第27話:健太の失敗と挽回【2/2】
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健太の顔から、無理に作っていたおどけた道化の表情がスッと消え去った。
健太は、葵の手によって真っ白なガーゼとテープで手際よく包まれていく己の右手を見つめたまま、固く口を閉ざした。
葵の言う通りだった。
彼の指の震えは、単なる筋肉の使いすぎによる疲労だけではなかった。
理科室で変わり果てた加藤を前にして足がすくみ、何もできなかった無力感。配膳通路で、かつて購買で優しくしてくれた調理師の女性の頭部へ、自らの手で鉄パイプを叩きつけ、頭蓋骨を砕いた時の、手首に残る生々しい感触。
「俺は人を殺した」「俺の手でかつての仲間を破壊した」という、言葉にできない暗い罪悪感と底知れない恐怖が、アドレナリンの切れた途端に強烈な悪寒となって胸を締めつけ、指先を痙攣させていたのだ。
小林も、静かにうつむいて健太の手当てを見つめていた。
「健太……俺を守るために、ずっと無理してくれてたんだな……。すまねえ……本当にすまねえよ……」
「小林、お前が謝るなよ」
健太は顔を伏せたまま、掠れた声で言った。
「俺が勝手にビビって、勝手にドジ踏んだだけだ。お前のせいじゃねえよ……」
蓮は、調理台の脇に立ち、その光景を静かに見つめていた。
自作の木柄の簡易槍の柄を握る左腕の防具をそっと擦り合わせながら、蓮は心の中で深く息を吐いた。
(健太は……本当にギリギリのところで踏みとどまっていたんだな)
蓮は痛いほど理解していた。
健太は根が真っ直ぐで、感情豊かで、誰よりも仲間を大切にする男だ。だからこそ、非常時において恐怖を押し殺し、仲間を守るための「壁」として最前線で体を張り続けてくれた。だが、その強靭な肉体と陽気な振る舞いの裏側で、彼の優しい心は限界まで削られ、血を流していたのだ。
それを、蓮のような冷徹な合理性だけで治すことはできない。葵の細やかな手当てと、飾らない本音の言葉が、健太の強張っていた魂を、解きほぐすように救っていた。
「はい、手当て完了!」
葵はテープの端をペタッと綺麗に留めると、パンと軽く健太の手の甲を叩いた。
「水には絶対に濡らさないこと。包帯が汚れたり血が滲んできたら、すぐに私に言うこと。……分かった?」
「……おう。サンキュな、葵」
健太は包帯で綺麗に処置された自分の右手を見つめ、それから照れくさそうに鼻の頭を指で擦った。痛みはすでにジンジンとした鈍痛に変わっており、しっかりと固定されたことで指を動かす不安も消えていた。
「葵ってさ……意外とそういうの手際いいんだな。弓道部だから応急手当とか慣れてんのか?」
「部活でもそうだし……うち、お母さんが総合病院の看護師なのよ」
葵は救急箱のタッパーの蓋をパチンと閉めながら、どこか遠くの夜空を懐かしむような優しい瞳で微笑んだ。
「怪我をした時の処置の仕方や、包帯の巻き方は、小さい頃からうるさく教え込まれてたの。『傷口を放置したら絶対にダメよ』ってね。……まさか、こんな地獄みたいな状況で役に立つなんて、思ってもみなかったけれど」
そう語る葵の横顔には、遠く離れた自宅で待つ家族への深い愛情と、何としてでも無事を確認したいという切実な祈りが、痛いほど滲み出ていた。
「大丈夫だよ、葵」
健太が、手当てされたばかりの右手を力強くグッと握り締め、自分の胸のデニムエプロンをドンと叩いてみせた。
「お前の母ちゃんも父ちゃんも、絶対に無事だ! 俺たちがこれから速攻で送り届けてやるからな! この城山健太様が、怪我なんかものともせずに、どんな化け物も鉄パイプでぶっ飛ばしてやるぜ!」
「もう……手の怪我人が偉そうに威張らないの」
