第33話:職員室の異変【2/2】
おかげさまで、月間ホラー〔文芸〕ランキングにランクインしました!
読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!
蓮は腰を落とし、槍の切っ先を山路先生の首元へと向けた。
だが――。
蓮の切っ先もまた、激しく上下に揺れ、狙いを定めることができなかった。
持ち手の手袋が軋み、指先が強張って動かない。
(突け……! 突かなきゃ葵が死ぬ……! 俺たち全員が全滅する……!)
頭では分かっている。合理的な判断を下せと、脳細胞のすべてが叫んでいる。
だが、胸の奥底から噴き上がってくる怒涛の記憶が、蓮の腕を重い鉛の鎖となって縛り付けていた。
蓮は、決して目立つ生徒ではなかった。
事なかれ主義で、教室の隅の席に座り、休み時間はいつも文庫本を開いて他者との関わりを最小限に抑えていた。他人の人生に深く踏み込むことを恐れ、傷つくことも傷つけることも避けて、波風を立てずに生きてきた平凡な少年。
そんな蓮に、高校に入学した初日、最初に声をかけてくれた大人が、山路先生だった。
――『日高、お前は普段は静かだけど、目がすごくいいな』
放課後の教室で、山路先生は優しげな銀縁眼鏡の奥の瞳を細めて、蓮の顔を覗き込んできた。
――『周囲をよく見ているし、人の痛みに気づける目をしている。自分の殻に閉じこもるなよ。困ったことがあったら、いつでも俺のところへ来い。お前の味方だからな』
1年の冬、三者面談の時。
元自衛官の父が任務で来られず、不安そうに同席していた母・恵子に向かって、山路先生は満面の笑みで言ってくれた。
――『お母さん、安心してください。蓮くんは派手さはありませんが、とても誠実で、誰よりも芯の強い生徒です。周囲に流されず、物事の本質を冷静に見極める力を持っています。素晴らしい息子さんですよ』
あの時、母がどれほど安堵した表情を浮かべたか。蓮は今でも鮮明に覚えていた。
小テストで平均点ギリギリの点数を取った時、職員室の前で『次はもうちょっと頑張ろうな、日高』と笑いながら軽く頭を小突いてくれた、あの温かい大きな手。
その恩師が。
自分という存在を認め、見守り、背中を押してくれた恩師が、今、目の前で化け物となって教え子の喉元を貪り食おうとしている。
(突けない……ッ!)
蓮の心の中で、かつての弱い自分が悲鳴を上げていた。
(加藤の時も……森下の時もそうだった……! いくら頭で割り切ろうとしても、相手が自分を知ってくれていた人間である以上……この手で命を奪う瞬間、魂が引き裂かれるような激痛が走るんだ……!)
「ウガァァァァッ!!」
山路先生の牙が、葵の首元に巻かれたラップとタオルの防具へと食い込んだ!
ギリギリと布が引き裂かれる不気味な音が響く。防具の層が歯の侵入を辛うじて防いでいるが、それもあと数秒で破断する。
葵の瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れ落ちる。
恐怖に歪む顔。
そして、その瞳が蓮を捉えた。
――『日高くん……!』
その瞬間だった。
蓮の胸の奥で、生ぬるい迷いと躊躇の霧が、激しい火花となって一瞬にして吹き飛んだ。
(何を……躊躇っているんだ、俺は……!!)
己の弱さを恥じる猛烈な怒りが、蓮の全身の血管を灼熱のマグマとなって駆け巡った。
自分が立ち止まれば、葵が死ぬ。
健太が死ぬ。小林が死ぬ。
そして、山路先生は――最期まで教え子を守ろうとして命を落としたあの優しい恩師は、自らの手で愛する教え子を喰い殺したという、永遠に償えない地獄の汚名を背負わされることになるのだ。
(先生を……そんな化け物のまま終わらせてたまるか……!!)
