第28話:屋上への道【1/2】
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ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ――ッ!
特別棟と中央本棟を隔てる重厚な防火扉の隙間から、耳を塞ぎたくなるような不快な金切り音が四方に反響し、冷たいコンクリートの床を通じて足裏にビリビリとした微振動を伝えていた。校内の状況は、刻一刻と、そして致命的な速度で悪化の一途を辿っていた。
本棟3階および4階の窓からは、黒煙と混ざり合った真っ赤な舌のような火柱が噴き出し、校舎の木製フレームや天井裏の断熱材、配線を容赦なく焼き尽くしている。時折、ドガーンッ! と建物の躯体が熱でへし折れる重い破砕音が響き渡り、そのたびに割れた大量の窓ガラスの破片が、燃える流星の雨となってグラウンドや中庭のアスファルトへと降り注いでいた。火災の猛烈な熱気と有毒な煙は、換気ダクトや渡り廊下のわずかな隙間を伝って特別棟の内部へも確実に侵入を開始しており、空気中には焦げたプラスチック、化成品の焼ける激しい異臭、そして人体が焼ける生臭く脂じみた臭気が混ざり合い、息を吸い込むたびに喉の奥をチリチリと焼くような不快感を残していた。
特別棟1階・第1家庭科室。
頑丈なステンレス製のスライド扉の前に、100キロを超える大型調理台と重厚な鋳物鍋を隙間なく積み上げた即席のバリケード。その強固な金属の要塞に守られた室内で、蓮、健太、葵、そして右足に重傷を負った小林の4人は、手に入れた缶詰の食事を終え、荒い呼吸を整えながら身を寄せていた。
小型LED懐中電灯の光量を極限まで落とした微弱な明かりが、4人の引き締まった表情を暗闇の中に淡く浮かび上がらせている。
制服の上から纏った紺色の厚手デニムエプロン。首元と足首を厳重に保護するタオルと食品用ラップ、布ガムテープによる即席の複合装甲。背中には、音を完全に殺してパッキングされた水と食料のリュックサック。
失われたエネルギーを補給し、手当てを完了させた彼らの身体には、先ほどまでの絶望的な疲労の影は薄れ、極限状況を生き抜くための冷徹な集中力が再び満ち満ちていた。
だが、彼らが直面している現実の過酷さは、何1つとして好転してはいなかった。
「……日高、本棟の火の手、思ってた以上にヤバい速度で広がってるぞ」
健太が、鉄パイプ戦斧を両手で固く抱え込みながら、掠れた極小の囁き声で蓮に告げた。
「この家庭科室の空気も、だんだん焦げ臭くなってきてる。換気ダクトに濡れタオルを詰めてくれたおかげで煙の直撃は防げてるけどよ……このままここに閉じこもってたら、火が回ってくる前に煙で窒息しちまうんじゃねえか?」
「ああ。健太の言う通りだ」
蓮は家庭科室の壁に貼られた『校舎全体避難経路図』から視線を戻し、静かに頷いた。
「火災の熱気は上昇気流を生むが、本棟の全フロアが炎上すれば、煙は水平方向――この特別棟の1階や2階にも確実に押し流されてくる。一酸化炭素は目に見えず、臭いもない。吸い込んだ瞬間に意識を失って死ぬ。この部屋にいられる猶予は、長くてあと1時間……いや、30分程度かもしれない」
「外の道路や裏庭へ出るのは……やっぱり無理なのよね、日高くん」
葵が両刃の十字槍を胸元に引き絞り、青ざめた表情で問いかけた。
「不可能だ」
蓮の返答は、冷酷なまでに断固としていた。
「さっき高窓のカーテンの隙間から確認した通り、本棟の崩落と火災の轟音によって、グラウンドや校門付近を彷徨っていた数100体もの感染者が、狂乱状態で特別棟の周囲を取り囲んでいる。外のバイパスも事故車が折り重なって大炎上し、街全体が火の海だ。視界のない深夜、足の不自由な小林を連れて、遮蔽物のない路上を何キロも逃走するのは自殺行為に等しい」
「日高……本当にすまねえ……」
丸椅子に腰掛けていた小林が、痛む右足の包帯をさすりながら、申し訳なさに肩を小さく震わせた。
「俺の足さえ無事なら……みんなの逃げ足の邪魔をせずに済むのに……」
「自分を責めるな、小林」
蓮は小林の目をまっすぐに見つめ、力強い声で告げた。
「お前が怪我をしていようがいまいが、現在の地上の敵の密度を突破するのは誰にとっても不可能だ。問題は逃げ足の速さじゃない。正しい『脱出ルートの選定』だ」
地上からの脱出が完全に塞がれ、1階に留まることも死を意味する。
四面楚歌の袋小路。4人の間に、再び張り詰めた重苦しい沈黙が落ちようとした。
その時だった。
『バババババババババババババババババババババババババババババババ……ッ!』
