第25話:家庭科室への撤退【1/2】
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非常ベルの金切り声は、夜空を焦がす猛火の爆ぜる音と混ざり合いながら、特別棟の外壁を激しく震わせ続けていた。
本棟3階の窓から噴き出す紅蓮の火柱は、木製サッシや天井裏の配線を容赦なく飲み込んで勢いを増し、モクモクと立ち上る黒煙が冷たい夜風に乗って頭上を覆い尽くしている。時折、熱膨張によって窓ガラスが粉々に砕け散る炸裂音が響き、夜空を舞う火の粉が赤い流星となってグラウンドへ降り注いでいた。
理科室という「絶対の要塞」は、完全に失われた。
極限状態の中でパニックに陥った生徒たちの手によってバリケードは内側から解体され、押し寄せる感染者の群れによって室内は阿鼻叫喚の屠殺場へと変わり果てた。
血と吐瀉物、そして割れた薬品瓶の刺激臭が渦巻くあの地獄から、蓮、健太、葵、そして右足に重傷を負った小林の4人は、割られた高窓を抜け、非常階段の屋根の上へと辛うじて逃げ延びていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
サビついたスチール板の上に両手と膝を突いたまま、蓮は激しく乱れる呼気を整えようと荒い息を繰り返していた。
右手には、ホウキの木柄の先端に裁ちばさみの分厚い鋼刃をガムテープとスチールワイヤーで何重にも巻きつけた、自作の簡易槍。左腕には、国語辞典と現代文の教科書で固めた厚い防護アーマー。その表面には、理科室からの脱出劇で浴びた感染者たちのどす黒い血液が、生温かい粘り気を残してべったりとこびりついていた。
すぐ隣では、鉄パイプを両手で握りしめた健太が、片膝を折って肩を激しく上下させていた。日焼けした顔面は泥と汗、そして火災の煤煙で真っ黒に汚れ、目元には拭い切れなかった涙の跡が黒い筋となって残っている。
その背後では、アルミ柄の簡易槍を胸元に抱え込んだ葵が、血の気の引いた青ざめた横顔で、破られた理科室の高窓を見上げていた。黒い遮光シートが引き裂かれた窓の奥では、今なお無数の怪物のシルエットが、火災の赤光を浴びて巨大な影絵のように蠢き続けている。
「う……ぐっ……!」
その足元で、小林が痛みに耐えかねた低い呻き声を漏らしながら、冷たいスチール屋根の上にうつ伏せになっていた。
窓枠から屋根へと身を投げ出した際の激しい着地衝撃。その衝撃によって、理科室で蓮と葵が処置した右足スネの包帯には、再び赤黒い血液がじわりと滲み出し始めていた。小林は自らの不甲斐なさに奥歯をギリギリと噛み締め、震える腕で必死に上半身を支えようとしていた。
自分を背負って逃げてくれた無二の親友・加藤を失い、心配して駆け寄ってくれた篠原も変貌した。その凄惨すぎる現実を背負いながら、小林は蓮たちにすがるように、掠れた息を吐き出していた。
「加藤……篠原……すまねえ……俺のせいで……俺の足が動かないばっかりに……ッ!」
小林の喉から、血を吐くような嗚咽が漏れた。
中学時代からサッカー部で共にボールを追い、放課後の部室でくだらない将来の夢を語り合い、テストの前にはノートを見せ合って笑っていた仲間たち。1階の昇降口でガラス扉が破られた際、小林の足を切り裂いた鋭利な破片。あの時、加藤が危険を顧みずに駆け寄って肩を貸してくれなければ、自分はその場で群れに貪り食われていたはずだった。加藤が命がけで繋いでくれた命。それなのに、その加藤自身が感染の牙痕を隠し、発熱の果てに変貌して命を落とした。
小林の胸を押し潰す罪悪感と喪失感は、右足の裂傷の激痛など比較にならないほど深く、彼の心を苛んでいた。
「自分を責めるな、小林」
蓮は視線を夜の闇に向けたまま、低く、しかし芯のある声で言った。
「加藤はお前を助けたくて体を張ったんだ。篠原もお前が無事だったからこそ、理科室で必死に耐えていた。お前がここで絶望して命を投げ出したら、あいつらの必死の行動が全部無駄になる。生き残るんだ。生き残ることだけが、あいつらへの唯一の報いになる」