恩師の肉体をこの手で討ち滅ぼすことは、大罪かもしれない。
だが、恩師の魂の尊厳を守り、仲間全員を生かしてここから脱出することこそが、今この地獄の中で、自分が背負わなければならない唯一の『責任』なのだ。
父の声が、脳裏の底で雷鳴のように轟いた。
――『感情に支配されるな。感情の蓋を閉めろ。生き残るための【強制スイッチ】を入れろ』
カチリ、と心の中のスイッチが押し込まれた。
蓮の迷いは完全に蒸発し、瞳の奥に宿ったのは、氷のように冷徹で、炎のように烈しい、サバイバーとしての純粋な覚悟だった。
蓮の右足が、教務デスクの分厚い木製天板を力強く踏み抜いた。
腰を極限まで低く沈め、足裏から大腿部、背筋、肩、そして両腕へと、全身の運動エネルギーを直線的に連動させる。
木柄の簡易槍のグリップを握る手袋が、ミシミシと悲鳴を上げるほどの握力。
狙うは、山路先生の開かれた顎の下――骨の薄い軟骨部を通り、頭蓋底を砕いて脳幹へと至る、唯一無二の急所。
――『日高、お前は目がいいな。周囲をよく見ている』
恩師の残してくれた言葉が、蓮の切っ先の軌道を、寸分の狂いもなく標的の中心へと導いていく。
「うおおおおおああぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
魂を削り出すような咆哮と共に、蓮は木柄の簡易槍を直線的に突き穿った!
『シュッ!』
夜の空気を切り裂く、鋭利な一閃。
『ズドスッ……!!』
鈍く、重い破壊音が、職員室の静寂を木っ端微塵に打ち砕いた。
手応えが、木柄を通じて蓮の両腕、そして肩と背骨へとダイレクトに突き抜けた。
裁ちばさみの分厚い鋼刃が、山路先生の顎下の柔らかい皮膚を貫通し、舌を裂き、頭骨の底部を粉々に砕いて、生命活動を司る脳幹の中枢へと深々と突き刺さっていた。
「……がっ……ッ……!?」
山路先生の動きが、嘘のようにピタリと停止した。
葵の首元の防具に食い込んでいた歯並びが力を失い、襟ぐりを掴んでいた左手の爪が、ハラリと解けて離れる。
白濁し充血していた瞳から、狂暴な光が急速に色褪せていき、全身の筋緊張が一気に脱落していった。
刃を通じて伝わってくるのは、生命のスイッチがプツリと切断されたような、絶対的な無の感触。
その一瞬。
本当に、瞬きひとつの刹那だった。
山路先生の割れた眼鏡の奥にある瞳に、微かな光が宿ったように蓮には見えた。
狂気でも飢餓でもない。
かつて教室の窓際で、静かに本を読んでいた蓮を見つめてくれた、あの穏やかで、慈愛に満ちた恩師のまなざし。
自分に引導を渡し、仲間を守り切った教え子の顔を、先生は静かに見つめ返していた。
――『ありがとう、日高』
声にはならない、けれど確かに心に届く幻聴のような響きが、蓮の胸の奥底を激しく震わせた。
「……引き抜くっ!!」
蓮は歯が砕けんばかりに噛み締め、両腕に全体重を込めて、刺し貫いた槍を手元へと強引に引き戻した。
『ポンッ!』
肉と骨が外れる湿った嫌な音が鳴り、鋼刃が山路先生の頭部から一気に抜け出た。
どす黒い血液が空中に微かに飛散し、山路先生の巨体は糸の切れた操り人形のように、教務デスクの足元――散乱したテスト用紙の上へと、顔面からドサリと崩れ落ちた。
一度だけ、指先がピクンと小さく痙攣し。
それきり、二度と動くことはなかった。
完全な沈黙。
本棟から届く遠い火災の轟音と非常ベルのノイズだけが響く中、職員室のデスクの上に、息の詰まるような重い静寂が落ちた。
「……あ……ああ……あぁぁぁ……っ……!」
