第26話:包丁と調理器具【3/3】
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健太の鉄パイプも、先端の打撃部に小型の包丁をワイヤーで一体化させ、鉄パイプの圧倒的な破壊力に刺突と切断の殺傷力を付加した「トマホーク(戦斧)」へと生まれ変わらせた。
「武器の次は、防具の最終強化だ」
蓮は家庭科準備室のロッカーから、調理実習で生徒たちが使用するために保管されていた、厚手デニム生地のエプロンを4着持ち出してきた。
「デニム生地は、綿の太い糸を綾織りで極めて高密度に織り上げた特殊な布地だ。摩擦や引き裂きに対して並外れた強度を持ち、人間の鈍い歯や爪を簡単には通さない。これを各自、制服の上から二重にして身につける。首元から胸、腹、太ももまでを隙間なく覆うから、上半身への不意の噛みつきを防ぐ頑丈な鎧になる」
4人は、泥と血で汚れた制服の上から、紺色のデニムエプロンをしっかりと装着した。小林にも丁寧にエプロンを着せ、背中の紐を固く結び合わせる。
さらに、蓮は厨房用の切り札を取り出した。
業務用の『食品用大型プロテクトラップ』だ。
「腕の辞書防具だけじゃ足りない。感染者が最も本能的に狙ってくる部位であり、噛まれたら数10秒で発症して即死する最重要急所――『首回り』と『足首』を完全にガードする」
蓮の指示のもと、4人は互いに協力し合い、首回りの防護処置を開始した。
まず清潔なフェイスタオルを首元に何重にも巻きつけ、皮膚への圧迫と鬱血を防ぐクッションを作る。その上から、大型ラップを何重にも隙間なくグルグルと巻き重ねていく。ラップの薄いフィルムは、何十層にも重なることで驚異的な引張強度と摩擦抵抗を発揮する。怪物の歯が食い込もうとしても、滑らかなフィルムの層によって歯先が滑り、皮膚まで到達するのを物理的に遮断するのだ。
仕上げに、布ガムテープを適度なテンションで巻きつけ、ズレないように固定した。
多少の息苦しさはあるが、頚動脈を直撃される絶望的なリスクに比べれば、何の問題にもならなかった。
同様の処置を、ズボンの裾から足首、スニーカーの足首回りにかけても施した。
床を這いずり回る感染者や、死角から伸びてくる爪の引っ掻き、足首への噛みつきに対する完璧な防御層。
時計の針は、すでに午後8時を回ろうとしていた。
理科室を脱出してから、約40分。
手に入れた貴重な時間と、家庭科室という空間に眠っていたあらゆる資材を使い倒し、彼らのサバイバル戦闘能力は、数時間前とは比較にならないほど劇的な進化を遂げていた。
作業を終えた4人は、ステンレス調理台の背後の床へと腰を下ろした。
首回りから足首までを強固にガードする、デニムエプロンとガムテープ・ラップの即席複合装甲。
両手に握りしめた、鋼の刃を持つ簡易槍と鉄パイプ戦斧。
腰には、即座に抜刀できるシース付きの近接用ペティナイフ。
背中には、音を完全に殺して重量バランスを計算し尽くした水と食料のリュックサック。
その出で立ちは、数時間前まで退屈な授業にため息をつき、放課後の部活やゲームの話題で笑い合っていた、ごく平凡な高校生たちとは完全にかけ離れたものになっていた。
幾度もの修羅場をくぐり抜け、仲間を失い、血と泥に塗れながらも自らの意思で立ち上がり続ける者たち――サバイバーとしての凄みが、4人の佇まいに色濃く宿っていた。
「……完璧だな」
蓮は、自らの左腕の防具と、腰のペティナイフのフィット感を確かめながら、低く呟いた。
「これなら、暗闇で不意打ちを受けても、一発で致命傷を負うことはない。長時間の激しい行動にも十分に耐えられるはずだ」
「日高」
健太が、壁のコンクリートに背中を預けながら、静かに口を開いた。
その声は、いつものひょうきんで元気な健太のものではなかった。親友の心の奥底を覗き込み、その重圧を分かち合おうとするような、痛ましいほど真摯な響きを帯びていた。
「お前……なんでそんなに冷静でいられるんだ?」
健太の問いかけに、葵も、そして小林もハッとして顔を上げ、蓮の横顔を見つめた。
「加藤が目の前で化け物に変貌して……篠原さんが首を噛み破られて……外の街も、学校も、全部地獄になっちまったんだぞ」
健太の大きな掌が、膝の上でギュッと握り締められた。