蓮の言葉に、小林は涙で濡れた顔を上げ、泥に塗れた手でスチール板を強く掻き毟りながら、小さく、けれど力強く頷いた。
「……日高、下へ降りるか!?」
健太が、屋根の手すり越しに下方の暗がり――1階の裏庭を指差した。
「あそこのフェンスの破れ目だ! 弓道場の奥のあそこから外へ抜け出せば、街へ出られるだろ!?」
健太の焦りには、無理もない理由があった。
この狭い屋根の上に留まっていれば、割れた理科室の窓枠から感染者たちが次々と飛び降りてくるのは時間の問題だった。さらに、本棟の猛火から流れてくる有毒な黒煙が風向きによってこちらへ流れ込んでおり、長居すれば煙に巻かれて窒息する危険も迫っていたからだ。
だが、蓮は手すりに身を乗り出し、眼下に広がる裏庭と、その向こうのバイパス道路を冷徹な視線で見下ろした。
そして、即座に首を横に振った。
「ダメだ。下へは降りられない」
「な……なんでだよ!? 裏庭なら、さっきは1、2体くらいしか彷徨ってなかったろ!」
「見ろ、健太。状況が完全に変わった」
蓮は槍の柄を短く持ち直し、屋根の手すり越しに1階の裏庭とグラウンド側を指差した。
健太と葵、そして痛む足を押さえた小林が、息を呑んで視線を凝らした。
理科室のバリケードが内側から破られた際、パニックになった生徒たちが上げた絶叫。そして、窓ガラスをフルスイングで叩き割った際の轟音。
それらの激しい破壊音が、夜の校舎において強烈な信号弾となってしまっていたのだ。
本棟の破れた昇降口や、炎に照らされたグラウンドを彷徨っていた無数の感染者たちが、獲物の匂いと音に引き寄せられ、津波のように特別棟の裏手へと雪崩れ込んできていた。
ツツジの植え込みの陰、クスノキの巨木の根元、そして弓道場の木造壁の周囲。
そこには、すでに数10体を超える血まみれの影が、ゆらゆらと身体を不気味に揺らしながら、密集するように集まりつつあった。
怪我をして引きずる足、砕けた顎、血に塗れた制服。かつてこの学園で共に学んでいた生徒や教師たちの成れの果てが、本能的な飢餓感に突き動かされて蠢いている。
小林が言っていた「金属フェンスの破れ目」へ続く最短ルートは、完全に彼らの肉の壁によって塞がれていた。
「そんな……フェンスまでの道が……埋まってる……」
葵が、絶望に震える声で呟いた。アルミ槍を握る彼女の指先が、恐怖で細かく痙攣している。
「あんな数……とても突破できないわ……」
「そうだ。もし今、この屋根から飛び降りて裏庭へ降り立てば、着地した1瞬で全方位から押し寄せる感染者の群れに包囲される。逃げ場のない平地で、走れない小林を抱えたまま戦うのは自殺行為だ」
蓮は冷徹に状況を分析した。
かつての蓮なら、この絶体絶命の光景を前に思考を放棄し、パニックに呑み込まれていたかもしれない。だが、父から叩き込まれたサバイバルの鉄則が、蓮の理性を極限まで研ぎ澄ましていた。
『パニックに陥った時こそ、立ち止まって状況を三次元で捉えろ。地上の道が塞がれているなら、建物の構造そのものを武器にしろ』
「それに、もう1つ決定的な理由がある」
蓮は、自分の背中にあるリュックサックを軽く叩いた。
「水と食料だ」
健太がハッとして、自分の腰のベルトや制服のポケットを慌ててまさぐった。
「あ……! しまった……!」
理科室に置いてあった蒸留水ポリタンクや予備の資材、手当て用の薬品類。それらはすべて、バリケードが崩壊した際の阿鼻叫喚の混戦の中で、室内の床へ置き去りにされてしまっていたのだ。
現在、彼らが手元に持っている物資は、蓮のリュックに残された僅か数百ミリリットルのペットボトルの水と、ポケットの中の非常用食品2箱だけだった。
「この状態で、仮に奇跡的に裏庭を突破して外の街へ逃げ出せたとしても……」
蓮の思考は、氷のように冷たく、どこまでも合理的だった。
