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残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―  作者: solune
第1部:学園脱出と日常の崩壊

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第33話:職員室の異変【1/2】

おかげさまで、月間ホラー〔文芸〕ランキングにランクインしました!

読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!

頭上わずか30センチに迫るコンクリート天井と、足元3メートル下で蠢く無数の感染者たちの肉の海。

その狭間に架けられた幅50センチの鉄製ケーブルラックの上で、蓮、葵、小林、健太の4人は、胸を冷たい金属枠に擦り付けたまま、身動きを止めていた。


下層の1階廊下からは、昇降口の割れたガラス扉から雪崩れ込んできた数100体もの感染者たちが発する、地鳴りのような呻き声と足音が絶え間なく響いている。

腐敗した血液と焦げた肉の生臭く爛れた臭気が、熱風の上昇気流に乗って容赦なく吹き上がり、4人の肺胞を毒するように満たしていた。

もし、この細い鉄の骨組みが1本でも破断すれば、待っているのは生きたまま無数の顎に引き裂かれる断末魔の地獄だ。

だが、蓮たちの視線は、もはや足元の地獄には向けられていなかった。

前方の割れた『欄間ガラス』の開口部――本館1階・職員室の内部へと、完全に全神経が注がれていた。


割れた木枠の隙間から差し入れた小型LED懐中電灯の細い光。

その白い光の円錐が捉えたのは、暗闇に沈む教卓の陰から、乾いた書類を踏みしめながらゆっくりと立ち上がってきた、1つの異形の影だった。


ボロボロに引き裂かれたグレーのスーツ。

腹部から流れ出た大量の赤黒い血液と体液がワイシャツを黒く染め、床の書類へとボタボタと滴り落ちている。

左の喉元から鎖骨にかけての肉は、何者かの凶暴な牙によってごっそりと抉り取られ、頚動脈の断裂面が生々しく露出していた。

そして、胸元に斜めにぶら下がった見覚えのある青いネックストラップの教職員IDカード。

そこには、印字された顔写真と共に、見慣れた文字が記されていた。


――『2年学年付・数学科教諭 山路誠一』


「……っ……!!」

蓮の隣で身を伏せていた葵が、息を呑み、両手で自らの口元を強く覆った。

その大きな瞳から、見る見るうちに大粒の涙が溢れ出し、煤で汚れた頬を伝い落ちていく。


健太もまた、鉄網を掴む太い指先をガタガタと激しく震わせ、血の気の引いた顔でその姿を凝視していた。

「嘘だろ……先生……? 山路……先生なのかよ……!?」


小林も、健太の背後で息を詰まらせ、信じられないものを見るように目を見開いていた。

「山路先生……そんな……嘘だろ……! いつも職員室で笑って迎えてくれた先生が……!」


そこに佇んでいたのは、間違いなく自分たち2年B組の担任教師であり、数学を担当していた山路誠一だった。


30代半ばの、いつも柔らかな笑顔を絶やさなかった温厚な男。

少しボサボサとした癖毛に、銀縁の眼鏡。

数学の授業では、難しい公式を生徒たちに分かりやすく教えようと手作りのプリントを夜遅くまで印刷し、放課後の教室で分からないところを質問に行けば、嫌な顔一つせず何時間でも親身になって教えてくれた。

運動が苦手で、体育祭の教員対抗リレーでは派手に転んでクラス中の笑いを誘い、照れくさそうに頭を掻いていた、生徒思いの誰からも愛される恩師。


だが、今、懐中電灯の光の下に晒されたその横顔には、かつての優しい面影など惨たらしく破壊し尽くされていた。

割れた眼鏡の片方のレンズの奥で、白濁し充血した瞳が、焦点を結ばないまま虚空を睨みつけている。

右腕の肘から先は不自然な角度へとねじ曲がり、引き裂かれた唇の間からは、飢餓感に突き動かされた捕食者の粘ついた呼気が漏れ出ていた。


そして――何よりも4人の胸を鋭いナイフで抉るように締め付けたのは、彼の左手に死後硬直のような強烈な力で握りしめられていたものだった。


それは、血みどろになった『2年B組・非常時避難誘導名簿』の黒いバインダーだった。


生徒たちの氏名、住所、保護者の緊急連絡先、そして持病やアレルギーの有無が、山路先生の几帳面な字で細かく手書きされた、あの避難誘導名簿。

学園が阿鼻叫喚の地獄へと変貌したあの最初の混乱の中、彼はパニックに陥る生徒たちを安全に誘導しようと校内を必死に駆け回り、この名簿を胸に抱きしめたまま、群れに襲われたのだ。

ウイルスの毒素に脳を侵食され、人間としての意識と記憶を完全に奪い去られた後もなお、彼の肉体は、教え子たちの命を守るための名簿を、決して手放すことなく握り締め続けていた。