「俺なんてさ……加藤に鉄パイプを振り下ろす時、身体がガタガタ震えて、涙が止まらなくて……足が竦んで1歩も動けなかった。小林だって、親友を失って胸が張り裂けそうになってる。普通なら、怖くて泣き叫んで、頭がおかしくなるところだろ? なのに、お前はずっと前だけを見て、次に何をすべきかを淡々と計算し続けてる。……お前、本当に平気なのかよ? 心が壊れちまうんじゃねえかって……俺、心配なんだよ」
健太の言葉には、蓮への畏怖と同時に、無二の親友を心から案じる深い優しさが溢れていた。
蓮の行動は異常なまでに冷徹で、合理的すぎた。仲間の死を悼む時間すら切り捨て、次の生存確率を1%でも引き上げるための計算にのみ没頭している。それはリーダーとして圧倒的に頼もしく、命を救ってくれる存在であると同時に、人間としての感情をどこかに置き去りにしてしまったのではないかという、切ない不安を抱かせるものだった。
蓮は、手にした木柄の槍の先端――加藤の頭部を貫いた鋼刃を見つめたまま、しばらくの間、深い沈黙に沈んだ。
室内に響くのは、遮光カーテンの向こうから伝わってくる火災の地鳴りと、4人の静かな呼吸音だけだった。
やがて、蓮はゆっくりと顔を上げた。
小型ライトの微弱な間接光の下で、蓮の瞳が3人の顔をまっすぐに見つめ返した。
「……怖くないわけがないだろ」
蓮の声は、微かに、本当に微かに震えていた。
その瞳の奥には、無理に押し殺されていた激しい感情の波が、暗く揺らめいていた。
「本当は……今すぐここで耳を塞いで丸くなって、誰かが助けに来てくれるのを泣きながら待ちたいよ。加藤の喉元へ槍を突き刺した時だって……俺の手はガタガタ震えてたし、骨が砕ける感触が手のひらに残って、吐き気で胃が裏返りそうだった。昨日まで同じ教室で笑い合ってた仲間を、この手で殺したんだぞ。平気なわけがあるかよ……!」
蓮の絞り出すような告白に、健太と葵、そして小林は息を呑んだ。
冷徹な機械のように見えていたリーダーの内側には、彼らと全く同じ、いや、全員の命の責任を背負っている分だけ、それ以上に重い等身大の恐怖と罪悪感が渦巻いていたのだ。
「でもな」
蓮は、作業用革手袋で覆われた両の拳を、ギリッと骨が鳴るほど強く握りしめた。
「俺が立ち止まって泣き喚いたら、誰が俺たちを生かしてここから連れ出すんだ。誰が、家に帰る道を作るんだよ。……俺が思考を止めたら、その瞬間に全員が死ぬんだ」
蓮の脳裏に、数年前、父に連れられて行った冬山の過酷な光景が鮮明にフラッシュバックしていた。
元自衛官だった父は、蓮が中学生になった冬、雪深い山奥での過酷な野営訓練に蓮を連れて行った。吹雪の中で道を見失い、猛烈な寒さと死の恐怖にパニックを起こし、泣き叫んでその場にへたり込んだ幼い自分。
その時、父は蓮を抱きしめるでもなく、優しい言葉で慰めるでもなく、雪煙の中でただ冷徹な声で言い放ったのだ。
『蓮、泣いて体温を無駄にするな。恐怖を感じるのは人間として当然の防衛本能だ。だが、恐怖に呑まれて足を止めた奴から死んでいく』
『絶望する暇があるなら、頭を回せ。足を動かせ。極限状況において、俺たちを生かすのは涙じゃない。次の一歩を踏み出すための合理的な判断だけだ』
『感情に支配されるな。感情の蓋を閉めろ。生き残るための【強制スイッチ】を入れろ』
父のその教えが、今、蓮の全身の血肉となって脈打っていた。
「父さんが俺に遺してくれたのは……サバイバルの道具や知識だけじゃない。どんな絶望の淵に立たされても、パニックを遮断し、感情を一時的に切り離して合理的に動くための【強制スイッチ】の入れ方だったんだ。……俺は今、そのスイッチを無理やり押し込んでるだけだ。そうしなきゃ、1秒も正気を保っていられないからな」
蓮は、3人に作り笑いを向けることはしなかった。ただ、生存への執念を宿した漆黒の瞳で、言葉を続けた。
「俺は、何があっても自宅で待ってる母さんと結衣の元へ生きて帰る。そのために、立ちはだかる化け物は全部刺し殺すし、どんな地獄の泥水だって啜る覚悟だ。……お前たちだって同じだろ。健太はオカンのため、葵は両親のため、小林も家族のために帰るんだろ。だったら、立ち止まって泣いてる暇なんて1秒もないはずだ」
蓮の魂の叫びは、健太、葵、小林の胸の奥底に突き刺さり、彼らの中に燻っていた最後の弱さと甘えを、完全に焼き尽くした。
「……そうだな。日高の言う通りだ」
