第25話:家庭科室への撤退【2/2】
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蓮は静かに、息を止めてレバーハンドルに指をかけた。
金属の冷たさが革手袋越しに伝わってくる。
『ガチャリ……』
微小な機械音とともに、レバーが下までスムーズに沈み込んだ。
鍵はかかっていなかった。蓮は慎重に、数ミリ単位で扉を内側へ押し開けた。
ヒヤリとした湿った冷気が、4人の汗ばんだ肌を撫でた。
そこは、昼間でも薄暗い、幅1メートルほどの極めて狭い配膳用通路だった。
天井の蛍光灯は送電停止によって完全に沈黙しており、壁面に設置された緑色の非常誘導灯だけが、電圧の乱れによって『チカ……チカ……』と不気味に明滅しながら、灰色のコンクリート壁を照らし出していた。
空気中には、ほのかな埃とカビの匂い、学校の古い配膳トレイの油の匂い。そして――微かに、生々しい鉄錆のような血の匂いが漂っていた。
「……クリアだ」
蓮は極小の囁き声で告げ、暗闇の通路の中へ1歩を踏み出した。
革底の靴が、コンクリートの床を踏みしめる。
4人は1列縦隊となり、配膳通路の暗がりへと滑り込んだ。壁際に身を寄せ、角やドアの死角に神経を極限まで研ぎ澄ませる。健太は小林の体重を自らの肩に乗せ、左足1本で跳ねるように進む小林の足音を、己の巨体で巧みに抑え込んでいた。
10メートルほど進むと、1階へと続く急勾配の配膳用小階段が現れた。
階段の途中に設置されたスチール製の棚が激しく倒れ、中から古びた配膳盆やプラスチック製のトレイが散乱している。
蓮は静かに足を進め、手すりの隙間から身を乗り出し、1階の通路の様子を慎重に窺った。
1階の配膳通路。
緑色の誘導灯がチカチカと明滅する暗がりの中で。
『……ズズズ……ッ……ズルリ……』
靴底を床に引きずる、嫌な擦過音が静かに響いていた。
蓮は目を凝らした。
1階の家庭科室へと続く通路の真ん中に、1人の影が立っていた。
調理師の白い作業着を着た、大柄な女性の感染者だった。
胸元は真っ赤な血液で濡れそぼり、三角巾が外れて乱れた頭髪からは、生温かい血が床へとボタボタと滴り落ちている。彼女は右手に大きな金属製の『大型レードル(お玉)』を凶器のように握りしめたまま、壊れた操り人形のようにゆらゆらと身体を揺らし、家庭科室の引き戸の前を徘徊していた。
(家庭科室の調理スタッフか……)
蓮は即座に危険度を査定した。
かつて昼休みの購買や給食の受け渡し場所で、生徒たちに温かい笑顔を向け、「いっぱい食べなさいね」と声をかけてくれていた調理師の女性の姿が脳裏をよぎる。しかし、目の前にいる存在には、かつての優しい面影など欠片も残っていない。白濁した瞳孔、血肉を求めて小刻みに痙攣する顎。ウイルスによって人間性をすべて焼き尽くされた肉食の怪物に過ぎない。
敵は単独。だが、あの位置に居座られていては、家庭科室のドアに近づくことができない。
大声を出して引きつけるわけにはいかなかった。この狭い通路で騒音を出せば、2階の廊下や外の裏庭に群がる無数の感染者が、この行き止まりの通路へと雪崩れ込んでくる。
配膳通路の狭さを利用し、背後から音もなく忍び寄り、1撃で脳幹を破壊して無音で処理する必要があった。
「健太、葵」
蓮は振り返らず、耳元へ届く極小の囁き声で告げた。
「俺が階段を降りて、あいつの顎下を狙う。1撃で倒せなかったら、健太が上から頭部を叩き潰せ。葵は小林を守りながら、後方の階段上を警戒しろ」