「先生……最期まで……私たちのことを護ろうとして……」

葵の喉から、押し殺した嗚咽が漏れた。


蓮は歯が砕けんばかりに噛み締め、胸の奥で渦巻く激しい痛みを必死にねじ伏せた。

(山路先生……。あなたが、こんな姿になるなんて……)


だが、感傷に溺れている時間はない。

本棟の火災の煙は、この1階の天井付近にも確実に流れ込み始めており、足元の廊下では数100体の群れが蠢いている。

何より、自分たちの目的は、この職員室のどこかにある『屋上非常口のマスターキー』を奪還することなのだ。


「……降りるぞ」

蓮は極小の囁き声で、後ろの3人に告げた。

「欄間の木枠から、教務主任の大型デスクの上へ飛び移る。……小林、足を絶対にぶつけるなよ」


「わ、分かってる……」小林が震える声で頷いた。


「健太、小林を抱えて先に降りろ。葵が続いて、俺が殿だ。……音を立てるな」


蓮の指示に従い、健太は小林の腰に腕を回し、割れた欄間の開口部から慎重に身を乗り出した。

高さはおよそ1.8メートル。直下には、分厚い木製の教務デスクの天板がある。

健太は小林の身体を先にデスクの上へとそっと降ろし、自らも音もなく天板の上に着地した。

続いて葵が、両刃の十字槍を背中に固定したまま、吸い付くようにしなやかな動作でデスクの上へと滑り降りる。

最後に蓮が、木柄の簡易槍を抱え込み、靴底のラップで衝撃音を完全に殺しながら、デスクの端へと降り立った。


4人は、ついに目的の職員室の内部へと足を踏み入れた。


着地と同時に、蓮は小林をデスクの奥の死角――大型のスチール製本棚の陰へと静かに座らせた。

「小林、ここで身を潜めてろ。絶対に声も物音も立てるな」

「うん……分かった。日高、気をつけてくれ……!」

小林は壁に背を預け、痛む右足の包帯を両手で抱え込みながら必死に頷いた。


蓮は即座に腰を低く落とし、木柄の簡易槍を両手で構え直して、職員室の全容を素早くクリアリングした。

広さは、普通教室4部屋分ほどもある広大なフロア。

天井から下がる蛍光灯の多くは停電によって完全に沈黙し、非常口の緑色の誘導灯と、窓の外から差し込む本棟火災の赤い照り返しだけが、室内に不気味な明暗のコントラストを作り出していた。

