプロンが夜風に激しく羽ばたき、首元に巻かれたラップとタオルの防具の隙間から、冷気が首筋の沸き立つ汗を急速に奪い去っていった。
「……ヘリは、本当にいないんだな……」
健太の喉から、掠れた声が絞り出された。
フェンスの手すりを握りしめる健太の両手は、指の関節が白く浮き上がるほど固く強張っていた。
鉄パイプ戦斧を握り直す気力すら一瞬失われたかのように、その太い腕が微かに震えている。
さっき職員室で手に入れた手回し防災ラジオの緊急放送。
【避難集結ポイントは、彩葉市役所前広場、および市立総合病院・第1駐車場】。
【自力移動が可能な市民は、明朝午前5時までに到達してください。大型輸送ヘリによる市外へのピストン輸送を実施中】。
その希望だけを胸に抱き、恩師・山路先生の亡骸を越え、何百という感染者の包囲網を潜り抜けて、ようやく辿り着いたこの屋上。
だが、頭上に広がる空のどこを見渡しても、赤と青のストロボライトを明滅させる自衛隊ヘリの姿はなかった。
闇を引き裂く回転翼の重低音も、地上を照らし出す探照灯の光条も、夜の静寂の中に完全に呑み込まれて消え去っていた。
「ヘリが迎えに来てくれるなんて……甘い幻想だったんだ」
蓮の声は、極寒の氷のように冷たく、静まり返っていた。
蓮はフェンスの手すりを革手袋の手で固く掴み、夜空からゆっくりと視線を下ろした。
「空を見るな。……現実を見るんだ。俺たちがこれから踏み込まなければならない、この街の真の姿を」
蓮の促しに、健太と葵、そして蓮に肩を支えられていた小林が、息を呑んで地上へと視線を落とした。
特別棟の屋上――地上およそ15メートルの絶対高地から見下ろす、彩葉市のパノラマ。
そこに広がっていたのは、彼らがかつて暮らしていた「平和な日常」の残骸などではなかった。
ただひたすらに破壊され、焼き尽くされ、死者たちが蠢く、完全な狂気の地獄絵図だった。
まず、眼下数メートルに広がる学園の敷地内。
すぐ足元の中央本棟は、3階と4階が完全に紅蓮の火炎に呑み込まれ、木製の窓枠や天井裏のトラス構造をバリバリと音を立てて焼き尽くしていた。時折、ドガーンッ! と建物の躯体が熱でへし折れる破砕音が響き、割れた窓ガラスの破片が、燃える流星の雨となってアスファルトへ降り注いでいる。
換気ダクトからは黒煙が竜巻のように噴き上がり、特別棟の屋上にも時折、火の粉がパラパラと降りかかってきていた。
そして、その火災の凄まじい照り返しに赤黒く浮かび上がっていたのは、広大なグラウンドと中庭を隙間なく埋め尽くす「黒い肉の海」だった。
数100、いや、優に数1,000体を超える感染者たちの群れ。
彼らは火災の熱気と轟音に狂乱し、重なり合い、押し合いへし合いながら、本棟の壁に向かって無数の手を伸ばして地鳴りのような咆哮を上げ続けていた。校庭の土は黒い血液と足跡で泥濘と化し、逃げ遅れた生徒たちのカバンや教科書、片方だけのスニーカーが無惨に踏み躙られている。
誰かが転倒すれば、その上に何10体もの感染者が覆いかぶさり、生き埋めになりながら足元で蠢く――まさに地獄の底を煮詰めたような光景だった。
「う……あ……」
小林が金網に指を食い込ませ、脂汗を滴らせながら呻いた。
「あんなの……正面から突っ込んだら、1秒でミンチだ……。学校じゅうの人間が……みんな化け物になっちまったのかよ……」
「だが、地獄は学校の中だけじゃない」
蓮は視線をフェンスの向こう側――学校の正門と、その前を走る主要幹線道路の交差点へと向けた。
そこは、学校の敷地を隔てる外周道路。
平時であれば、朝夕には通学の高校生たちの自転車が列をなし、保護者の送迎車が行き交っていた片側2車線の県道交差点だった。
しかし今、街灯が完全に沈黙したその交差点に広がっていたのは、目を覆いたくなるような大惨劇の現場だった。
「……な、なんだよあれ……」
健太が息を呑み、足を踏み止めた。
交差点の中央。
そこには、大型の緑色の路線バスが横転し、アスファルトの上に巨大な鉄の障壁となって横たわっていた。
そして、その横転したバスの車体を取り囲むようにして、数10台もの乗用車、軽トラック、タクシー、ワンボックスカーが、互いのバンパーとボンネットを飴細工のようにぐしゃぐしゃにひしゃげさせ、折り重なるようにして大破・激突していたのだ。
