第34話:マスターキーとラジオ【1/2】
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『バリバリバリッ……!! ドガァァァンッ!!』
職員室の重厚な木製廊下側ドアが、外から押し寄せる無数の体圧と打撃によって内側へと激しく歪み、中央の木製合板に蜘蛛の巣状の太い亀裂が音を立てて走り抜けた。
隙間から突き出される、爪の折れた血塗られた指先。喉の奥で血の泡を噛み砕くような狂乱の呻きと咆哮が、1階の中央廊下から室内へと濁流のように雪崩れ込んでくる。
本棟1階の廊下を埋め尽くしていた数100体もの感染者たちが、先ほどの激闘の金属打撃音と、扉を叩く激しい衝撃音に引き寄せられ、この職員室の入口へと一気に殺到していたのだ。
だが、室内に満ちていたのは、焦げつくような沈黙と、息もできないほどの極限の緊迫感だった。
4人の首元に巻かれたポリエチレン製ラップとタオルの防護アーマーが、激しい鼓動に合わせて喉元を締め付ける。制服の上に纏った二重の紺色デニムエプロンの下では、全身から噴き出す冷汗が肌にべったりと張り付き、鉛のように重い感触を伝えていた。天井の蛍光灯カバーは本棟からの熱気で飴細工のように溶け落ち、焦げたプラスチックの不快な異臭と、一酸化炭素が肺を圧迫するような重苦しい圧力が、1階のフロア全体に淀んでいる。
教務デスクの足元には、先ほど蓮が苦渋の決断の末に引導を渡した、2年B組の担任・山路先生の亡骸が静かに横たわっていた。
額に走る冷たい傷痕。その左手からこぼれ落ちた『2年B組・非常時避難誘導名簿』は、蓮のリュックサックの中へと大切に収められている。
生徒たちの命を最期まで護ろうとした恩師の遺志と魂は、確かに教え子たちの背中へと託されたのだ。
胸を掻きむしるような痛恨と哀しみが蓮の胃の腑を締め付けていたが、彼はその感情のすべてに冷たい蓋をし、強制スイッチの奥底へと押し込めていた。
ここで感傷に流されて足を止めれば、先生が命を賭して護ってくれたこの命が、一瞬にして灰燼に帰す。生き残ること。仲間全員を生かしてこの地獄から脱出することだけが、恩師への唯一の報いなのだ。
「日高! ドアがもう持たねえぞ!!」
大型デスクの上に立った健太が、鉄パイプ戦斧を両手で構え直しながら、血相を変えて叫んだ。
「木枠がメリメリ割れてきてる! あと数10秒で扉ごとブチ破られるぞ! 早く欄間から天井のラックへ登れ!!」
健太の顔面やデニムエプロンは、先ほどまでの激闘で飛散した感染者のどす黒い血液と、火災の煤煙で真っ黒に汚れていた。その足元、教務デスクの奥にある大型スチール本棚の陰には、右足を負傷した小林が、必死に痛みに耐えながら身を小さくして蹲っている。
「葵、小林を頼む! 健太、引き上げる準備をしろ!」
蓮の声は、この絶体絶命の危機にあっても、氷のように冷徹に冴え渡っていた。
「日高くん……!? あなたは何をする気なの!?」
葵が両刃の十字槍を胸元に抱き締め、本棚の陰から小林を抱き起こしながら叫んだ。
「鍵だ! マスターキーを探す!」
蓮は木柄の簡易槍を左手に握り直したまま、教務主任や生活指導部長のデスクが並ぶ、中央の教卓エリアへと鋭い視線を走らせた。
「あの屋上扉を施錠している南京錠のマスターキー……それだけじゃない。この死と炎に包まれた学園を脱出し、外の街を何キロも踏破して家族の元へ帰り着くためには、校内の防犯扉や裏門のフェンスを一瞬で解錠できる【全校管理者マスターキー】が絶対に必要だ! それが、この教卓のどこかに必ず保管されているはずなんだ!」
蓮の脳内では、父から叩き込まれた危機管理とサバイバル理論が、猛烈なスピードで警鐘を鳴らし続けていた。
正門や昇降口はすでに崩壊し、数100体の群れで完全に塞がれている。
屋上で状況を確認した後に地上へ降りるにせよ、校舎の外へ脱出するにせよ、鍵のかかった裏門の防犯フェンスや、体育館の非常搬入口を通過しなければならない。
