第31話:屋上の施錠【1/3】
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ヒューヒューと、冷たい夜風が鉄扉のわずかな隙間から漏れ出し、煤煙に汚れた4人の頬を微かに撫でていた。
その隙間のすぐ向こう側には、煙に汚染されていない澄み切った大気と、満天の夜空、そして生存への唯一の希望である広大な屋上が広がっている。
だが、その希望の領域と彼らの間を隔てているのは、厚さ数センチのスチール製防火ドア、そしてハスプの穴にガッチリと通された、直径1センチを超える真鍮製の大型南京錠だった。
『……ズズズ……ッ! ズザザザザ……ッ!!』
スチール階段の最下部――4階の踊り場の暗がりから、コンクリートと鉄板を擦り合わせる嫌な擦過音が、急激に音量を増しながら這い登ってきていた。
「来るぞ……ッ!」
蓮の鋭い声が、狭い階段の吹き抜けに低く響いた。
蓮は左脇に木柄の簡易槍を抱え込み、扉のラッチバーから素早く身を引いた。手には、先ほどハスプ金具の隙間にクサビとして打ち込み、テコに使おうとして応力限界寸前までしなってしまった父のサバイバルナイフ。
厚さ5ミリの軍用規格アロイスチール。父から譲り受けた頑丈無比なその刀身の根元には、白く濁った金属疲労の応力線が走り、これ以上の物理的負荷をかければ真っ二つにへし折れてしまうことを冷酷に物語っていた。
「くそっ……! こんな時に来やがって……!」
健太が鉄パイプ戦斧を両手で引き絞り、階段の最上段のステップへと躍り出た。
壁際に座り込む小林の前に立ちはだかり、己の肉体を完全な盾とする体勢。
その隣には、葵が両刃の十字槍を水平に構え、弓道で鍛え上げた鋭い眼光を下層の暗がりへと突き刺していた。
4階の廊下から吹き上がってくる猛烈な熱気と、化成品が焦げた白濁の煙。
その煙のカーテンを突き破るようにして、階段の踊り場へと姿を現したのは、白衣の裾を激しく焦がした女性教師の感染者だった。
首の骨が不自然な角度で右肩へと折れ曲がり、顎からは血と唾液が混ざり合った泡がボタボタと滴り落ちている。白濁した瞳が、煙の奥でギラリと光り、階段の最上部に立つ生きた人間たちの匂いと気配を完全に捉えた。
『ギシャァァァァァァッ!!』
鼓膜を突き破るような金切り声を上げ、女性教師の感染者が、爪の割れた指先でスチール製の手すりを掴み、階段の段差を四つん這いに近い凄まじい前傾姿勢で駆け上がってきた。
その後ろには、制服の胸元を引き裂かれた男子生徒の感染者、そしてジャージ姿の男子生徒の感染者が、重なり合うようにして階段へと雪崩れ込んでくる。その数、視認できるだけでも4体、5体。
本棟の火災の熱気に追われ、さらに3階の視聴覚室に仕掛けたキッチンタイマーのアラーム音が鳴り止んだことで、音の磁石から解放された個体たちが、先ほど健太が立てた金属打撃音を嗅ぎつけて集まってきたのだ。
「葵、無理に前に出るな! 間合いを保て!」
蓮が叫び、簡易槍の穂先を構え直した。
「大丈夫……! ここは私が食い止めるわ!」
葵の口から、冷徹なまでの集中力を宿した呼気が漏れた。
幅わずか1メートルほどの急勾配なスチール非常階段。
どれほど多くの感染者が下層にひしめいていようとも、この狭い階段を駆け上がって葵の間合いへと飛び込めるのは、物理的に「1体」に限定される。
理科室での籠城、そして家庭科室への撤退戦を通じて蓮から徹底的に叩き込まれた『ボトルネック(狭窄路)戦術』。葵はその原理を、自らの肉体と弓道の重心移動によって完全に体現しようとしていた。
間合い、3メートル。
2メートル。
女性教師の感染者が、血塗られた両手を鉤爪のように広げ、葵の膝元を食い破ろうと飛びかかってきた。
その瞬間。
「ハッ!!」
葵の右足が、最上段の鉄板を静かに、しかし力強く踏みしめた。体幹のバネ。腰の鋭い捻り。そのすべての運動エネルギーが、アルミ柄の十字槍の切っ先へと一気に収束される。
