第30話:屋上の扉【3/3】
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「南京錠そのものは破壊できない。だが、南京錠が通っている『ハスプ(掛け金金具)』の接合部を、テコとクサビの原理でねじ切る」
蓮はサバイバルナイフを鞘から引き抜き、その分厚い鋼の背を健太に見せた。
「このナイフの刃先を、扉の鉄板とハスプの隙間にクサビとして打ち込む。そして、ナイフの柄の脇に健太の鉄パイプを深く差し込んで、2人で同時に横方向へ体重を乗せてテコを効かせるんだ。正面からの打撃には耐えられても、横方向からの引き裂きせん断力には、どんな金具にも物理的な限界がある」
蓮の具体的で論理的な説明に、健太の瞳に再び猛烈な闘志が蘇った。
「なるほど……! 土台の金具ごと扉から引き剥がすってわけだな! よっしゃ、やってやろうぜ日高!!」
「作業を急ぐぞ。健太、鉄パイプの腹でナイフの背を叩け!」
蓮はサバイバルナイフの切っ先を、扉の鉄板とハスプ金具の台座が合わさる、わずか1ミリほどの微小な隙間へと斜めに押し当てた。
「いくぞ、叩け!」
『ガンッ!!』
健太が鉄パイプの中央部を、ナイフの鋼の背に向かって力任せに打ち下ろした。
鈍い打撃音が響き、サバイバルナイフの刃先が、ミリ単位でハスプ金具の隙間へと食い込んでいく。衝撃が蓮の両腕を通じて手首へと抜け、手袋越しに激しい痺れが走る。
「もう1発だ! 思い切り叩き込め!」
『ガンッ!! ガツンッ!!』
2度、3度。健太が渾身の力で鉄パイプを振り下ろすたびに、サバイバルナイフの分厚い刀身がクサビとなって金具の奥深くへとめり込んでいった。ハスプの台座が、ナイフの厚みによって押し広げられ、わずかに数ミリの隙間が生まれた。
「隙間ができた! 健太、鉄パイプを噛ませろ!」
蓮が叫ぶと同時に、健太は鉄パイプ戦斧の柄の先端を、ナイフによってこじ開けられたハスプの裏側の隙間へと力任せに突っ込んだ。
鋼のナイフと、肉厚の鉄パイプ。2つの金属が、ハスプ金具の裏側でガッチリと交差し、巨大なテコの支点が完成した。
「いくぞ、せーの……引けぇぇぇッ!!」
蓮と健太は、全身の背筋、腕力、そして脚力のすべてを爆発させ、真横へ向かって体重を預け、力任せにテコを引いた。
『ギシッ……ミシミシ……ッ!!』
金属同士が擦れ合い、悲鳴を上げるような軋み音が響いた。
扉の表面の塗装がパリパリと音を立てて割れ、ハスプの金具が横方向へと僅かに傾く。
「いける……! 歪んでるぞ日高! このまま一気に引きちぎるぞ!!」
健太が首筋の血管を真っ赤に浮き上がらせ、絶叫した。
だが――その直後だった。
『バキンッ……!!』
ハスプの台座ではなく、2人が握りしめていたサバイバルナイフの刀身から、耳を疑うような不吉な金属の軋み音が弾け飛んだ。
「……ッ!? 止まれ、健太!! 力を抜け!!」
蓮が血相を変えて叫び、テコを引く手を強引に止めた。
「な、なんだよ日高!? あと少しで外れそうだったのに!!」
蓮は荒い息を吐きながら、懐中電灯の光をナイフの刀身へと当てた。
厚さ5ミリの軍用サバイバルナイフ。その頑丈無比を誇る鋼の刀身が、テコの巨大な負荷によって、弓なりに大きくしなり、刃の根元に肉眼で見えるほどの白い応力線が走り始めていたのだ。
「これ以上引いたら……ナイフが真っ二つにへし折れる」
蓮の声が震えていた。
「折れる……!? あの親父さんのナイフが……!?」
健太が息を呑んだ。
蓮は懐中電灯の光を、ハスプ金具の裏側へと差し向けた。
そこで蓮が目撃したのは、絶望的な建築構造の真実だった。
「ダメだ……。このハスプは、扉の薄い鉄板に表面溶接されているだけじゃない。……扉の裏側に、厚さ10ミリ以上の鋼鉄の『当て板(補強プレート)』が仕込まれていて、裏表から極太のリベットで挟み込んで完全固定されている」
蓮は歯をギリギリと噛み締めた。
「手持ちのナイフや鉄パイプのテコ程度じゃ、あの裏側の補強鋼板をねじ切ることは絶対にできない。……無理にテコを引けば、ハスプが千切れる前に、俺たちの唯一の武器であるナイフと鉄パイプがへし折れて全滅するだけだ」
「そんな……」
健太の手から力が抜け、鉄パイプがカランと音を立てて床へ落ちそうになった。
壊せない。
叩き割ることも、テコで引きちぎることも、手持ちの道具では物理的に不可能。
退路のない階段の最上部で、物理法則という冷酷無情な壁が、彼らの前に立ち塞がっていた。
その時だった。
『……ズズ……ッ……ズザザザザ……ッ』
急勾配のスチール階段の最下部――4階の踊り場の暗がりから、コンクリートを擦るような嫌な足音が、不気味に響き始めた。
4人の身体が、一瞬にして凍りついた。
蓮は素早く身を乗り出し、錆びついた階段の手すりの隙間から、下層階の様子を見下ろした。
葵も両刃の十字槍を胸元に引き絞り、健太が鉄パイプを両手で構え直す。壁際に座る小林が、息を呑んで暗闇を見つめた。
4階の廊下。
火災の猛烈な熱気と濃密な黒煙が渦巻く暗がりの中で、ゆらゆらと揺れる数体の黒い影が見えた。
先ほど健太が力任せに鉄パイプを叩きつけた『ガァン!』という甲高い金属打撃音。