本棟を焼き尽くす炎の爆ぜる重低音と非常ベルの金切り音を切り裂いて、はるか上空から、大気を激しく叩き割るような猛烈な風切り音と、重厚な回転翼の轟音が響き渡ってきた。
「……ッ!?」
葵が息を呑み、反射的に家庭科室の天井を見上げた。
「ヘリ……!? ヘリコプターのローター音だ!!」
健太が両目をカッと見開き、跳ね起きそうになった。
「大声を出すな! 落ち着け!」
蓮が即座に健太の腕を掴み、低く鋭い声で制した。
重厚なローターの轟音は、夜の厚い雲の下、学校の上空数100メートルの高度を旋回するように通過し、彩葉市の中心部――市役所や県立総合病院がある方角へ向かって、ゆっくりと遠ざかっていく気配を見せた。
警察か、自衛隊か、海上保安庁か、あるいは報道の航空機か。どのような組織の機体であるかは、この密閉された室内からは判別できない。だが、この壊滅した街の上空に、明確な意思を持って生存者の捜索、あるいは広域の被害状況を監視している航空戦力が存在していることは、紛れもない事実だった。
「……聞いたか」
蓮は、薄暗い天井を見つめたまま、静かに呟いた。
「上空にヘリが飛んでいる。……これは、ただの希望じゃない。極めて重要な戦術情報だ」
「戦術情報……?」
健太が首を傾げた。
「そうだ。この校舎の1階に閉じこもっている限り、俺たちの視界は壁と窓に遮られて、数10メートル先のことすら何も見えない。外の街のどこが安全で、どこが塞がれているのか、どこに自衛隊や警察の救護所が設置されているのか……何1つ把握できない状態で暗闇の市街地へ飛び出すのは、目隠しをして地雷原を走るのと同じだ」
蓮は手にした木柄の簡易槍の柄を、指先でギュッと強く握り締めた。
「目指すは『屋上』だ」
蓮の口から発せられた明確な作戦目標に、健太と葵、そして小林の瞳にハッとした光が走った。
「屋上……! そうか、屋上なら……!」
葵が、息を弾ませながら言葉を継いだ。
「本棟の火災から最も遠いし、煙の上昇気流からも外れて、新鮮な空気が確保できるわ! それに、さっきみたいに上空を通るヘリコプターに対して、手信号や発光信号でSOSを出せる!」
「それだけじゃない」
蓮は壁の避難経路図を指差し、冷静沈着にその戦略的意義を重ねた。
「屋上は、学校で最も標高の高い場所だ。四方の手すりから見下ろせば、学校の敷地内だけでなく、彩葉市全体の火災の広がり、感染者の密集地帯、そして警察や自衛隊の動向が一目瞭然になる。どこが安全な道で、どこが死地なのか――その『広域の俯瞰情報』をこの頭の中に叩き込んでからでなければ、生きてこの街を脱出することなどできない。地上ルートが完全に塞がれた今、屋上こそが、俺たち全員が生きて明日を迎えるための唯一の『絶対高地』だ」
「決まりだな!」
健太が不敵な笑みを浮かべ、鉄パイプ戦斧を力強く構え直した。
「ジメジメした暗闇の廊下に閉じこもって、煙に巻かれて窒息するなんてまっぴらごめんだぜ! 目指す場所がテッペンだってんなら、俺の鉄パイプで道を切り拓いてやるよ!」
小林も、痛む右足でグッと床を踏みしめ、力強く頷いた。
「日高……俺も行くよ。さっき葵さんに包帯を巻き直してもらって、痛みもだいぶ引いた。走ることはできなくても、自分の足で階段を登り切ってみせる」
「頼もしいな、小林」
蓮は小林の肩をポンと叩いた。だが、蓮の表情から厳しい警戒の色が消えることはなかった。
「だが……屋上への道は、決して平坦じゃない。むしろ、ここからが本当の地獄の始まりだ」
蓮は懐中電灯の光を、避難経路図の『階段』の部分へと移動させた。
「特別棟から屋上へと通じる垂直移動ルートは、構造上『中央階段』のただ1つしか存在しない」
蓮の指先が、校舎の中央を貫く階段の図面をなぞった。
「俺たちが逃げてきた西側の配膳用階段は、給食の運搬用だから2階までしか伸びていない。3階、4階、そして屋上の扉へと直接アクセスできるのは、校舎のど真ん中に位置する、あの中央階段だけだ」
「中央階段……」
健太の顔から笑みが消え、眉間に深い皺が寄った。
「理科室にいた時、廊下の向こうからあいつらの足音がドカドカ聞こえてた場所か……」
「そうだ。理科室が崩壊した時、本棟から逃げてきた大群が特別棟の中央廊下へ雪崩れ込んだ。さらに、1階の昇降口が破られたことで、校庭の感染者たちも校舎内へ侵入している。……今の中央階段がどんな状況になっているか、想像に難くない」
蓮は視線を落とし、現実的な手順を組み立てた。
「全員で荷物を背負っていきなり突入するのは危険すぎる。まずは、中央階段の状況を『偵察』する」
「偵察……? 誰が行くんだ?」
健太が身を乗り出した。
