第26話:包丁と調理器具【1/3】
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真鍮製のシリンダー鍵に蓮の右手が触れ、冷たい金属の感触が指先から伝わってきた、まさにその瞬間だった。
特別棟1階・第1家庭科室を外界の狂気から隔てている、分厚いステンレス製のスライド扉。その向こう側、暗い配膳通路の奥から、空気をビリビリと震わせるような異様な重低音が響き始めた。
『……ズズズ……ズザザザザザッ……!』
『アァァァァ……! ギシャァァァァッ!!』
それは、数体や10数体といった生易しい規模の足音では断じてなかった。無数の腐敗した肉体が擦れ合い、骨の折れた足を引きずり、押し合いへし合いながら殺到する、まるで濁流のような凄まじい地鳴りだった。
それに呼応するように、遮光防炎カーテンで完全に密閉された高窓の向こう側――裏庭の方向からも、木々の枝が次々とへし折れ、ツツジの植え込みが乱暴に踏み荒らされる不気味な喧騒が巻き起こった。
「……ッ!」
蓮は鍵にかけるつもりだった手を弾かれたように離し、即座に左腕のガムテープ防具を胸の前に構えて息を殺した。
「日高……! なんだ今の音……!」
後ろに控えていた健太が、鉄パイプを両手で力任せに握り締めながら、引き攣った極小の囁き声で尋ねた。
「外が……通路も、裏庭も……すげえ数の足音がするぞ……! まるで大群が地響き立てて押し寄せてきてるみたいだ!」
調理台の陰にある頑丈な木製丸椅子に深く腰掛けていた小林も、包帯の巻かれた右足のスネを両手で必死に押さえながら、恐怖に顔を引きつらせて息を呑んだ。
「ま、またあいつらが……集まってきたのか……!? 理科室の時みたいに……!」
「……本棟の火災が限界を超えたんだ」
蓮は、極限まで光量を絞った小型LED懐中電灯の光を床タイルの一点に向けたまま、感情を一切交えずに状況を分析した。
「本棟の3階から上の階層が崩落を始めたか、炎の熱波が下層の昇降口にまで完全に到達したんだ。それで、グラウンドや本棟の下層に群がっていたあいつらが、猛烈な熱気と煙から逃れるために、この特別棟の周辺へ一斉に雪崩れ込んできた」
蓮の言葉を裏付けるように、ドドォォォンッ! という巨大な建物の鉄骨がへし折れるような重い破砕音が、校舎の基礎コンクリートを通じて足裏を激しく揺らした。
ジリリリリリリリリ――ッ!
天井の非常放送スピーカーから注ぎ込まれる非常ベルの金切り音が、断末魔のように一層甲高く鳴り響く。そして1瞬だけ『ブツッ……チリチリ』と途切れたかと思うと、電圧の異常によって再び不規則な高音を撒き散らし始めた。配線のショートや分電盤の破断が、火災によって至る所で起きている証拠だった。
「今、扉を開けて外へ出ようとしたら……」
葵が、両手でアルミ柄の簡易槍を胸元に引き絞りながら、血の気の引いた唇を震わせて呟いた。
「秒殺だ。文字通り、肉の波に飲み込まれて骨も残らない」
蓮は冷徹に言い切り、ステンレス扉から音を立てずに数歩後退した。
「外への移動は完全に不可能だ。群れの移動が落ち着き、波が通り過ぎるまで、この家庭科室で徹底的に籠城する」
「籠城って……いつまでだよ!?」
健太が焦燥感を露わにして食い下がった。
「本棟の火がこっちの特別棟に燃え移ったらどうすんだ!? この家庭科室だって、いつまで持つか分からねえぞ! 火に包まれたら、一巻の終わりだろ!」
「本棟と特別棟は、幅の狭い渡り廊下でしか物理的に繋がっていない。防火シャッターが完全に下りている以上、火の手が直接こちらへ回ってくるには、まだかなりの時間がかかるはずだ」
蓮の視線は、どこまでも澄み切っていた。
