第35話:再び屋上へ【1/2】
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カン、カン、カン、カンッ!
暗闇と黒煙が渦巻く特別棟中央階段の吹き抜けに、4つの激しい足音が力強いリズムとなって反響していた。
1階職員室での恩師・山路先生との悲痛な別れを越え、教卓から『屋上マスターキー』と『全校管理者マスターキー束』、そして『手回し緊急防災ラジオ』を奪還した蓮たち4人は、再び中央階段を駆け上がっていた。
1階廊下を埋め尽くす数100体の感染者の海から、天井の細いケーブルラックを渡りきって中央階段の中踊り場へと生還した彼らの身体には、もはや1秒の迷いも躊躇も残されていなかった。
2階から3階へ。
3階の踊り場を通過する際、第1視聴覚室の防音扉の向こう側から、ドゴォォォンッ! と室内に閉じ込められた大群が扉へと激突する鈍い地鳴りが伝わってきたが、4人は目もくれずに駆け抜けた。
さらに4階の廊下へ。本棟の猛火から吹き下ろしてくる熱風と、視界を白く濁らせる有毒な黒煙を制服の袖口で防ぎながら、彼らは特別棟の最奥に位置する『屋上へ続くスチール製の非常階段』へと躍り出た。
見上げれば、急勾配の鉄製階段の最上部。
そこには、特別棟の頂点にあり、外へ通じる重厚な鉄製の扉が、静かに彼らを待ち受けていた。
ドアの上の緑色の『非常口』誘導灯が、煙の渦の中でチカチカと不気味に明滅している。
健太が逞しい左腕で小林の腰と脇を抱え上げ、己の体重を預けるようにして一段、また一段と力強く引き上げていた。背中に背負った水と食料のデイパックがずっしりと重いはずなのに、健太の脚力には微塵の衰えもなかった。
小林もまた、右足の包帯から滲み出る血の痛みに奥歯が砕けんばかりに噛み締めながら、健太の走りを妨げないよう、必死に左足で鉄板を強く蹴り上げていた。
「大丈夫だ健太……! 俺は走れる! 置いていかれたりしねえぞ!!」
小林の魂の叫びが、健太の背筋をさらに奮い立たせる。
そして最後尾を守る葵が、両刃の十字槍を胸元に引き絞り、下層の暗がりへと鋭い眼光を走らせながら疾走していた。
『……ズズズ……ッ! ガリガリガリッ……!!』
階段の下――4階の踊り場からは、先ほど蓮が仕留めたサッカー部感染者の死体を踏み越え、火災の熱気に追われて這い登ってきた数体の感染者たちの足音が、すぐそこまで迫っていた。
鉄の手すりを爪で激しく刮ぐ不快な金属音。喉の奥で血の泡を噛み砕くような狂乱の呻き声。
間合いは、わずか10メートル足らず。
立ち止まる猶予など、瞬きひとつ分も残されてはいなかった。
「着いたぞ!! 屋上扉の前だ!!」
蓮の鋭い叫びと共に、4人は階段の最上部――特別棟の頂点にある狭い踊り場へと飛び込んだ。
目の前に立ちはだかるのは、厚さ数センチの重厚なグレーのスチール製防火ドア。
ドアの中央には、長年の錆で茶黒く変色した頑丈なハスプ金具。
そして、その掛け金の穴をガッチリと貫通して施錠されていたのは、先ほどまで彼らを絶望の底へと突き落としていた、あの直径1センチを超える真鍮製の大型南京錠だった。
「小林を壁際に! 葵、階段を警戒しろ!」
「了解っ!!」
健太が小林の身体を踊り場のコンクリート壁の隅へとそっと座らせ、葵が十字槍の切っ先を下層の階段へ向けて水平に構え直す。
蓮は木柄の簡易槍を左脇に抱え込み、作業用革手袋を脱ぎ捨てて素手になった右手を、制服の深いポケットへと突っ込んだ。
