第29話:音の罠【3/3】
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ドアの隙間から滑り出るように廊下へ抜け出ると、防音扉を『30センチ』の幅だけ残して、ほとんど閉めた状態へと調整した。
完全に閉めてしまえば、外へ聞こえるタイマーの音が弱まり、廊下の群れを引きつける威力が減衰する。逆に開けすぎれば、群れが入ってきた時に外からドアを締め切る時間が足りなくなる。
30センチ。
それこそが、音を遠くへ響かせつつ、大群をスムーズに室内へ吸い込ませる絶妙な開口部だった。
蓮は廊下の壁際を影のように滑り、斜め向かいの『第1資料準備室』の陰へと潜り込んだ。
準備室の暗がりで待機していた健太と葵、そして小林が、息を呑んで蓮を出迎えた。
「日高……! 無事だったか!?」
健太が安堵の表情で小声で囁く。
「理科教師が1体いたが、無音で処理した。……タイマーの作動まで、あと40秒だ」
蓮はそう答え、左腰のサバイバルナイフの柄を握り直して、壁の隙間から廊下と中央階段の方角を凝視した。4人は、首元に巻かれたラップとガムテープの防具を冷や汗で濡らしながら、呼吸を止めてその時を待った。
30秒。
20秒。
10秒。
そして。
180秒のカウントダウンが、ついにゼロに達した。
『ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ――ッ!!!!』
突然、第1視聴覚室の内部から、耳を裂くような重厚で凶悪な金属アラーム音が爆発した。
大型ステンレスバケツの底部に置かれたことで、金属容器の壁面がスピーカーのコーンのように激しく共鳴し、高周波のタイマー音が何倍もの音量へと増幅されていた。
室内の防音壁と傾斜天井がその連続音を激しく反響させ、30センチ開け放たれたドアの隙間から、まるで音の咆哮となって廊下全体へと一気に噴き出してきたのだ。
さらに、1秒遅れて。
『ピピピピ! ピピピピ! ピピピピ!』
二重の保険として仕掛けられていた電子音タイマーの不快な電子警告音が合流した。
2つの異なる高周波連続音が重なり合い、特別棟3階の不気味な静寂を完全に打ち破る。
その瞬間だった。
『……ッ!??』
『ズズ……ズズズズズズッ!!』
10メートル先の中央階段の踊り場を埋め尽くしていた、30体を超える感染者の群れが、一斉に硬直した。
彼らの狂乱した脳神経は、途切れることなく規則正しく鳴り響くその高周波音を、完全に『強烈な生の叫び』あるいは『最優先で喰らい尽くすべき標的』として認識したのだ。
『ギシャァァァァァァァァァッ!!』
『アガァァァァァァァッ!!』
階段の筒状の吹き抜けを揺るがすほどの、凄まじい地鳴りのような咆哮が爆発した。
階段の段差にぎっしりと詰まっていた無数の影が、一斉に白濁した目を見開き、口から血と唾液を撒き散らしながら、我先にと3階廊下へとなだれ込んできた!
『ドドドドドドドドドドドッ!!』
靴底がコンクリートのPタイルを激しく叩く、狂乱の行進音。
重なり合い、押し合い、転びながらも、彼らの意識はただ一点――爆音が湧き出し続ける『第1視聴覚室の30センチのドア隙間』だけに集中していた。
資料準備室の陰からその光景を覗き込んでいた健太と葵、そして小林は、あまりの迫力に全身の毛穴が逆立つような恐怖を感じていた。
だが、蓮の予測は寸分の狂いもなく的中していた。
感染者たちは、資料準備室の陰に潜む蓮たちの気配や匂いにすら一切見向きもしなかった。彼らの音に対する強烈な固執習性によって、視聴覚室から流れ出るアラーム音以外のすべての刺激が、彼らの意識から完全に遮断されていたのだ。
先頭の感染者――制服を破られた柔道部員の巨体が、吸い寄せられるように視聴覚室の扉の隙間へと飛び込んだ。続いて、2番手、3番手、5番手、10番手――。不気味な黒い人間の津波が、30センチの開口部を通って、次々と第1視聴覚室の内部へと吸い込まれていく。
『ジリリリリリリリ――ッ!』
『ピピピピ! ピピピピ!』
室内のバケツから鳴り響き続けるタイマー音に向かって、感染者たちは暗闇の座席やスクリーンの下へと雪崩れ込み、お互いを踏みつけ合いながら、バケツを取り囲んで狂ったように爪を立てていた。
「すごい……! 本当に全部入っていく……!」
葵が、興奮と驚愕で声を震わせた。
「……20……25……30……!」
健太が、通過していく影の数を正確にカウントしていた。
中央階段に溜まっていた30体以上の群れ、そして渡り廊下から流れてきていた散発的な個体までもが、ことごとく視聴覚室の中へと飲み込まれていった。
そして、最後の個体――片足の関節が折れ曲がった事務員の感染者が、足を引きずりながら視聴覚室のドアの中へと完全に姿を消した、まさにその瞬間。
「今だ!! 扉を閉めるぞ!!」
蓮の鋭い号令が飛んだ。
4人は資料準備室の陰から一斉に飛び出した。
蓮と健太が、開かれていた視聴覚室の重厚な木製防音扉の両端を掴み、全身の背筋と腕力を爆発させて、一気に引き戻した!