葵は呆れたように肩をすくめたが、その唇の端には、この絶望的な夜が始まってから初めて、少女らしい小さく、けれど温かな『笑み』がこぼれていた。
「へへっ、健太らしいな」
小林も、膝の上の拳を緩め、ホッとしたように口元を綻ばせた。
暗闇の家庭科室の中で交わされた、ほんの僅かな会話と、小さな笑い声。
それは、血と硝煙と死臭に塗れたこの狂った世界の中で、彼らがまだ人間としての温もりと正気、そして互いを思いやる心を失っていないことを証明する、何物にも代えがたい瞬間だった。
「……健太。お前の缶詰は俺が開ける」
蓮が静かに歩み寄り、調理台の上に転がっていたサバの味噌煮缶を引き寄せた。
腰のベルトからサバイバルナイフを抜き、缶切りの刃先を確実に溝へ食い込ませる。刃先の角度をわずかに傾け、テコの原理を利用して、金属同士が擦れ合う音を極限まで殺しながら、滑らかに円を描くように蓋を切り進めていく。
『サクッ……サクッ……スッ……』
一切の無駄がない、精密な手さばき。蓮の手によって、金属の蓋が静かに持ち上げられた。
瞬間、家庭科室の澱んだ空気の中に、甘辛い味噌と魚の濃厚な脂の香りがフワリと広がった。
その芳しい匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、4人の胃袋が同時にキューッと激しい音を立てて鳴動した。
「うわ……すげえいい匂い……!」
健太の喉が、ゴクリと大きく上下した。
「待ってろ。せっかく家庭科室にいるんだ。冷たいまま食べるより、温めた方が消化も良くなるし、体温も維持できる」
蓮は家庭科準備室から、小型の卓上カセットコンロと、新品のアルミ製小鍋を持ち出してきた。
カセットボンベをコンロにセットし、レバーを押し下げる。
「カーテンの遮光は完璧だが、念のためコンロの周囲を段ボールで囲って光を遮断するぞ」
蓮と葵が手早く調理台の上に段ボールの衝立を立て、光が外へ漏れない完全な暗室ブースを作り上げた。
カチリ、と静かに点火スイッチを回す。
ボッ、と小さな青い炎が鍋の底を舐めた。
蓮は鍋の中に少量の水を注ぎ、そこへサバの味噌煮缶、マグロツナ缶、さらにイワシの蒲焼缶の中身を贅沢に投入した。さらに、防災備蓄用のアルファ化米のパックを開け、沸騰した清潔な熱湯を注ぎ込んで封を閉じる。
わずか数分後。
鍋の中から、グツグツと煮立つ美味そうな音とともに、湯気が立ち上り始めた。
家庭科室の中に満ちていた薬品と火災の焦げ臭さが、まるで平和だった日常の夕餉のような、温かく懐かしい料理の匂いによって完全に塗り替えられていく。
「……できたぞ。食べよう」
蓮は、プラスチック製のスプーンを全員に手渡した。
アルファ化米の五目ご飯は熱湯を吸ってふっくらと炊き上がり、温められたサバの味噌煮とツナの脂が、湯気を立てて輝いている。
「日高……いただきます……!」
健太は待ちきれない様子でスプーンを伸ばし、温かい五目ご飯の上にサバの身を乗せ、口の中へと豪快に放り込んだ。
次の瞬間、健太の両目がカッと大きく見開かれた。
「う……うめぇぇぇぇぇッ!! なんだこれ……! めちゃくちゃ美味いぞ!!」
健太は両手で顔を覆い、噛み締めるように肉を咀嚼した。
「温かい飯って……こんなに美味かったのかよ……! 口の中で溶ける……身体の芯まで染み渡るぜ……!」
「本当……すごく美味しい……!」
葵も小さな口で五目ご飯とサバの身を頬張り、目元を潤ませながら微笑んだ。
「お米が温かくて、お味噌の味が優しくて……なんだか、泣きそうになっちゃうくらい美味しいわね」
小林も、震える手でスプーンを握り、貪るようにご飯を口へと運んでいた。