「了解」
「わかったわ、日高くん」
言葉は短く、無駄がなかった。
理科室での地獄を共に潜り抜けてきたことで、彼らの間の意思疎通は、阿吽の呼吸に近い領域まで高まっていた。
配膳用小階段の最下段に、蓮の靴底が吸い付くように静かに着地した。
1階の配膳通路は、2階以上に濃密な冷気と澱んだ空気に満ちていた。非常口の誘導灯が不規則に点滅し、コンクリートの壁と床に不気味な影の揺らぎを作り出している。
『……ズズ……ズルリ……』
調理師の感染者は片足を不自然に引きずりながら、手に握りしめた大型のステンレス製レードルを床にジャリジャリと擦れ合わせ、家庭科室の引き戸の前を意味もなく往復していた。血に塗れたエプロンの裾が、歩行のたびに床タイルを撫で、赤黒い擦れ跡を描いていく。
(間合い、4メートル……)
蓮は、両手で固く握りしめた木柄の簡易槍の柄を、指先で1度だけ強く締め直した。
左腕のガムテープ辞書防具を胸の前に突き出し、身体を極限まで前傾させる。呼吸を喉の奥で止め、横隔膜の動きすら殺す。
父から教わった、気配を完全に殺すサバイバルの歩法。重心を低く保ち、踵から足裏全体をコンクリートの微細な砂粒へそっと押し当て、音を立てずに体重を移動させていく。
3メートル。
2メートル。
感染者の後頭部にへばりついた赤黒い血塊と、首筋に浮き出たどす黒い毛細血管が、間近に視認できる距離まで肉薄した。
感染者がレードルを床に擦りつけ、逆方向へ向き直ろうとした、まさにその体勢の切り替わりのほんの0.1秒。
視界が蓮の方角へ回転しかけた、その無防備な刹那――。
(今だ……!)
蓮の右足が、床のコンクリートを強く蹴りつけた。
『シュッ!』
夜の澱んだ空気を切り裂く、鋭利な1閃。
蓮の全身のバネと腰の回転、そして前進の加速度が、木柄の槍の先端へと一気に収束された。
狙うは、作業着の襟ぐりから覗く、無防備な顎下の軟骨部――頭蓋底の脳幹。
『ズスッ……!!』
生々しく、湿った重い撃突音が狭い配膳通路に響き渡った。
裁ちばさみの分厚い鋼刃が、調理師の顎下から舌を切り裂き、頭骨の底部を砕いて脳幹へと深々と突き刺さった。衝撃が蓮の両腕を通じて肩へと抜け、手袋越しに硬い骨の破砕感がダイレクトに伝わってくる。
「……ガっ……!?」
調理師の感染者の身体が、直立のままピタリと静止した。
白濁していた瞳から狂気の光が失われ、全身の筋肉から緊張が一気に抜け落ちる。
手に握られていた大型レードルが指先から滑り落ち、床のコンクリートへ甲高い音を立てて転がっていこうとした。
『カシャ――』
その金属音が響き渡る寸前、蓮は素早く左足の甲を滑り込ませ、落ちてきたレードルを受け止めて音を最小限に抑えた。
「引き抜く……ッ!」
蓮は刺し穿った瞬間の反動を利用し、両腕の筋肉を一気に収縮させて槍の柄を手元へ強引に引き戻した。
『ポンッ!』
肉と骨が離れる湿った嫌な音が鳴り、鋼刃が調理師の首元から一気に抜け出る。
どす黒い血液が噴水のように微かに吹き出し、調理師の巨体はそのまま床へ崩れ落ちかけた。
「トドメだ!」
後ろから影のように飛び出してきた健太が、上段に構えていた鉄パイプを、倒れ込む調理師の側頭部に向かって横振りで1閃させた。
『バガァンッ!』
鈍く重い金属打撃音が響き、頭蓋骨が砕ける手応えが走った。
調理師の身体は1度だけ小さく痙攣し、そのままコンクリートの床へと倒れ伏し、完全な沈黙へ沈んでいった。
「……ハァ……ハァ……ッ」