「俺と、健太、葵の3人だ」
蓮は丸椅子に座る小林の目を見据えた。
「小林。お前には、この家庭科室の中で待機していてほしい」
小林の表情が一瞬強張った。「日高……俺を置いていくのか……?」
「見捨てるわけじゃない」
蓮は静かに、しかし断固たる口調で首を横に振った。
「逆だ。お前の命を確実に守るためだ。家庭科室のこのステンレス扉と調理台のバリケードは、外からの侵入に対して完璧な強度を保っている。ここはお前が身を潜めるための、現在校内で最も安全なシェルターだ。もし中央階段に敵が密集していて、急な後退や戦闘を強いられた時、お前の足を抱えた状態では退避行動がワンテンポ遅れ、全員が共倒れになるリスクが高い」
蓮の理路整然とした説明に、小林は唇を噛み締め、やがて深く息を吐き出して頷いた。
「……分かったよ、日高。俺の足じゃ、偵察の邪魔になっちまうもんな。ここで待ってる。……でも、絶対に無事で戻ってきてくれよ!」
「ああ、約束する。10分以内に必ず戻る」
蓮は葵と健太に向き直った。
「小林の安全を確保するため、家庭科室を出たら、外側から扉を完全に閉める。小林、俺たちが戻ってきて合図のノックをするまで、内側のサムターンには絶対に触るな。物音がしても声を出すなよ」
「了解だ。任せてくれ」
小林は手元にあった頑丈な木製丸椅子を抱え込み、息を潜めて頷いた。
「行くぞ。武器と防具の確認を怠るな。物音1つ立てるなよ」
蓮と健太、葵の3人は、背中のリュックサックのストラップをきつく締め直し、手に握った得物を構えた。
バリケードの調理台の隙間――大人が斜めになって滑り込める40センチの隙間から、蓮を先頭に静かに身を滑り出させる。
最後に抜けた健太が、家庭科室のステンレス扉をミリ単位の精度で引き戻し、カチリと音を立てずに完全に閉鎖した。
外は、冷たい闇と死の臭気が充満する、1階の配膳通路。
緑色の非常口誘導灯が、電圧の低下によって『チカ……チカ……』と不吉に明滅を繰り返している。床には、先ほど蓮と健太が仕留めた女性調理師の感染者の遺体が、黒い血の池の中で静かに横たわっていた。
「……クリアだ。足音を殺せ」
蓮は低く囁き、木柄の簡易槍を低く構えながら、配膳通路から特別棟1階のメイン廊下へと続く角へ向かって、音もなく歩みを進めた。
靴底に巻きつけた食品用ラップの滑り止めが、コンクリートの冷たい感触を正確に捉える。
蓮、健太、葵の3人は一列縦隊となり、壁に背中をぴったりと寄せながら、配膳通路の屈曲部を抜けて1階のメイン廊下へと滑り込んだ。
そこは、数時間前までの学園の面影を無残に打ち砕かれた、まさに死の廃墟だった。
天井の蛍光灯はすべて割れ落ち、剥き出しになった電気配線から時折バチバチと青白い火花が散っている。壁面には、パニックに陥った生徒たちが逃げ惑った際につけたのであろう、無数の血の手形が引き裂かれたように擦り付けられていた。床には、散乱した上履き、教科書、割れたガラスの破片、そして正体不明のどす黒い汚泥がぶちまけられ、それらが本棟から漂ってくる焦げた化学薬品の臭気と混ざり合い、息が詰まるような異臭の霧を形成している。
「……止まれ」
蓮が左手をそっと挙げ、2人を制止した。
全員が息を止め、壁の影に同化した。
前方――廊下の交差点の向こう側から、ズルズルと足を引きずる嫌な擦過音が聞こえてきた。
蓮は壁の角から片目だけを覗かせ、1階廊下の様子を窺った。
首の骨が折れ曲がり、制服を真っ赤に染めた男子生徒の感染者が1体、目的もなく徘徊している。
(単独……。こちらには気づいていない)
蓮は手信号で『やり過ごす』サインを出した。無駄な戦闘で武器の刃を消耗させたり、わずかな音を立てて周囲の敵を呼び寄せるわけにはいかない。
3人はブロック壁の冷たさに耐えながら、心臓の激しい鼓動を殺し、感染者が遠ざかるのを待った。
感染者が反対側の昇降口方面へ消え去ると同時に、蓮は身を低くして合図を出した。
「行くぞ。中央階段の手前まで一気に詰める」
3人は猫のように音を殺して廊下を疾走し、特別棟の中央部――全フロアを縦に貫く巨大な『中央階段』の吹き抜け手前へと到達した。
その場所へ足を踏み入れた瞬間、空気が一変した。
皮膚をチリチリと刺すような、圧倒的な悪寒。
吹き抜けの筒状の空間を通じて、上層からも下層からも、空気を震わせるような異様な重低音が轟いていたのだ。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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