「外の化け物の津波に生身で飛び込むよりは、強固なステンレス扉と防火壁の内側で熱波を凌ぎながら態勢を整える方が、生存確率は遥かに高い。パニックを起こして自ら外へ飛び出すことこそが、最も確実な自殺行為だ。理科室でバリケードを崩して飛び出していった連中がどうなったか、お前もその目で見たはずだ」
蓮の言葉には、いかなる焦燥も感情の揺らぎも混ざっていなかった。
事なかれ主義だったかつての彼は、目の前に厄介な問題が起きれば視線を逸らし、誰かの後ろへ隠れて逃げ出すだけの臆病者だった。だが今は違う。降りかかる致死的なリスクの数々を頭の中で瞬時に秤にかけ、最も生存確率の高い『マシな地獄』を冷静沈着に選び取っていた。
「……分かった」
健太は胸の奥の熱い息を静かに吐き出し、鉄パイプの先端を床へゆっくりと下ろした。
「日高、お前がそう言うなら従う。お前の判断で、俺たちはここまで生き残ってこれたんだからな。……で、ただじっと息を潜めて隠れてるだけか?」
「いや。今のうちに、家庭科室にある物資の完全な捜索とパッキング、そして装備の本格的な強化を行う」
蓮は、ステンレス調理台の周囲、そして部屋の奥にある『家庭科準備室』の重い木製扉へと鋭い視線を向けた。
「さっきは家庭科室に滑り込み、扉を塞ぐだけで手一杯だった。だが、この先どのような戦闘や移動を強いられるか分からない。水と食料を確実に確保し、走った時に中で荷物が暴れて音を立てないよう、完璧にパッキングしておく必要がある。重量バランスが崩れれば、スタミナを無駄に消費して命取りになるからな」
「なるほど……。音を完全に消して、身体への負担を最小限にするのね」
葵が、合点がいったように深く頷いた。
「そういうことだ。父がよく言っていた。サバイバルにおける荷造りは、ただの収納じゃない。自分の身体を拡張する作業だ、ってな」
蓮は、自分の背負っていたリュックサックを調理台の上に下ろした。
だが、その本格的な作業に取り掛かる前に、蓮は丸椅子に腰掛けている小林の元へと静かに歩み寄った。
「小林、足の具合はどうだ」
蓮が膝をついて視線を合わせると、小林は申し訳なさそうに視線を落とし、痛む右足のスネを庇うように抱え込んだ。
「日高……さっき、屋根から飛び降りて配膳通路を走った時、また少し傷口が開いちまったみたいで……ズキズキ痛むんだ。でも、歩けないわけじゃない。俺、絶対に弱音なんて吐かないから……置いていかないでくれ……」
小林の瞳には、激痛への恐怖だけでなく、仲間から「足手まとい」として見捨てられることへの底知れない怯えが滲んでいた。
理科室で加藤が発症し、篠原が噛み殺される瞬間を最も間近で目撃した小林。昇降口でガラス扉が割れ、感染者の群れが雪崩れ込んできたあの瞬間、加藤が危険を顧みずに駆け寄って肩を貸してくれなければ、自分はその場で肉片に変えられていたはずだった。
加藤が自らの命を削って繋いでくれた命。それなのに、その加藤自身が感染の牙痕を隠し通した末に変貌し、最後は蓮の手によって息の根を止められた。
「加藤……篠原……すまねえ……俺の足が動かないばっかりに……みんなにこんな迷惑をかけて……」
小林の喉から、押し殺した嗚咽が漏れた。
中学時代からサッカー部で共に泥まみれになり、部室の狭いベンチで他愛のない冗談を笑い合っていた親友。その親友の遺体を理科室の床に残し、自分だけがこうして生き長らえているという冷酷な事実が、小林の胸を容赦なく切り刻んでいた。
「小林、顔を上げろ」
健太が小林の肩に大きな手を置き、力強く、しかし温かい声で言った。
「お前が自分を責める必要なんて、これっぽっちもねえよ。加藤はお前を助けたくて体を張ったんだ。篠原さんだって、お前が無事だったからこそ、理科室で最後まで諦めずに耐えてたんだ。お前がここで絶望して心を折っちまったら、あいつらの必死の想いが全部無駄になっちまうだろ」