健太が鉄パイプを下ろし、素早く後方の階段上へ視線を走らせた。
「通路、クリアだ! 追手はいねえ!」
「葵、小林を連れてこい! 扉の鍵を確認しろ!」
蓮が小声で叫ぶと、階段上で小林を支えていた葵が、息を潜めながら素早く降りてきた。倒れた調理師の脇をすり抜け、第1家庭科室の重厚なステンレス製スライド戸の前にしゃがみ込む。
そこは、厚みのあるステンレス張りの大型スライド扉だった。
家庭科室の外部搬入口として設計されたその扉は、火災時の延焼を防ぐための防火仕様であり、遮音性も極めて高い。
葵はポケットから取り出した小型ライトの光量を極限まで絞り、鍵穴の周囲に光を当てた。手際よく真鍮製のレバーを押し下げる。
『ガチャリ……』
レバーがスムーズに下まで沈み込んだ。
「鍵は……開いてる! 解錠されてるよ、日高くん!」
「よし……! 入れ!」
蓮は手にした槍の刃先を警戒させながら、左手でステンレス戸の大型取っ手を掴み、静かに横へ滑らせた。
『ガラガラガラガラ……』
戸が開いた瞬間、室内の冷たい空気が一気に4人の顔を包み込んだ。
そこに含まれていたのは、クレンザーの匂い、ステンレスの金属臭、そして食器棚に保管された布巾や乾物のほのかな匂い。
外界の血生臭い空気とは完全に隔絶された、無人の静寂だった。
「潜り込め! 音を立てるな!」
蓮を先頭に、4人は滑り込むように家庭科室の内部へ飛び込んだ。
健太が小林の身体を抱き抱えて中央の安全なスペースへ運び、最後に突入した葵が開いていたステンレス戸を両手で力強く引き戻す。
『バタンッ!!』
葵が即座にレバー上の大型サムターンを掴み、カチリと音を立てて最後まで回転させた。
『カチャンッ!!』
金属の重い施錠音が室内に響き渡り、外部通路との接続が完全に遮断された。
「……ハァ……ハァ……ハァ……ッ……!」
健太がドアの前に立ちはだかり、大きく荒い息を吐き出した。
蓮も槍を短く持ち直し、懐中電灯の光量を極限まで絞って、室内の全容を慎重に照らし出した。
広さはおよそ普通教室2つ分ほどの広大な空間。
室内には、銀色に鈍く光るステンレス製の大型調理台が6台、整然と並んでいた。壁際には調理器具のスチールラック、大型の業務用冷蔵庫、食器棚、そして奥には『家庭科準備室』へ続く別の木製扉が見える。高窓には厚手の防炎遮光カーテンが隙間なくしっかりと閉じられており、外からの視線も光も完全に遮断されていた。本棟の猛火の赤光が、カーテンの隙間からわずかに漏れている程度だ。
蓮は教卓の陰、調理台の下、準備室の扉の周囲を、槍を構えたまま素早く歩いて確認した。
「……敵影なし。室内クリアだ」
蓮の低い宣言に、全員が同時に肩の力を抜き、安堵の長い息を漏らした。
「小林、ここに座れ」
蓮は小林を1番手前の調理台の陰にある頑丈な木製丸椅子に静かに座らせた。
小林は脂汗を浮かべた顔を上げ、力なく笑ってみせた。
「助かったよ、日高……。俺、あの屋根の上で本当に終わりかと思った……」
「礼は後だ。健太、ボサッとするな。バリケードを組むぞ」
蓮の言葉は冷徹だった。だが、その冷徹さこそが彼らの命をここまで繋ぎ止めてきたのだ。
「理科室の二の舞は絶対に踏まない。このドアは頑丈なステンレス製だが、外からの体当たりが重なればシリンダーが歪んでこじ開けられる。……健太、あの第1調理台を引きずってくるぞ」
「おうっ! 任せろ!」
健太が跳ね起き、1番手前にあるステンレス製調理台の端に手をかけた。