『バタンッ!!!!』
澄んだ、重厚な密閉音が廊下に響き渡った。
葵がすかさず前に出、扉の中央に備え付けられた真鍮製の大型南京錠の掛け金に、家庭科室で確保していた『頑丈なダイヤル式南京錠』を通し、一気にロックアームを押し込んだ!
『カチリッ!!』
金属が固く噛み合う施錠音。
さらに、健太が廊下に用意していた重厚な木製イーゼルと、理科室から運んできた鉄パイプの予備を、ドアハンドルと壁の手すりの隙間に力任せに突っ込んで、強固な突っ張り固定を完成させた。
『ガコンッ!!』
「固定完了!!」
健太が叫ぶ。
『ドドドドドンッ!! ガシャガシャガシャッ!!』
扉が閉ざされた直後、視聴覚室の内部から、閉じ込められたことに気づいた無数の感染者たちが、防音扉へと激しく体当たりを食らわせてきた。
しかし、分厚い防音構造と、外から南京錠と木製イーゼルで固くロックされた扉は、ミリ単位すらビクとも動かなかった。
室内からは、未だにバケツの中で鳴り響くタイマー音と、それに狂乱して暴れ回る群れの大絶叫が、防音壁を通じて重い低音となって漏れ出てくるだけだった。
完全な封じ込め。
戦わずして、武器の刃を1度も傷つけることなく、30体を超える悪夢のような大群を、一室の中へ隔離・無力化することに成功したのだ。
「……ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……ッ……!」
健太がドアに背中を預け、膝に手をついて激しい呼吸を繰り返した。彼の顔には、驚嘆と狂喜が混ざり合った頼もしい笑みが浮かんでいた。
「……すげえ……! すげえよ日高!! マジで1度も槍を振らずに、あの階段の大群を全部部屋の中に閉じ込めちまったぞ!!」
「あいつらの音の習性……完璧だったね、日高くん!」
葵も、手に持った十字槍を胸に抱きしめながら、興奮で頬を紅潮させて蓮を見つめた。
「日高……本当にありがとう……! 信じられないよ……!」
小林も、感動に目を潤ませて蓮の肩を掴んだ。
「……作戦は成功だ」
蓮は血の付いていない自作の槍の柄を固く握り直し、ゆっくりと振り返った。
廊下。赤と緑の非常誘導灯が明滅する、特別棟3階の中央廊下。
そこには、先ほどまで彼らの行く手を阻んでいた無数の感染者たちの姿は、1体も存在しなかった。床に散乱するプリントや破れた教科書、乾きかけた古い血の跡だけが残り、廊下は不気味なほどの静寂を取り戻していた。
そして、10メートル先の中央階段。
3階から4階、そして屋上へと続くコンクリートの階段。そこを塞いでいた『人間の肉の堤防』は完全に消え去り、上階へと続く段差が、まっすぐ先へ伸びていた。
屋上への道が、完全に開かれたのだ。
「行くぞ!!」
蓮の力強い号令と共に、4人は中央階段へ向かって一気に駆け出した。
健太が小林の左肩を力強く抱え上げ、葵が前方を警戒しながら先導し、蓮が殿として後方に鋭い視線を配る。小林も痛む右足に力を込め、歯を食いしばりながら階段の段差を駆け上がった。
「俺だって……加藤の分まで生きるんだ……! 絶対にへばったりしない!」
小林の魂の叫びが、健太の背筋をさらに奮い立たせた。
「おうよ! 離すんじゃねえぞ、小林!」
カン……カン……カン……ッ!
4人の足音が、階段の吹き抜け空間に力強く反響する。
3階から、4階へ。
4階の踊り場。本棟から流れ込んだ火災の熱気と黒煙が、最も濃く溜まっている危険地帯。天井の蛍光灯は熱で破裂し、壁の塗装がベリベリと剥がれ落ちている。喉を焦がすような熱風が吹き抜けるが、ここにも動く影は存在しなかった。感染者たちは皆、下階のタイマー音に引き寄せられたか、あるいは火災の熱を避けて別の場所へ移動していたのだ。
4人は足を止めることなく、4階の廊下を駆け抜け、最後の上り階段――『屋上へ通じるスチール製の非常階段』へと躍り出た。
見上げれば、階段の頂上。
そこには、特別棟の最上階を閉ざす、重厚なグレーの『鉄製屋上扉』が立ちはだかっていた。
ドアの上の緑色の非常誘導灯が、闇の中で静かに、だが確かに希望の光を放っている。
「着いた……! 屋上扉だ!!」
健太が歓喜の声を上げた。
蓮がスチール階段を駆け上がり、鉄製屋上扉の真前へと立ち塞がった。
中央には、上下を固定する大型の横押しラッチバー。
この扉を押し開ければ、そこには新鮮な夜風が吹き抜ける屋上と、空に広がる救助ヘリの道があるはずだった。
蓮は右手に持った簡易槍を構え直し、左手をラッチバーへと力強く伸ばした――。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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