逃げ惑う市民たちが、パニックに駆られて我先にとアクセルを踏み込み、赤信号も車線も無視して交差点へと突っ込んだ結果の、凄惨な多重玉突き事故。
ある車は運転席のドアが開け放たれたまま放置され、シートには引き裂かれた衣類と血痕がべったりと残されている。
ある車はフロントガラスを突き破って車外へと投げ出された運転手の遺体が、アスファルトの上で黒い染みとなって横たわっていた。
ひしゃげたガードレールには、衝突の凄まじい衝撃によって千切れたバンパーやヘッドライトの破片が突き刺さり、道路一面に散乱した強化ガラスの破片が、炎の照り返しを浴びて無数の赤い鱗のようにギラギラと光っている。
さらに、横転したバスの燃料タンクから漏れ出した軽油に引火したのか、数台の車両が黒焦げの鉄屑となって燻り、タイヤのゴムが焼ける激しい白煙が、夜風に乗って屋上へと立ち上ってきていた。
ガソリンの揮発した異臭と、生々しい鉄の匂い。
それが、本棟の火災の煙と混ざり合い、息を吸い込むたびに喉の奥をチリチリと焼いていく。
蓮はフェンスの手すりから少し身を引き、壁際に腰を下ろしている小林の足元へと視線を落とした。
「小林、右足の様子はどうだ。階段を駆け上がって、また傷口が開いたんじゃないか」
蓮が声をかけると、小林はデニムエプロンの下から覗く、包帯の巻かれた足首をそっと手で押さえた。
「……大丈夫だ、日高。痛むのは痛むけど、家庭科室で葵さんが軟膏を塗って、滅菌ガーゼと医療用テープでガチガチに固定してくれたおかげで、なんとか踏ん張りが利いている。……骨まではいってねえよ。ただの裂傷だ。歩ける」
「無理は禁物よ、小林くん」
葵が優しく声を添え、小林の傍らへとしゃがみ込んだ。
「手当てしたばかりの傷に全体重をかけ続ければ、化膿して熱が出る原因になるわ。あとで受水槽の影に入ったら、もう一度包帯を巻き直して、痛み止めを飲ませてあげるからね」
「葵さん……ありがとう。本当に助かるよ」
小林が申し訳なさそうに、けれど深く感謝するように頭を下げた。
その大破した車列の隙間。
ヘッドライトの消え失せた暗黒の路上を、何10体もの異形たちが、まるで腐肉に群がるハイエナのようにズルズルと足を引きずりながら徘徊していた。
事故の衝撃で車内に閉じ込められたまま息絶えた人間の血の匂いを嗅ぎつけ、割れた窓ガラスから車内へと狂ったように腕を突っ込んでいる姿が見える。
シートベルトに拘束された遺体の肉を食いちぎる嫌な咀嚼音と、骨が折れる湿った音が、風に乗って微かに届いてくるかのようだった。
逃げ出そうとした母親が子供を抱きしめたまま息絶えている車、エアバッグに顔面を埋めたまま変貌を遂げ、車内で暴れ回っている感染者。
車という現代文明の利器は、ひとたび交通網が崩壊すれば、逃げ場のない鉄の棺桶へと反転してしまうのだ。
「パニックになった車が交差点で全速力で激突し、自ら退路を塞いで巨大な鉄の墓場を作り上げたんだ……」
蓮は双眼鏡を使うまでもなく、本棟の炎の照り返しに照らし出されたその惨状を、冷徹に観察していた。
「ラジオの放送の通りだ。街の交通インフラは完全に麻痺している。車を使って逃げようとした人間たちは、幹線道路の至る所でこうやって立ち往生し、車ごと感染者の群れに包囲されて全滅したんだ」
「そんな……車があっても、逃げられないなんて……」
葵が両手で十字槍の柄を握り締め、震える声で呟いた。
学校を脱出できたとしても、車を調達して一気に街の外へ脱出するという安易な逃走ルートは、この眼下の光景によって完全に否定されていた。
道路という道路が、大破した車両の瓦礫と火災によって塞がれ、巨大な障害物迷路と化しているのだ。
車を走らせればエンジンの轟音で周囲の感染者を呼び寄せ、行き止まりにぶつかった瞬間、四方を取り囲まれて車内で生きたまま解体される。
だが、彼らをさらに底知れぬ恐怖へと突き落としたのは、交差点の先――県道沿いに位置する『彩葉南交番』の周辺の光景だった。
「おい……あれ……見ろよ……」
健太が、手すりの金網を指差した。その指先が、小刻みに痙攣している。
「交番の前……車が停まってる……パトカーだ……!」
蓮と葵、小林が一斉に視線を凝らした。
学校の敷地から約150メートル先、県道の角に佇む2階建ての白い交番。