「健太の言う通りだ」
蓮もまた、小林の膝にそっと手を添えた。
「自分を責めるな。お前が生き残ることこそが、加藤と篠原への唯一の報いになる。俺たちは4人でチームだ。誰1人として置いていかないし、見捨てたりもしない」
蓮の迷いのない言葉に、小林の目から大粒の涙がボロボロと零れ落ちた。
「日高……健太……葵さん……ありがとう……本当にありがとう……!」
「よし、まずはその足の傷を完全に処置しよう」
葵が調理台のシンクから戻ってきた。その手には、準備室の棚から見つけ出してきた清潔なガーゼと消毒液、そして予備の包帯が握られていた。
「日高くん、準備室の救急箱の中に、抗生物質の軟膏と滅菌ガーゼが手つかずで残っていたわ。水道の水も綺麗に出るから、徹底的に洗浄できるわよ」
「助かる、葵。すぐに処置しよう」
蓮と葵は、小林の右足に巻かれていた血染めの包帯を慎重に解いた。
スネの傷口は、理科室からの跳躍による衝撃でわずかに開いていたものの、幸いにもガラス片による直線的な切創であり、感染者の牙や爪による汚染は見られなかった。
シンクから汲んできた清潔な水で傷口の血液と汚れを洗い流し、高濃度の消毒液を染み込ませた脱脂綿で丁寧に殺菌する。小林は歯を食いしばって激痛に耐えた。
仕上げに抗生物質入りの軟膏を厚く塗り、清潔な滅菌ガーゼを当てた上から、伸縮包帯を一定のテンションで何重にも巻きつけて圧迫固定する。
「……ふぅ。これで新たな出血は止まったな。骨には異常がない。安静にしていれば、痛みも引いてくるはずだ」
蓮が包帯の端を医療用テープでしっかりと留めると、小林の強張っていた表情に、ようやく柔らかな安堵が戻ってきた。
「日高、足がすごく軽くなったよ。これなら、いざって時にも踏ん張れる」
「無理は禁物だ。だが、これで移動の準備の第一歩は整った」
蓮は立ち上がり、全員を見渡した。
「ここからが本番だ。家庭科室に眠る物資を徹底的にかき集め、完璧なサバイバル装備を作り上げるぞ」
4人は、暗闇の家庭科室の中で、微かな懐中電灯の間接光だけを頼りに、生存を分ける緻密な作業を開始した。
まず着手したのは、健太と葵、そして小林のための運搬用バッグの確保だった。
現在、荷物を運べるまともなリュックサックを背負っているのは蓮1人だけだ。他の3人は手ぶらか、ポケットに僅かな小物を突っ込んでいるに過ぎない。このままでは、家庭科室に眠る大量の食料や水を持ち出すことなど不可能だった。
蓮と葵は、手分けして家庭科準備室の奥を探索した。
壁際に並ぶスチールロッカーや教員用の収納棚、そして防災資材の段ボール箱を次々と開けていく。
「日高くん、これを見て!」
葵がロッカーの奥から引き出してきたのは、教員が私物として保管していたと思われる、登山用の丈夫な大型ナイロン製デイパック1つと、学校指定の非常持ち出し用リュックサックが2つだった。
「素晴らしいな。縫製もしっかりしているし、容量も申し分ない」
蓮はホコリを払い、ファスナーの開閉に問題がないか、ショルダーハーネスのバックルにヒビが入っていないかを指先で入念に確認した。
「健太、お前はこの大型のデイパックを背負え。メインの重い物資はお前が運ぶことになる」
「おう! 任せろ! 筋肉なら有り余ってるからな。いくらでも詰め込んでくれ!」
健太が胸を叩いて頼もしく笑った。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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