その時に鍵を持っていなければ、再び行き止まりに追い詰められて全滅する。
この職員室に足を踏み入れた今、マスターキーを手に入れずに退却することは、自ら未来の退路を断つに等しかった。
「俺が探す! 健太と葵は小林を守りながら、いつでも欄間へ上がれる体勢をとれ!」
蓮は教務デスクの天板を力強く蹴りつけ、散乱する書類の海へと飛び降りた。
床に散乱するテスト用紙、出席簿、倒れたスチールチェアを踏み分け、蓮は中央の教務主任の大型教卓へと跳び寄った。
教卓の上には、採点途中の答案用紙や赤ペン、教員用の大型スケジュール帳、生徒からの進路希望シート、そして倒れたパソコンモニターが無残に散らばっていた。
浅井先生の丁寧な字で書かれた連絡プリントの余白が、足元に広がる黒い血液に浸かって滲んでいる。
(どこだ……!? 教務主任の机か、それとも管理職の引き出しの中か……!?)
蓮は手にした木柄の簡易槍を左脇に抱え込み、作業用革手袋をはめた右手で、教卓の右側にある深型スチール引き出しの取っ手を力任せに引っ張った。
『ガチャンッ!!』
鍵はかかっていなかった。引き出しが勢いよく飛び出し、中から印鑑や朱肉、クリップ、そして教員用の私物入れが雪崩れ出る。
蓮は迷うことなく手を突っ込み、書類の束を掻き分けた。
だが、そこにあったのは文房具とチョークの予備だけだった。
(ここじゃない……! 隣の引き出しだ! 鍵の管理責任者は教務主任か生活指導部のはずだ……!)
蓮は瞬時に身体を滑らせ、中央のワイド引き出し、そして下段の大型ファイルボックスへと手を伸ばした。
かつて放課後、生徒会や図書委員の打ち合わせで職員室へ入った際、教務主任の浅井先生が席を立つたびに、デスクの左下の引き出しに重要書類や鍵束を厳重にしまっていた光景が、蓮の脳裏に鮮明にフラッシュバックしていた。
『学校の鍵は、生徒の命を預かる重い責任の塊なんだよ』と、浅井先生は真顔で語っていたのだ。
外の木製ドアからは、メキメキ……バリッ! と木枠がへし折れる不吉な破砕音が連続して響いている。
ドアの隙間から差し入れられた数本の黒い腕が、狂ったように空を掻き毟り、血に染まった爪が壁の漆喰をガリガリと削り落としていた。
扉が完全に決壊するまで、もう1分もない。
「日高、急げ!! 扉の真ん中に穴が空いたぞ!!」
健太の悲鳴に近い怒号が飛ぶ。
「あと少しだ……! 必ずここにあるはずなんだ!!」
蓮は歯を喰いしばり、教卓の左側――教務主任が重要書類を保管するために使う、二重底になった木製の引き出しを力任せに引き抜いた。
『バキッ!!』
引き出しの奥、木製の仕切り板と耐火フェルトの隙間に、ズシリと重い金属の塊が挟まっていた。
蓮の指先が、冷え切った真鍮の感触を捉えた。
蓮はそれを一気に引っ張り出した。
懐中電灯の細い光束の下に現れたのは、まさに彼らが求めていた奇跡の鍵だった。
まず、単体で革紐に通されていた、真鍮製の大型シリンダーキー。
金属プレートには、赤い油性ペンでハッキリと刻まれていた。
――『特別棟最上階・屋上非常口マスターキー(予備)』
「あった……!! 屋上の鍵だ!!」
蓮の喉から、押し殺した歓喜の声が漏れた。
だが、それだけではなかった。
その鍵のすぐ隣、引き出しの底に敷かれたフェルトの下から、さらに巨大な金属の束が姿を現したのだ。
直径10センチを超える太いスチール製キーリング。そこに、20本以上の重厚な鍵がジャラリとひとまとめに結束されていた。
それぞれの鍵には、耐久性の高い真鍮製の刻印プレートが取り付けられており、
『本棟全域万能』
『特別棟全域万能』
『体育館・地下設備万能』
『学校外周フェンス・裏門管理者キー』
『防災備蓄倉庫マスター』
と、学校内のあらゆる重要拠点の名称が整然と刻み込まれていた。
『学校全施設共通・最重要マスターキー束』。
「これだ……! これさえあれば……!!」
蓮の胸の奥で、熱い血潮が激しく脈打った。