指先が触れたのは、冷たく、ズシリと重い真鍮の金属片。
職員室で命を落とした恩師・山路先生の亡骸を越え、押し寄せる大群の猛威を潜り抜けて手に入れた、唯一無二の希望――『特別棟最上階・屋上非常口マスターキー』だった。
「頼む……回ってくれ……!」
蓮は祈るように息を詰め、キーの先端を、南京錠の底面にあるシリンダー孔へと慎重に差し込んだ。
カチリ。
金属同士が完璧に噛み合う、硬質な手応え。
蓮は右手の親指と人差し指に全神経を集中させ、キーを時計回りにカチリと半回転させた。
『ガチャリ……』
暗い階段室のコンクリート壁に、澄み切った精密なシリンダーの駆動音が美しく反響した。
内部のラッチピンが一段ずつ押し上げられ、ロックが外れる微小な感触が、蓮の指先を通じて全身へと伝わる。
続いて――。
『パチンッ!!』
重厚な真鍮製のアーム(シャックル)が、スプリングの力で勢いよく跳ね上がった。
解錠。
彼らの行く手を阻み、死の袋小路へと縛り付けていた絶対の鉄鎖が、ついにその牙を抜かれたのだ。
「……外れた……!! 鍵が開いたぞッ!!」
蓮の喉から、歓喜の怒号が迸り出た。
「開いた……! 本当に開いたんだ……!!」
階段を見張っていた葵が、感涙の滲んだ掠れ声で叫び返した。
小林も壁に額を押し当て、震える拳を強く握りしめる。
「押すぞ……ッ!!」
蓮は外れた南京錠をハスプの穴から乱暴に引き抜き、床のコンクリートへと放り投げた。
そして、革手袋をはめ直した左手で、扉の中央に備え付けられた大型の金属製ラッチバーを、全身の体重を乗せて限界まで力任せに押し下げた!
『ガコンッ!!』
重いボルトが扉枠の受け座から一気に引き込まれる、確かな手応え。
蓮は両手でスチール扉の大型取っ手を掴み、大腿部と背筋の筋力を爆発させて、外側へ向かって重厚な鉄扉を力任せに押し開けた!
『ギィィィィィィィッ!!』
長年の雨風に晒され、油の切れかかっていた巨大なスチールドアが、重い金属の悲鳴を上げながら外側へと開かれた。
長年閉ざされていた重い鉄扉が外側へと開放された、そのわずか数ミリの隙間から。
ドッ……!!
たたきつけるような凄まじい「夜の突風」が、密閉された階段室へと怒涛の勢いで吹き込んできた。
「っ……!?」
息を呑む4人の全身を、冷たく澄み切った大気が一気に叩きつけた。
本棟から立ち上る焦げたプラスチックの不快な異臭、化成品の煙、そして人体が焼ける生臭い血の臭気を、一瞬にして吹き飛ばす清涼な風。
雨を含んだ湿り気と、夜空の冷気が、煤煙で汚れきっていた彼らの皮膚を激しく撫でていく。
制服の上に羽織った二重の紺色デニムエプロンの裾がバタバタと激しく羽ばたき、首元に巻きつけたポリエチレン製ラップとタオルの防具の隙間から、冷気が首筋に溜まっていた熱い汗を急速に奪い去っていった。
「入れ! 全員屋上へ入れぇぇぇッ!!」
蓮の叫びに応じ、健太が小林の身体を抱き抱え、開かれた扉の開口部へと真っ先に飛び込んだ。
「小林、頭を下げろ! 行くぞッ!」
「う、うんッ!!」
続いて葵が、両刃の十字槍を胸元に抱え込みながら、しなやかなステップで鉄扉の敷居を飛び越えた。
最後に蓮が、階段の下から手を伸ばして駆け上がってきた感染者の影を鋭く牽制しながら、扉の隙間へと素早く滑り込んだ。
4人の身体が、特別棟の屋上――広大なコンクリートの平床の上へと到達した。
「扉を閉めろ! 突っ張りを噛ませるぞ!!」
蓮は即座に身を翻し、開け放たれていた重厚なスチールドアの端を両手で掴み、全身の力で内側へと引き戻した!