健太が崩れ落ちるようにデスクの上に両膝をつき、握りしめていた鉄パイプ戦斧を天板の上に転がした。
大柄な身体を丸め、顔を両手で覆いながら、声にならない号泣を漏らす。
指の隙間から、止めどなく涙が溢れ出し、煤で汚れたデスクの木目を濡らしていく。
守ってやりたかった。救いたかった。だが、自分には何もできず、最後は親友に恩師を殺させるという最も重い十字架を背負わせてしまった。その悔しさと痛恨が、健太の胸を激しく締め付けていた。
葵もまた、首元に残された指の跡を震える手で触れながら、床に横たわる恩師の亡骸を見つめ、声を殺して激しく肩を揺らして泣き崩れていた。
「先生……山路先生……っ……うっ……うわぁぁぁん……!」
自分を呼んでくれた優しい声。進路のことで悩んでいた時、職員室の席で何時間も話を聞いてくれた思い出。そのすべてが走馬灯のように駆け巡り、葵の視界を涙で塗り潰していく。
本棚の陰に隠れていた小林も、壁に額を押し当て、溢れ出る涙を堪えきれずに嗚咽を漏らしていた。
「先生……俺たちを守ろうとして……最後まで名簿を持って……そんなの……あんまりだよ……!」
自分たちを育て、導き、味方でいてくれた恩師を、自らの手で殺めたという残酷な現実。
それが仲間を救うための唯一の選択であったと理解していても、高校生たちの未熟な心にとって、その罪悪感と喪失感は、あまりにも重く、あまりにも深く胸を切り裂いていた。
だが、蓮は泣かなかった。
蓮は教務デスクの上に直立したまま、血の滴る簡易槍の刃先を、静かに見つめていた。
その指先は、革手袋の中で激しくガタガタと震えていた。
胸の奥から猛烈な吐き気がせり上がり、胃液が喉元まで逆流してくる。
膝が崩れ落ちそうになり、今すぐその場に蹲って、耳を塞いで叫び出したい衝動が全身を襲う。
だが、蓮は奥歯を血が滲むほど強く噛み締め、胃液を喉の奥へ強引に押し戻した。
右手に力を込め、震える指を無理やり柄に固定する。
(泣くな。……ここで俺が泣いたら、先生の死が無駄になる)
泣くのは、全員を生き残らせて、安全な場所へ連れて行った後だ。
今、自分に課せられた唯一の使命は、恩師が命を賭して護ろうとした教え子たちを、1人残らず生きてこの地獄から脱出させることだけなのだ。
蓮は静かに息を整え、教務デスクの天板から床の上へと音もなく飛び降りた。
床に散乱するテスト用紙や出席簿を踏み分け、倒れ伏す山路先生の傍らへと歩み寄る。
膝をつき、手にした木柄の簡易槍の刃先を、山路先生のスーツの清潔な裾でそっと拭った。
鋼の刃にこびりついていたどす黒い血液が拭い去られ、裁ちばさみの冷たい金属光沢が再び姿を現す。
そして、蓮は床の上に落ちていた黒いバインダーへと手を伸ばした。
血痕が点々と付着した、『2年B組・非常時避難誘導名簿』。
角が潰れ、表紙のビニールが擦り切れているその名簿を、蓮は両手で大切に抱え上げた。
バインダーを開くと、そこには山路先生の几帳面で整った万年筆の文字が、一行一行、丁寧に並んでいた。
生徒たちの氏名、住所、自宅の電話番号、保護者の携帯番号。
蓮、健太、葵、小林、加藤、篠原、森下……。
それぞれの名脇には、
『日高:冷静、芯が強い。周囲をよく見ている』
『城山:部活に熱心。仲間思いで責任感が強い』
『水島:礼儀正しく集中力が高い。看護師の母を尊敬』
『小林:明るくクラスのムードメーカー。サッカー部』
といった、担任としての温かい所見やメモが、びっしりと書き込まれていた。