その建物の前には、赤色灯を粉々に砕かれた3台の白黒パトカーが、互いに衝突して歩道に乗り上げるようにして大破していた。
パトカーのボンネットには無数の凹みが刻まれ、ドアパネルにはべったりと手形のような黒い血の跡が幾重にも擦り付けられている。
さらにその脇には、暴徒鎮圧用として配備されていたはずの、機動隊の大型特型警備車が、横転して装甲板に巨大な亀裂を走らせていた。
厚さ数センチの防弾ガラスは無数の蜘蛛の巣状のヒビで覆われ、頑丈なスチール製のハッチは外側から強引にこじ開けられたのか、半開きになった隙間から路上へと黒い液体が滝のように流れ出ている。
路上には、破かれた警察手帳や、踏み躙られた警笛、折れたジュラルミン製の防護盾が無残に散乱していた。
そして、そのパトカーと装甲車の周囲を、ゆらゆらと蠢いている影たち。
彼らが身に纏っていたのは、一般市民の衣服ではなかった。
「……警察官だ……」
蓮の瞳が、暗闇の中で鋭く細められた。
引き裂かれた藍色の警察官制服。
胸元には、銃弾や刃物を防ぐはずの分厚い防刃ベスト。
腰の革製デューティーベルトには、黒いホルスターに納められたままの回転式拳銃と、特殊警棒、手錠、無線機が重々しくぶら下がっている。
ある者は首の骨を真横へ不自然にへし折られ、ある者は防刃ベストの隙間から脇腹の内臓を食い破られながら、白濁した2つの瞳を虚ろに泳がせ、自分たちが命を賭して守るべきだった交番の前を、目的もなくフラフラと徘徊していた。
交番の屋根の上に設置されていた旭日章の紋章が、炎の赤光を浴びて、まるで血を流しているかのように鈍く光っている。
国家の法と秩序を執行する、防犯と治安維持の最高組織。
重厚な装甲車と、近代火器を装備したプロフェッショナルたち。
その警察官たちが、無残にも化け物へと成り果て、己の職務の残骸の上を蠢いていたのだ。
「警察も……全滅したのかよ……」
健太の大きな身体が、恐怖と絶望で激しく粟立った。
鉄パイプ戦斧を持つ手のひらから冷汗が噴き出し、柄を伝ってポタポタとコンクリートへ落ちていく。
「嘘だろ……!? あんな装甲車に乗って、拳銃まで持ってる警察官が……なんでこんなにあっけなくやられちまうんだよ!? 銃があるんだぞ!? 撃ち殺せば勝てただろ!!」
健太の悲痛な叫びは、一般市民であれば誰もが抱くであろう、絶対的な疑問だった。
銃があれば勝てる。警察や軍隊がいれば助けてくれる。
警察へ駆け込めば、守ってもらえる。
その素朴で当たり前の信頼が、目の前に転がるパトカーと警官の死体によって、粉微塵に踏み躙られていた。
小林も顔面を蒼白にし、唇を強く噛み締めていた。
「警察が全滅したなら……俺たち、本当に誰を頼ればいいんだよ……? 交番へ行けば助かると思って逃げてきた人たちも……みんなあそこで殺されたってことなのか……!?」
蓮の視線は、横転した大型バスのさらに奥、交差点を取り囲む商業ビルの外壁へと移った。
ガラス張りの銀行やコンビニエンスストアの正面入り口は、逃げ込もうとした群衆の圧力によって完全に叩き割られ、店内の陳列棚がなぎ倒されて商品が路上へとぶちまけられていた。
壊れた防犯ベルが『ジリリリリリ!』と虚しく狂ったように鳴り響き、その甲高い電子音に引き寄せられるようにして、暗い路地裏から新たな感染者たちがゾロゾロと湧き出し、コンビニの店内へと吸い込まれていく。
中からは時折、何者かが暴れる物音や、肉を引きちぎるような重い破壊音が風に乗って漏れ出ていた。
店内に逃げ遅れた店員や客がいたのか、それともすでに全員が餌食となった後なのか。確かめる術はなかったが、ガラス扉1枚で隔てられた屋内空間など、この大群の前には何の防壁にもならないことを、その無残な光景が証明していた。
「銃を持っていたからこそ、全滅したんだ」
蓮の冷徹な一言が、夜風を切り裂いて屋上に響いた。
その声には、感情の揺らぎや動揺は一切なかった。ただ、冷酷なまでに事実の因果関係を解き明かす、鋭利な刃物のような論理だった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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