屋上の南京錠を解錠できるだけではない。
学校の裏門の重厚な防犯フェンス、体育館の地下搬入口、敷地外周の鉄扉――あらゆる閉鎖区画を瞬時に開け放ち、外の暗闇の街へと脱出するための【フリーパス】を手に入れたのだ。
蓮は即座にリュックのサイドポケットから予備の登山用カラビナを取り出し、マスターキー束のリングを腰のベルトの太いループへとガッチリと連結させた。
さらに、走った時に20本以上の鍵がぶつかり合ってジャラジャラと金属音を立てないよう、教卓の上に転がっていた太い輪ゴムと布ガムテープを使い、鍵の束全体を何重にもクルクルと強固に縛り上げた。
金属同士の接触音を完全に殺す――徹底したサバイバルの消音工作。
これで、屋上への切符と、学校外への脱出路の双方が、物理的に確保された。
だが、蓮が立ち上がり、教卓から飛び退こうとした、まさにその刹那だった。
『ザザ……ザザザ……ジジジジ……ッ!』
教卓の右端、倒れたパソコン用スピーカーと書類の山の陰から、不意にノイズ混じりの微かな電子音が漏れ出してきた。
「っ……!? なんだ今の音は……!?」
健太がデスクの上から身を乗り出し、鉄パイプを構えながら目を見開いた。
葵も両刃の十字槍を引き絞り、本棚の陰にいる小林の前に立ちはだかって周囲を警戒する。
蓮は教卓の上へ視線を向けた。
倒れた書類の山を素早く払い除けると、そこには1台の『手回し充電式・緊急防災ラジオ(同報無線受信機)』が転がっていた。
オリーブドラブ色の頑丈な耐衝撃樹脂ケースで覆われた、学校の非常災害用備品。
先ほどの激しい突入や山路先生との死闘、あるいは本棟の火災による激しい地響きの衝撃によって、本体側面の電源スイッチが強引にスライドし、内部の蓄電池から電力が供給されて起動したようだった。
チカ……チカ……と、本体正面にある緑色のLEDインジケーターランプが不規則に明滅している。
伸縮式の金属ロッドアンテナが途中でくの字に折れ曲がりながらも、天井に向かって伸びていた。
そして、ラジオのスピーカーの金属網から、激しい静電気ノイズを突き破って、女性アナウンサーの切迫した、今にも泣き出しそうな悲痛な声が職員室の中に響き渡った。
『――繰り返します。こちらは彩葉市災害対策本部および陸上自衛隊合同広報です……ザザッ……現在、彩葉市内全域に【レベル5・緊急安全確保】および【全市避難指示】が発令されています……!』
突如として室内に響き渡った、外界からの人間の肉声。
その大音量の警告放送に、4人の全身に電撃のような衝撃が走った。
「ラジオ……!? 外からの放送が生きてる……!?」
小林が本棚の陰から身を乗り出し、掠れた声で呟いた。
蓮は即座に木柄の槍を脇に挟み、手回しラジオへと駆け寄って耳を近づけた。
通信が完全に絶たれ、インターネットも遮断され、スマートフォンが沈黙したあの日没から、数時間。
外界で一体何が起きているのか、自分たち以外の人間はどうなったのか――何一つ情報を持たずに暗闇の校内を彷徨っていた彼らにとって、そのラジオから流れる音声は、絶望の厚い雲を切り裂く唯一の「外界の真実」だった。
『――本日午後4時3分ごろ、彩葉市中央区において発生した、詳細不明の急性重症脳炎および強度の認知行動障害を伴う変異型感染症の爆発的な拡大により……ザザッ……市内複数の医療機関、警察署、消防署、および主要公共施設において、大規模な暴動および狂暴化事案が連鎖的に発生しています……! 感染者は理性および自律意識を完全に喪失し、未感染の生存者に対し、凶暴な肉体攻撃と咬傷行為を無差別に執ります……!』
アナウンサーの声は、背後で鳴り響く激しいサイレンや爆発音のノイズを拾いながら、震える息を吐き出して続けられた。
『――市民の皆様に重大な警告をお伝えします……! 警察機動隊および陸上自衛隊初期派遣部隊によって設営されていた第一次防衛封鎖線は……本日の午後6時20分をもって、群衆の猛烈な圧力により完全に突破されました……!