「うまい……うまいよ、日高……! 俺、生きててよかった……こんな美味い飯、生まれて初めて食った気がするよ……!」
小林の頬を、止めどなく涙が伝い落ち、スプーンの上のご飯を濡らした。失った親友への哀悼、生き残った安堵、そして仲間と共に分かち合う温かい食事の尊さ。そのすべてが、彼の胸に溢れ返っていた。
蓮も、スプーンを口に運んだ。
舌の上に広がる濃厚な味噌の風味と、五目ご飯の出汁の旨味。温かい食物が食道を通って胃の腑へと落ちていくたび、冷え切っていた内臓が急速に温まり、全身の末梢血管にまでエネルギーが満ち渡っていく感覚があった。
極度の緊張によって脳の奥に溜まっていた重苦しい疲労の霧が、糖分と塩分の補給によって、スウッと晴れ渡っていく。
「日高、お前ももっと食えよ!」
健太が満面の笑みで、鍋の中のイワシの蒲焼を蓮の紙皿へ盛りつけた。
「お前が一番頭使って、一番神経すり減らしてんだからな! しっかり食って、スタミナつけとかねえと困るぜ、リーダー!」
「……ああ。ありがとう、健太」
蓮は小さく微笑み、温かいイワシの身を口に運んだ。
食事の間、4人は家庭科室で過ごしたかつての平和な日常を、ぽつりぽつりと語り合った。
去年、家庭科の調理実習でハンバーグを作った際、健太が調味料の分量を間違えて砂糖と塩を大量に入れ、黒焦げの岩のような物体を作り出して教員に怒られたこと。
葵が被服部の活動で、文化祭の衣装作りのために夜遅くまでこの家庭科室のミシンを踏んでいたこと。
小林が放課後、購買のパンを買い損ねて、家庭科室の準備室に余っていた乾パンをくすねようとして見つかったこと。
そして蓮が、いつも教室の窓際の席で静かに文庫本を読み、そんな仲間たちの騒ぎを遠くから眺めていたこと。
ほんの数日前まで、当たり前にそこにあった、退屈で、けれど何物にも代えがたく愛おしかった平和な日々の記憶。
仲間を失い、世界は一変してしまったけれど、自分たちが共に生きてきた時間と絆は、決してウイルスなんかに奪われはしない。
食事を終える頃には、4人の瞳から暗い影は完全に消え去り、力強く澄んだ光が宿っていた。
「……ごちそうさまでした」
葵が手を合わせ、清潔な布巾で調理台の上を綺麗に拭き清めた。
空になった缶詰の容器は、水ですすいだあと、金属音が鳴らないように再びタオルで隙間なく包み直され、ゴミ袋へと密閉された。食料の匂いを室内に残さないための、徹底した配慮だ。
時計の針は、午後8時45分を指していた。
空腹を満たし、水分を十分に補給したことで、4人の体力と精神力は完全に回復していた。
健太の親指の傷も出血は完全に止まり、小林の足の痛みも、清潔な処置と安静によってかなり和らいでいた。
「……よし。腹ごしらえは終わったな」
蓮は立ち上がり、懐中電灯の光を家庭科室の壁に貼られていた1枚の掲示物へと向けた。
『県立彩葉第一高等学校・校舎全体避難経路図』。
特別棟と中央本棟、そして体育館と武道場の立体的な構造が詳細に描かれた、校内のフロアマップだった。
蓮の引き締まった表情を見て、健太、葵、小林も居住まいを正し、調理台の前に集まった。
休息の時間は終わり、再び生き残るための冷徹な現実と向き合う時が来たことを、全員が察していた。
「ここから先、俺たちがどこへ向かうべきか――次なる作戦を決定する」
蓮の低く落ち着いた声が、静まり返った家庭科室に落ちた。
「作戦……? 日高、外の群れが引いたなら、やっぱり1階の裏口から外の街へ出るんじゃないのか?」
健太が不思議そうに尋ねた。
蓮は首を静かに横に振った。
「外へ出るという選択肢は、現時点では完全に消去された」
「え……!? なんでだ?」
小林が息を呑んだ。
蓮は高窓のカーテンの隙間を指差した。