内部にガス配管の受盤やスチール棚、厚い仕切り板が組み込まれており、重量100キロ近い質量がある。普通の人間なら2人でも動かすのをためらう巨体だ。
「いくぞ、1、2の……3ッ!!」
『ガガガガガッ!!』
蓮と健太は全身の背筋と脚力を爆発させ、調理台をスライド戸の真前へ力任せに横付けした。
重厚なステンレス天板が扉の全面を物理的に塞ぎ、強固な鉄壁が完成する。
さらに葵が素早く機転を利かせた。調理台のシステムキャビネットを次々と開け、中から重い鋳物製の大型圧力鍋や鉄製の中華鍋、分厚いフライパンを取り出してきたのだ。
「日高くん、これを使って!」
葵はそれらの重量器具を、扉の枠と調理台の隙間へぎっしりと隙間なく詰め込み、外からの圧力で調理台が滑らないための「金属の楔」を作り出した。
『ドドンッ!』
健太が肩で調理台を力いっぱい突いてみたが、重厚な金属の要塞はミリ単位すらビクとも動かなかった。
「完璧だ……! これなら外から化け物が10体体当たりしてきても絶対に破れねえぞ!」
健太が額の汗を袖で拭いながら、ニヤリと頼もしい笑みを浮かべた。
「よし……これで、ひとまずの安全は確保した」
蓮は、手に持っていた木柄の簡易槍を調理台の天板の上に置き、深く長い息を吐き出した。
理科室を失ってから、わずか20分足らず。
彼らは配膳用裏通路を突破し、第1家庭科室を自らの手で「第2の安全地帯」へと作り替えたのだ。
蓮は小林の元へ戻り、膝をついた。
「小林、傷口を見せてみろ」
蓮と葵の手で、血の滲んだ右足の包帯が慎重に解かれた。
屋根からの跳躍によって傷口がわずかに開き、じわりと出血していたが、幸いにもガラス片による切創であり、感染者の牙や爪による傷ではない。
「消毒と圧迫止血をやり直す必要があるな」
蓮が言うと、葵が水道の蛇口を見つめた。
「日高くん、水が出るか試してみるわね」
葵がシンクの蛇口を静かにひねると、ゴボゴボという配管の音とともに、冷たく澄んだ水がチョロチョロと勢いよく流れ出した。
「水が出るわ! 屋上の受水槽が生きてる!」
「よし……! 傷口を綺麗に洗い流して、清潔な布で保護しよう」
葵が手早く小林の傷口を洗浄し、清潔なガーゼで保護して包帯をしっかりと巻き直した。
痛みが和らいだのか、小林の青ざめていた顔に、ようやく生気が戻ってきた。
「日高……葵さん……本当にありがとう……。俺、情けねえよ……足手まといで……」
小林がうつむいて涙をこぼした。
「気にするな」健太が小林の肩をポンと力強く叩いた。「お前が無事でいてくれることが、加藤への1番の手向けだ。俺たちのことは気にすんな」
室内は、深い静寂に包まれていた。
調理台と金属器具で固く封鎖されたスライド扉の向こう側からは、感染者がぶつかってくるような物音もなく、防炎遮光カーテンで覆われた高窓の隙間からは、本棟の燃え広がる赤光がぼんやりと透けて見えているだけだった。
ジリリリリリリリリ――ッ!
非常ベルの甲高い音響は相変わらず校舎の遠くから鳴り響いていたが、今の彼らにとっては、もはや集中を乱すことのないただの背景音に過ぎなかった。
蓮は立ち上がり、薄暗い室内の奥を見据えた。
視線の先にあるのは、食料や水、そして包丁などの調理器具が眠る『家庭科準備室』の重い木製扉。
手持ちの水と食料は尽きかけている。生き残るための物資を確保し、次なる脱出への力を蓄えるための探索は、まさにここから始まろうとしていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