健太もすかさず駆け寄り、鉄パイプ戦斧を脇に挟んで扉の取っ手を掴み、蓮と共に怪力を爆発させる。
『バタンッ!!!!』
澄んだ、重厚な密閉音が、夜の屋上に激しく響き渡った。
蓮はラッチバーを上へと力任せに引き上げ、ガコンッ! と音を立てて上下のロックボルトをドア枠の受け座へガッチリと噛み合わせた。
さらに、健太が背負っていたデイパックから、職員室を脱出する際に持ち出していた木製イーゼルの太い脚を引き抜き、ドアハンドルと壁の鋼製手すりの間の隙間へと力任せに深く突き挟み込んだ。
『ガシィィィンッ!!』
完璧な外側からの突っ張り施錠。
『ドドドドドンッ!! ガシャガシャガシャッ!!』
固定が完了したまさにその直後、鉄扉の向こう側――4階非常階段の踊り場から、追いついてきた無数の感染者たちが、扉へと激しく体当たりを喰らわせてきた。
ドカン! ドカン! と金属の打撃音が不気味に反響し、スチール製のドアパネルが内側からミリ単位で軋む。
下部のわずかな隙間から、爪の割れた黒い指先が何本も滑り出て、コンクリート面をガリガリと狂ったように引っ掻いた。
しかし、上下のロックボルトと、アロイスチールの構造、そして木製イーゼルの頑丈な突っ張りによって固定された扉は、どれほどの大群が押し寄せようとも、決して開くことはなかった。
遮断。
階下からの凶悪な死の追撃は、この重厚な鉄扉1枚によって、ついに完全に断ち切られたのだ。
「……ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……ッ……!」
蓮は鉄扉に背中を預け、冷たい夜風を肺いっぱいに吸い込みながら、膝に手をついて激しい呼吸を繰り返した。
首元のラップ防具を少し緩めると、冷えた夜風が首筋の汗を急速に蒸発させ、途方案もない解放感が全身を包み込んでいった。
手袋を外した右手の指先が、激しい疲労と緊張の弛緩によって、小刻みにカタカタと震えている。
隣では、健太が鉄パイプ戦斧を屋上のコンクリート床にカシャンと転がし、そのまま天を仰いで大の字に寝転がっていた。
逞しい胸が波打つように激しく上下し、目からは溢れ出た涙が、顔にこびりついた血と煤を溶かしながら頬を伝い落ちていく。
「……出た……! 本当に出られたんだな、俺たち……! 屋上に……!!」
健太の声は、歓喜と、極限まで削り取られた疲労によって、掠れ切っていた。
小林もまた、コンクリート壁に背中を預けて深く座り込み、包帯の巻かれた右足を伸ばしながら、両手で顔を覆って号泣していた。
「日高……健太……葵さん……! 俺……本当に屋上まで来られたんだな……! 見捨てないでくれて……ここまで連れてきてくれて……本当にありがとう……!」
「礼を言うのは俺たちの方よ、小林くん」
葵が両膝をつき、両刃の十字槍を床に置きながら、小林の肩にそっと手を置いた。
葵の目にも、いっぱいの涙が溢れていた。
「小林くんが最後まで諦めないで、自分の足で必死に歩いてくれたから……だからみんなでここまで来られたのよ」
葵はゆっくりと立ち上がり、鉄扉に背を預けていた蓮の元へと歩み寄った。
そして、煤で汚れた両手を伸ばし、蓮の右手をそっと、包み込むように強く握りしめた。
「日高くん……ありがとう。私達を……ここまで導いてくれて」
「……俺1人の力じゃない」
蓮は静かに首を横に振った。
葵の柔らかい手のひらのぬくもりが、凍りつきそうだった蓮の心を静かに温めていく。
「お前が前を刺し、健太が盾になり、小林が耐えてくれたからだ。誰か1人でも欠けていたら、職員室から戻ってくることはできなかった」
蓮は腰のベルトに固定された『全校管理者マスターキー束』、そしてリュックのサイドポケットに差し込まれた『手回し緊急防災ラジオ』の感触を確かめた。
さらに、胸元のポケットに大切に収められた、恩師・山路先生の血塗られた『2年B組・非常時避難誘導名簿』。
そのバインダーの角が、蓮の胸骨に確かな重みを与えている。
恩師の尊厳と命、そして仲間たちの魂のすべてを背負って、彼らは今、この学園の最高地点へと到達したのだ。
そこは、暗闇と夜風に包まれた県立彩葉第一高等学校の頂点だった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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