「さっきカーテンの隙間から確認したが、本棟の猛火に引き寄せられた感染者たちの大部分は、グラウンドの中央と正門付近を埋め尽くしている。裏庭の密度は一時的に下がったが、学校の周囲を取り囲む道路やバイパスは、事故を起こした車両の炎上と、街から押し寄せてきた新たな感染者で完全に飽和状態だ。外の街は、この学校の中以上に逃げ場のない地獄と化している」
蓮は壁の避難経路図を指先でトントンと叩いた。
「ましてや、今は深夜だ。街灯も信号も消え去り、視界がゼロの暗闇の中で、足の不自由な小林を連れて、どこに敵が潜んでいるかも分からない市街地を何キロも歩くのは、あまりにもリスクが高すぎる。夜明けを待たずに外へ出れば、どこかの路地で行き止まりに追い詰められ、全滅するのがオチだ」
「じゃあ……俺たちは、朝までこの家庭科室に閉じこもるのか?」
葵が尋ねた。
「それも不可能だ。時間切れが迫っている」
蓮の指先が、経路図の中央本棟から特別棟へと伸びる渡り廊下をなぞった。
「本棟の火災の勢いは増す一方だ。渡り廊下の防火シャッターが熱で歪み、煙や有毒ガスがこの特別棟の1階にまで充満し始めるのは時間の問題だ。1階に留まり続ければ、化け物に襲われる前に、一酸化炭素中毒で全滅する」
「外へも出られない……1階に隠れ続けることもできない……」
健太が眉をひそめ、経路図を凝視した。
「下もダメ、横もダメなら……一体どこへ逃げりゃいいんだよ!?」
蓮は、迷いのない瞳で仲間たちの顔を順番に見つめ返した。
そして、その人差し指を、経路図の最上部――建物の頂点へと力強く突き立てた。
「上だ」
蓮の凛とした声が、暗闇を貫いた。
「特別棟の最上階を突き抜け――『屋上』を目指す」
「屋上……!?」
健太と葵、そして小林が、同時に息を呑んで声を揃えた。
「そうだ。屋上だ」
蓮の瞳には、次なる生存戦略の道筋が、鮮明な光となって浮かび上がっていた。
「屋上なら、本棟の火災から最も遠く、煙の上昇気流からも外れて新鮮な空気を確保できる。何より、全方位の視界が開けているから、街の被害状況や自衛隊・警察の動向を正確に把握できるんだ。夜が明ければ、上空を通過する救助ヘリコプターに発見してもらえる可能性も一番高い。……屋上こそが、俺たちが目指すべき唯一の『絶対高地』だ」
蓮の論理的で揺るぎない言葉に、仲間たちの胸の中にあった迷いと混乱が、一瞬にして吹き飛んだ。
絶望的な袋小路に思えた状況の中に、一本の確固たる光の道が示されたのだ。
「……屋上か!」
健太が拳を手のひらに打ち付け、獰猛な笑みを浮かべた。
「いいぜ、日高! どこへ向かえばいいか分からねえのが一番の地獄だったんだ! 目指す場所がテッペンだってんなら、俺の鉄パイプで道を切り拓いてやるよ!」
「私も賛成よ、日高くん」
葵も両刃の十字槍をしっかりと握り直し、力強く頷いた。
「屋上なら、障害物も少なくて戦いやすいわ。みんなで上を目指しましょう!」
「俺も……絶対に歩き抜いてみせるよ」
小林が立ち上がり、自分の足でしっかりと床を踏みしめて前を見据えた。
4人の視線が、調理台の上の荷物、そして家庭科室の出口へと向けられた。
恐怖に泣き叫んでいた少年少女たちは、もはやどこにもいない。
互いを信頼し、知恵を絞り、武器を手に取って運命へと立ち向かう、真の生存者たちがそこにいた。
「よし。これより、特別棟屋上への突破作戦を開始する」
蓮の力強い号令が、夜の家庭科室に静かに響き渡った。
失われた日常を取り戻し、家族の元へ帰り着くための次なる戦い――屋上への過酷な階段行軍が、今まさに幕を開けようとしていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