『シュッ!』
闇を切り裂く、一閃の刺突。
『ズチャッ……!!』
裁ちばさみの分厚い鋼刃が、女性教師の感染者の右の眼窩――眼球の奥にある薄い骨を正確無比に貫通し、脳幹へと深々と突き刺さった。
女性教師の顎がカチカチと狂ったように痙攣し、全身の筋緊張が一瞬にして消失する。
「引き抜く……!」
葵は手応えを感じたほんの0.1秒後、両腕の屈筋を爆発させて槍を手元へ引き戻した。
十字槍の根元に固定された逆向きのペティナイフが、頭骨の縁を抉りながら抜け出る。
『ポンッ!』
肉と骨が離れる湿った破砕音と共に、脳幹を破壊された女性教師の巨体が、ぐにゃりと力を失って階段の段差へと崩れ落ちた。
そして、その重い死体は重力に従い、コンクリートと鉄板の上をゴロゴロと下に向かって転がり落ちていく。
『ドガガガッ!!』
転がり落ちた巨体が、直後を追随していた男子生徒の感染者の足元を直撃した。
男子生徒は前のめりにバランスを崩し、階段の手すりに激しく顔面を強打して鼻骨を砕かれ、その突進の勢いを完全に殺された。
「ナイスだ、葵!!」
健太が叫び、バランスを崩してよろめいた男子生徒の頭部めがけて、上段から鉄パイプ戦斧を振り下ろした。
『バガァァンッ!!』
強烈な金属打撃音。鉄パイプの質量と、先端に固定された小型包丁の背が、男子生徒の側頭部を正確に捉えて粉砕した。男子生徒の身体が真横へと吹き飛び、踊り場の壁に叩きつけられて沈黙する。
「2体撃破……!」
葵が荒い息を吐きながら、素早く槍を構え直した。
だが、喜びや安堵の息を漏らす暇など、1秒たりとも許されなかった。
『アガァァァァァッ!!』
『キシャァァァァッ!!』
倒れた2体の屍を踏み越えるようにして、3体目のジャージ姿の男子生徒、そして4体目の作業着を着た用務員らしき男性の感染者が、血に狂った獣のように手すりを掴んで駆け上がってきたのだ。
階段の段差に転がった死体は、最初のうちは敵の足を狂わせる障害物として機能した。しかし、死体が折り重なるにつれて、それは皮肉にも後続の感染者たちにとって「段差をなだらかにする足場」へと姿を変え始めていた。
『ズチャッ!!』
葵の放った2度目の刺突が、ジャージ姿の感染者の喉仏を正確に貫いた。だが、引き抜く瞬間の反動で、葵の華奢な両腕が激しく軋んだ。
何時間にも及ぶ極限の戦闘と逃走劇。家庭科室で休息をとったとはいえ、彼女の細い筋肉はすでに限界近くまで乳酸を溜め込み、十字槍を構える指先がカタカタと痙攣を起こし始めている。
「葵、下がれ! 俺が交代する!」
蓮が即座に葵の肩を引き、前へと踏み出した。
木柄の簡易槍を一閃。用務員の感染者の額の中央を、裁ちばさみの鋼刃が深々と捉え、脳幹を断ち切る。
倒れる肉体。吹き飛ぶ黒い血液。
だが、蓮の視線は、倒した敵の数ではなく、4階の踊り場の奥へと向けられていた。
そこに見えたのは、悪夢のような増援の列だった。
本棟から特別棟4階へと吹き込んでくる火災の猛煙に押し出され、さらに3階の視聴覚室の前で迷走していた群れの一部が、階段の吹き抜けを伝って響いた打撃音を聞きつけ、次々と4階廊下へと集結しつつあったのだ。
その数、廊下の煙の向こうに見えるだけでも、優に十数体。
「クソッ……! 次から次へと湧いてきやがる!」
健太が歯を食いしばり、鉄パイプを強く握り直した。
「キリがねえぞ! この狭い階段で迎撃し続けられるのは、せいぜいあと数分だ!」
健太の焦燥に満ちた叫びは、冷酷な現実を的確に言い当てていた。
それだけではない。彼らの生命を刻一刻と削り取っているのは、感染者の牙や爪だけではなかった。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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