あの大混乱の中、逃げ惑う生徒たちの命を1人でも多く救おうと、この名簿を胸に抱えて走り回っていた恩師の姿が、紙面を通じて痛いほど鮮烈に伝わってきた。
「……もらうぞ、先生」
蓮は低く、掠れた声で呟いた。
その瞳には、もはや迷いも動揺もなかった。ただ、恩師の遺志を継ぎ、仲間を生かして連れ帰るという、燃えるような鋼の決意だけが宿っていた。
「先生が守ろうとした命も……先生が家族に渡したかったみんなの安全も……俺たちが代わりに、必ず届ける。絶対に、全員で生きてここを出るからな」
蓮はバインダーを閉じると、自らの背中のリュックサックを開け、水と食料の隙間にしっかりと収め、ファスナーを閉じた。
先生の魂を、背中に背負った瞬間だった。
蓮は立ち上がり、デスクの上で未だ涙を流している健太と葵、そして本棚の陰で肩を震わせる小林を見上げた。
「健太、葵、小林。顔を上げろ」
蓮の声は、冷徹ではなかった。けれど、暗闇の絶望を打ち払う、揺るぎない力強さに満ちていた。
「泣くなとは言わない。胸が張り裂けそうなのも、全部同じだ。……だが、ここで立ち止まったら、先生の命と引き換えに繋いだこの時間が、全部無駄になる。先生が最期まで守ろうとした俺たちの命を、今度は俺たち自身の力で全うするんだ」
蓮の言葉が、凍りついていた3人の心に、温かい灯火となって染み渡っていった。
健太が制服の袖で乱暴に涙と鼻水を拭い、ゴクリと唾を呑み込んで顔を上げた。
「……ああ。そうだな、日高。……お前の言う通りだ。山路先生に顔向けできねえような無様な死に方は、絶対にできねえ」
健太は床から鉄パイプ戦斧を拾い上げ、デスクから飛び降りた。その瞳には、恩師への誓いと、再び前を向く男の覚悟が宿っていた。
葵もまた、震える指先で涙を拭い去り、両刃の十字槍を胸元に抱え直してデスクから降り立った。
「私も……もう泣かないわ。先生が遺してくれたこの命、絶対に諦めたりしない」
小林も本棚の陰から身を乗り出し、痛む足を押さえながら、力強く頷いてみせた。
「日高……俺も一緒に行くよ。先生のためにも、全員で生き残るんだ」
4人の心が、悲劇の涙を乗り越え、再び1つの強固な意志によって結びついた。
ジリリリリリリリリ――ッ!
遠く天井のスピーカーから、非常ベルのノイズが途切れ途切れに反響している。
そして、職員室の外――1階の中央廊下からは、未だに数100体の感染者たちが発する、不気味な地鳴りのような呻き声と足音が聞こえていた。
火災の熱気は刻一刻と増しており、割れた窓や換気口を通じて、薄煙が職員室の天井付近にも渦を巻き始めている。
残された時間は、決して多くはなかった。
「目的を果たすぞ」
蓮は職員室の奥――整然と並ぶ教員用スチールデスクの島、そして壁際に設置されたキーキャビネットへと視線を向けた。
「あの屋上扉を施錠している、南京錠のマスターキー……。それが、この部屋のどこかに必ずある」
蓮は木柄の簡易槍を構え直し、静かに足を踏み出した。
「教卓の周り、あるいは壁のキーボックスだ。……探すぞ。屋上への扉をこじ開ける、希望の鍵を」
恩師との凄惨な別れを越え、4人は次なる生存への切符を掴み取るため、暗闇に沈む職員室の深部へと、力強い一歩を踏み出していった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。
ぜひ「★評価」と「ブックマーク」で応援してください!
これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