床には、散乱した採点済みのテスト用紙、生徒の提出ノート、倒れたパソコンモニター、そして書類の山が雪のように降り積もっている。

壁際には、耐火書庫、印刷機、教員用のロッカー。

そして、部屋の奥――教務主任や生活指導部長の席があるエリア。


室内に蠢く影は、先ほど立ち上がった山路先生ただ1体のみだった。

他の教職員たちは、発症直後に外へ逃げ惑ったか、あるいは別の場所へ移動したのか、この広い職員室の中には、彼以外の動く者は存在しなかった。


だが、その「たった1体」という事実こそが、彼らにとって世界で最も重く、残酷な試練だった。


カサリ……。


床に散らばるテスト用紙を靴底が踏みしめる音が、静まり返った職員室に響いた。

山路先生の身体が、教卓の陰からゆっくりと歩み出てきたのだ。

折れ曲がった右腕を力なくぶら下げ、血に染まった左手で名簿のバインダーを固く抱え込んだまま、足を引きずるようにして前進してくる。

割れた眼鏡の奥にある白濁した瞳が、微かに揺れ動いた。

そして――。


『……ズ……ズズ……ッ』


微弱な空気の振動、あるいはデスクの上に立つ人間の温かい体温の気配を察知したのか。

山路先生の首が、ギギギ……と不自然な機械のように軋む音を立てて、蓮たちの方角へとゆっくりと旋回した。


「あっ……」

葵の喉から、押し殺した小さな声が漏れた。


山路先生の白濁した視線が、デスクの上に並び立つ蓮、健太、そして葵の姿を、真正面から捉えた。

かつて教室で生徒たちを見つめていた、あの温かなまなざしではない。

知性も、記憶も、愛情もすべてウイルスに焼き尽くされ、残されたのは飢餓感に突き動かされる肉食獣の狂気だけ。

だが、その顔立ちは、紛れもなく昨日まで彼らに笑いかけていた山路先生その人だった。

破れたワイシャツの襟元、少し丸まった背中、職員室でいつもコーヒーを飲んでいたあの仕草の残滓。

すべてが、かつての日常の記憶を痛烈に呼び覚ましていた。


「先生……! 山路先生……!!」

葵の目から、堰を切ったように大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。

葵は自らの両刃の十字槍を胸元に握りしめたまま、震える声で叫んでいた。


「先生……! 聞こえますか……!? 私です……! 2年B組の水島葵です!!」

葵の胸を締め付ける、必死の悲鳴。

「日高くんも、健太くんも、小林くんも……みんなここにいます! 先生、お願い……! 目を覚まして……! 私たちの声を聞いてよ、先生……ッ!!」


暗闇の職員室に、少女の痛切な祈りが響き渡る。

家庭科室で包丁の鞘を作り、ラップの防具を巻き、強固な戦士として覚醒したはずの葵の心から、少女としての生身の感情が剥き出しになって溢れ出していた。

だが、その切実な叫びは、死者へと変貌した恩師の魂には、1ミリも届かなかった。


『……あ……あ……ぁ……ッ』


山路先生の喉の奥から、破れた蛇腹のような嫌な摩擦音が漏れ出した。

唇が吊り上がり、黒く変色した歯列が剥き出しになる。

教え子の名を聞いても、その瞳には何の光も宿らない。

ただ、目の前に「生きている肉」が存在するという事実だけに反応し、その全身の腐敗した筋肉が、獲物を屠るための戦闘態勢へと引き絞られていった。


そして――。


『ギシャァァァァァァァッ!!』


鼓膜を切り裂くような、野獣の凶悪な咆哮。

山路先生の左手から、強く握られていた『2年B組・非常時避難誘導名簿』がバサリと床へ滑り落ちた。

名簿を手放した両腕が、爪の割れた鉤爪となって前方に突き出される。

山路先生の右足が床の書類を力任せに蹴りつけ、デスクの上にいる葵へ向かって、猛然と跳躍してきた!


「葵ッ!!」


健太が絶叫し、反射的に鉄パイプ戦斧を両手で上段へと引き絞った。

理科室でも、配膳通路でも、中央階段でも、健太は仲間を守るための最強の前衛として、迷うことなく敵の頭部を叩き潰してきた。

今回も同じように、跳躍してきた影の側頭部を真横から叩き割る――はずだった。


だが。


健太の太い両腕は、振り上げた頂点でピタリと静止したまま、激しく、小刻みに痙攣を起こしていた。

鉄パイプの先端に固定された小型包丁の刃が、カタカタと乾いた金属音を立てて震える。


(打てねえ……ッ!!)


健太の脳裏に、先週の放課後の光景が、痛烈なフラッシュバックとなって焼き付いていた。


秋の大会前、レギュラーの選考から外れ、放課後の誰もいない部室の裏で、1人悔し涙を流していた健太。

壁を蹴り、自分の不甲斐なさに八つ当たりしていたその背中に、そっと温かい缶コーヒーを差し出してくれたのが、山路先生だった。


――『城山、お前が毎日誰よりも早くグラウンドに来て、誰よりも遅くまでボールを蹴ってるのを、俺は職員室の窓からずっと見てるぞ』

山路先生は笑いながら、健太の逞しい肩をポンと叩いてくれたのだ。

――『努力は絶対に嘘をつかない。腐るなよ。次の試合、絶対にスタメンで使ってもらえるように、俺からもサッカー部の顧問に頭下げて口添えしといてやるからな。お前は、うちのクラスの誇りなんだから』


あの温かい手のひらの感触。

不器用で、けれど生徒一人ひとりの痛みに寄り添ってくれた、あの飾らない言葉。

その恩師の頭部に向かって、全力を込めて鉄パイプを叩きつけ、骨を砕き、肉を潰すことなど――健太の魂が、心の底から拒絶していた。


「打てねえ……ッ! 無理だ……ッ!!」

健太の喉から、血を吐くような慟哭が弾けた。

「山路先生を……いつも俺たちの味方でいてくれた先生の頭を……俺の手でカチ割るなんて……できるわけねえだろぉぉぉっ!!」


健太の腕が、葛藤のあまり硬直したほんの刹那。

その隙を突き、山路先生の爪が割れた左手が、デスクの端に立ち尽くしていた葵の制服の胸元をガッシリと掴み取った!


「きゃっ……!?」

葵の身体が前方に強く引き倒され、デスクの天板の上に膝をついた。

間合い、わずか数10センチ。


山路先生の開かれた口蓋。黒く変色した歯並びと、生温かい血の混ざった腐敗臭が、葵の白皙の首筋へと一気に迫る!

頚動脈を噛み破られれば、数10秒で感染が全身を巡り、二度と元の人間には戻れない。


「日高くんっ……!!」


葵の悲痛な絶叫が、職員室の闇を切り裂いた。

涙でぐしゃぐしゃになった彼女の瞳が、助けを求めるように、恐怖にすがるように、蓮の姿を捉えた。


(やめろ……ッ!!)


蓮の全身の血が、一瞬にして逆流した。

右手に握りしめた『木柄の簡易槍』。その柄を握る革手袋の中で、滝のような冷汗が滑り落ちていく。

今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!


ここまで読んでいただき、ありがとうございます!

面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。


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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!

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