現在、市内全域の送電網、固定電話回線、主要携帯電話基地局、および緊急通報110番・119番の通信機能は壊滅しており、警察署、消防署ともに機能不全に陥っています……!
行政機関による個別の救助活動や現場急行には一切応じられない状況にあります……! 未感染の市民の皆様は、直ちに身の安全を最優先とし、頑丈な建物内に立てこもって施錠を完了してください……!』
アナウンサーの叫びのような生々しい報告に、葵が両手で口元を覆い、息を呑んだ。
警察も、消防も、自衛隊の初期部隊すらも瓦解した。
自分たちが校内の理科室や家庭科室で地獄の死線を潜り抜けていた間、校舎の外に広がる彩葉市の街全体もまた、何の手立てもないまま、巨大な狂気の津波に飲み込まれて壊滅していたのだ。
だが、ラジオのスピーカーから流れる声は、そこで途絶えはしなかった。
アナウンサーは激しく乱れる呼気を整え、命を賭して電波に乗せるように、最も決定的な情報を告げ始めた。
『――繰り返します! 彩葉市内に残された生存者の救命および市外への緊急脱出のため、自衛隊統合任務部隊による【第1次臨時避難集結ポイント】が開設されました……!』
蓮の瞳が、暗闇の中でカッと見開かれた。
『――避難集結ポイントは、彩葉市役所前広場、および【市立総合病院・第1駐車場】の2箇所です……! 同地点には陸上自衛隊の大型輸送ヘリコプターおよび軽装甲機動車が配備され、順次、市外の安全地帯へのピストン輸送を実施しています……! 繰り返し申し上げます。自力移動が可能な市民の皆様は、明朝の黎明――午前5時までに、各集結ポイントへ到達してください……!』
ノイズの合間を縫って響いたそのアナウンスは、絶望の暗黒の中で手探りの生存を続けていた4人の心に、雷鳴のような強烈な衝撃となって突き刺さった。
明朝、午前5時。
現在の時刻は、午後8時を回ったところだ。
残された時間は、およそ9時間。
それまでに集結ポイントへ自力で辿り着くことさえできれば、軍の大型輸送ヘリに乗って、この地獄と化した彩葉市から完全に脱出できるのだ。
「市立総合病院……!?」
デスクの上で小林を支えていた葵の口から、悲鳴にも似た甲高い叫びが上がった。
葵の大きな瞳から、止めどなく涙が溢れ出し、煤で汚れた頬を光の筋となって濡らしていく。
幼い頃から、夜勤で家を空けることが多かった母。だが、母はいつも誇らしげに『看護師はね、人が一番困っている時に手を差し伸べる仕事なのよ』と微笑んでいた。
家庭科室で健太の手当をした時、そして屋上の扉の前で行き止まりに直面した時、葵の心の芯を支え続けてくれたのは、いつも凛として命と向き合っていたあの母の教えだった。
その母が、まさに自衛隊の避難拠点となっている総合病院の現場で、今も負傷した人々の命を救うために必死で戦っているかもしれないのだ。
「お母さん……! 私のお母さん、市立総合病院の救急病棟で看護師長をしてるの……! お母さん、あそこにいるんだわ……! 生きてる……絶対に生きてる!!」
葵は胸の前で両刃の十字槍をギュッと強く抱きしめ、全身を震わせて感涙に咽んだ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