健太はフッと口角を上げ、目元に滲んだ涙を手甲で乱暴に拭い去った。
「オカンに遅いって怒鳴られる前に帰らねえと、晩飯抜きにされちまうからな。……お前のその強制スイッチ、俺の心の中にもしっかり入ったぜ。日高だけに地獄の泥を被らせたりしねえ。俺が一番前で体を張ってやる」
「私も……もう絶対に挫けないわ」
葵も両手で両刃の十字槍を固く抱きしめ、凛とした声で言った。
「日高くんが道を作ってくれるなら、私はその背中を命がけで守る。……全員で帰ろう。私たちの家へ」
小林も、包帯の巻かれた足をさすりながら、力強く頷いた。
「日高……俺、絶対に生き残るよ。加藤が命がけで繋いでくれたこの命、絶対に無駄にはしない。俺も自分の足で歩くからな」
4人の心は、理科室にいた時よりもさらに深く、何物にも引き裂かれない強固な絆で結びついていた。
完全な防護装備。
徹底的に消音され、重心が最適化された水と食料のリュックサック。
手入れされ、リーチと殺傷力を高めた強化武器。
そして、互いの命を背負って絶対に生き抜くという、揺るぎない覚悟。
ステンレス調理台で封鎖されたスライド扉の向こう側からは、相変わらず遠くで感染者たちのうめき声と、本棟の燃え広がる重低音が響いていた。
だが、その音の波は、家庭科室の分厚いステンレス扉と、100キロを超える大型調理台、そして隙間にぎっしりと詰め込まれた鋳物鍋のバリケードに完全に阻まれ、室内の静寂を破ることはできなかった。
換気ダクトを通じて微かに流れ込んでくる煙の臭気も、濡らしたタオルをダクトの格子に詰め込んだことで最小限に抑えられている。
蓮は立ち上がり、家庭科室の高窓へと静かに歩み寄った。
厚手の防炎遮光カーテンの端を、指先でほんの数ミリだけめくり、外の裏庭とグラウンドの様子を観察する。
外の世界は、まさにこの世の地獄だった。
本棟の中層階から吹き上がる真っ赤な炎が、黒煙の巨大な柱となって夜空を焦がしている。校庭には、どこから雪崩れ込んできたのか分からないほどの無数の感染者たちがひしめき合い、燃え盛る校舎の光に照らし出されて蠢いていた。
幸いにも、蓮の観察通り、群れの大部分は火災の轟音と熱気に引き寄せられ、本棟の正面玄関やグラウンドの中央へと密集していた。この特別棟の裏庭を彷徨う影は、先ほどの津波のような大群から、散発的な数体にまで減少しつつあった。
(外の群れの波は、本棟側へ引きつけられている……。だが、今すぐ外へ飛び出すのは得策じゃない)
蓮はカーテンを静かに元に戻した。
(夜の暗闇の中、疲弊した身体と小林の負傷を抱えて、街を彷徨うのは危険すぎる。それに、俺たちの体力も限界に近い)
極度の緊張感と、理科室からの決死の脱出劇。
知らず知らずのうちに、4人の肉体と精神は限界までエネルギーをすり減らしていた。
緊張の糸がわずかに緩んだ瞬間、蓮の胃袋がグゥッと低く音を立てて鳴った。
健太が自分の腹を押さえながら、苦笑いを浮かべた。
「へへっ……そう言えば俺たち、昼飯食ってから何にも口にしてねえよな。腹が減りすぎて、背中とくっつきそうだぜ」
「そうね……緊張していて忘れていたけれど、喉も渇いたし、お腹もペコペコだわ」
葵も、小さく微笑みながら息を吐いた。
「よし」
蓮は調理台の前に戻り、床に並べられた布包みの山を見つめた。
「外の状況が完全に落ち着くまで、ここで体力を回復させる。……まずは腹ごしらえだ。確保した缶詰を食べて、失われたエネルギーと塩分を補給しよう。体力が尽きれば、どんなにいい武器を持っていても戦えないからな」
蓮の現実的な提案に、重苦しい死線の空気に包まれていた家庭科室の中に、ふっと人間らしい温もりが灯った。
「おう! 大賛成だ!」
健太がお腹をさすりながら、嬉しそうに立ち上がった。
「飯を食わなきゃ力が出ねえからな! よっしゃ、俺が一番美味そうなサバの味噌煮缶を開けてやるぜ! 俺の怪力にかかれば、缶詰の蓋なんて一瞬だからな!」
健太は意気揚々と腕まくりをし、タオルに包まれていたサバ缶を取り出すと、調理台の引き出しにあった金属製の缶切りを力強く握りしめた。
暗闇に沈む第1家庭科室。
外には死と炎が渦巻く極限の状況の中で、彼らが人間としての誇りと絆を取り戻すための、ささやかな休息が始まろうとしていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