そして、ナイフをハスプに打ち込んだ時の金属の破壊音。
それらの音の波が、コンクリートの筒状の吹き抜けを伝わって下層階へと届いてしまっていたのだ。
さらに悪いことに、3階の第1視聴覚室で鳴り響いていたキッチンタイマーのアラーム音も、設定時間の経過によってついに完全に鳴り止んでいた。
音の磁石から解放され、再び本能のままに彷徨い出した感染者たちの一部が、新たな破壊音と人間の生の血の匂いを嗅ぎつけ、この非常階段へ向かって足を引きずりながら集まり始めていたのだ。
『……アァァァ……ガァァァァ……ッ』
低い、喉の奥で血の泡が弾けるような不気味な呻き声。
先頭を歩くのは、白衣の裾を激しく焦がした女性教師の感染者と、首の骨が不自然な角度で折れ曲がった男子生徒の感染者だった。
彼らは白濁した瞳を階段の上へと向け、爪の折れた手でスチール製の手すりをガリガリと激しく引っ掻きながら、一段、また一段と、この屋上へと続くスチール階段を這い登り始めていた。
その後ろの4階廊下にも、煙のカーテンを突き破るようにして、さらに3体、4体、5体と、新たな影が引き寄せられてくるのが見えた。
「……追いつかれてきた……!」
葵の声が、恐怖で細かく震えていた。
挟み撃ち。
逃げ場のない、最上階の行き止まり。
背後には、決して開くことのない、重厚な鋼鉄の屋上扉と合金鋼の南京錠。
前方には、熱気と黒煙を伴って、階段の狭い段差を確実に這い上がってくる狂乱の感染者たちの群れ。
退路は完全に断たれ、前進も阻まれた。
この狭い踊り場に群れが雪崩れ込んできたら、四方を壁に囲まれた彼らは、逃げるスペースすらなく、圧死させられるか生きたまま食い破られるしかない。
「クソッ……! ここまで来て……こんなところで終わりなのかよ……!」
健太が歯を喰いしばり、鉄パイプを握る拳をギリギリと震わせた。
壁際に座り込んでいた小林が、痛む足を抱えながら、悲痛な叫びを上げた。
「日高……! 健太、葵さん……! 俺を置いていってくれ……! 俺がここで槍を持って奴らを食い止める! その隙に、3人ならなんとかあいつらを飛び越えて逃げられるかもしれないだろ……!? 俺のせいで全員が死ぬなんて、絶対に嫌だ……!」
「馬鹿野郎!!」
健太が小林に向かって怒号を飛ばした。
「誰が置いていくかよ! 何のためにここまで全員で走ってきたと思ってんだ! 諦めるようなこと言ってんじゃねえ!!」
「小林くん、絶対に諦めちゃダメよ!」
葵も階段の最上段に立ち塞がり、十字槍の切っ先を下へと向けながら叫んだ。
「私がここで食い止める! この狭い階段なら、1体ずつしか上がってこれない! 私が突いて、絶対に上には登らせないわ!」
葵の言葉通り、この幅1メートルほどのスチール階段は、少人数で大群を防衛するためのボトルネックとしては機能する。
だが、それも時間の問題に過ぎなかった。
倒した死体が階段に積み重なれば、後続の敵の足場となって一気に間合いを詰められる。
それに何より、4階から吹き上がってくる有毒ガスと一酸化炭素が、この行き止まりの天井付近に急速に溜まり始めていた。煙に巻かれて意識を失えば、戦うことすらできずに全滅する。
蓮の頭脳の中で、極限の演算が猛烈なスピードで火花を散らしていた。
(南京錠を物理的に破壊することはできない。手持ちの道具では強度が足りず、武器を自損して終わる)
(暗証番号を当てる時間もない。1万通りを試す前に煙で窒息死する)
(だが……この屋上の扉を開けて外へ出なければ、ここにいる全員が確実に死ぬ)
ならば――。
この鉄の扉を開放し、全員が生きて屋上へ脱出するための方法は、世界にただ1つしか残されていない。
(本物の『鍵』を手に入れるしかない)
蓮の瞳が、暗闇の中でカッと見開かれた。
マスターキー。
屋上扉の南京錠を開けるための、本物の真鍮の鍵。
それは、一体どこにある?
記憶の糸が、1本に繋がる。
高校の鍵の管理システム。日直の教員や体育科の職員が朝夕に鍵を持ち出し、保管している場所。
――特別棟1階、あるいは本棟1階の『職員室』のキーボックスだ。
だが、そこは現在、本棟の猛火と、地上を埋め尽くす数100体の感染者たちが蠢く、文字通りこの世で最も危険な『死の底』。
鍵を求めて下層階へ降りるということは、自ら進んで地獄の坩堝へ飛び込むことを意味していた。
階段の下から、靴底が鉄板を擦る音が、確実に近づいてくる。
『ズズズ……ッ! ガリガリガリッ……!!』
間合い、あと6メートル。
女性教師の感染者の血塗られた指先が、非常階段のステップを力任せに掴み、不気味な咆哮を上げようとしていた。
開かない屋上の扉。
迫り来る階下の群れ。
刻一刻と肺を蝕む猛煙。
壊すか、探すか、それともここで迎え撃つか――。
絶体絶命の袋小路の中で、彼らはあまりにも過酷な、次なる運命の選択を突きつけられていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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