「外の世界は、通信もインフラも完全に死んでいる。コンビニやスーパーはすでに暴徒や感染者で溢れ返っているか、荒らされ尽くしているはずだ。水も食料もない状態で、しかも小林の足の負傷を抱えたまま、何キロも先の家族の元まで徒歩で逃走を続けるのは絶対に不可能だ。脱出する前に、俺たちは生き残るための物資補給を完了させなければならない」
「補給……?」
健太が目を見開いた。
「どこでだよ!? 学校の中はどこも化け物だらけだぞ!?」
「あるだろ。この特別棟の中に」
蓮の瞳が、暗闇の中で鋭利な光を放った。
「1階の最奥――『第1家庭科室』だ」
その言葉が出た瞬間、葵の顔にハッとした理解の色が走った。
「家庭科室……! そうか、あそこなら……!」
「そうだ」
蓮は力強く頷き、脳内で特別棟の平面図と家庭科室の備蓄状況を急速に思い浮かべた。
特別棟1階の北側最奥に位置する、第1家庭科室。
そこは、全校生徒の調理実習を行うための専用教室だ。
室内には、ステンレス製の大型調理台が6台。それぞれに独立したガスコンロと大型シンク、収納キャビネットが備え付けられている。そして、何よりサバイバルにおいて決定的なのは「備蓄物資」の存在だった。実習用の缶詰、乾麺、米、調味料、そして未開封の大型保存水。さらに、地域の防災拠点として指定されているこの学園では、非常時用の缶詰パンやアルファ化米の備蓄倉庫が、家庭科室の準備室に併設されていることを、蓮は入学時の避難訓練資料の記憶から正確に引き出していた。
それだけではない。武器や防具の素材としても活用できる調理器具――肉や野菜を断ち切る研ぎ澄まされた牛刀や三徳包丁、ペティナイフ、金属トング、アルミホイル、そして食品用ラップ。怪我の応急処置や傷口の密閉にも使える医療代替資材の宝庫だ。
さらに、家庭科室の調理台は分厚いステンレスと耐火構造で作られており、扉も調理時の騒音や万が一のボヤを防ぐための防火・防音仕様の重厚な引き戸になっている。
水回りがあり、食料があり、頑丈な鍵がかかり、盾となる強固な金属家具が存在する。
そこは、失われた理科室に代わる、いや、長期的なサバイバルにおいてそれ以上の価値を持つ「第2の要塞」となり得る場所だった。
「家庭科室へ向かう」
蓮は仲間たちに向かって、はっきりと言い切った。
「ここで闇雲に外へ飛び出せば全滅する。家庭科室へ迂回し、水と食料を可能な限り確保し、武器と防具を強化する。そして、裏庭の群れが本棟の火災の熱や音に引き寄せられて移動する隙を見極めてから、万全の態勢で脱出路を切り拓く。……これが、俺たちが生き残るための唯一の最適解だ」
蓮の言葉には、迷いが一切なかった。
事なかれ主義で他人の問題から目を逸らし、責任から逃げてばかりいたかつての平凡な少年は、もうどこにもいない。極限のプレッシャーの中で、蓮の思考は驚くべき速度で研ぎ澄まされ、仲間を生かして連れ帰るための冷徹な生存計画を組み立てていた。
健太はゴクリと唾を呑み込み、自分の持っている鉄パイプを強く握り直した。
「……分かったよ、日高。お前の言う通りだ。水も食料もねえまま街へ飛び出したら、途中で動けなくなって野垂れ死ぬのがオチだもんな。小林を連れて、家庭科室を奪取するぞ!」
「私も行くわ、日高くん」
葵も、涙を拭い去った力強い瞳で蓮を見つめ返した。
「家庭科室の構造なら、被服部と調理実習で何度も使っていたから隅々まで分かってる。準備室の鍵の位置や、器具の配置も頭に入ってるわ」
「日高……俺のせいで、足を引っ張って本当にすまねえ……」
小林が唇を噛み締め、痛みに耐えながら頭を下げた。
「俺を置いていってくれてもいいんだぞ……。この足じゃ、みんなの逃げ足を鈍らせるだけだ……」
「馬鹿言うな、小林」
蓮は小林の目をまっすぐに見つめた。
「加藤はお前を助けるために命を懸けたんだ。篠原もお前が無事だったからこそ、理科室で必死に耐えていた。お前をここで見捨てたら、あいつらの死が全部無駄になる。俺たちは全員で生きてここを出るんだ。誰1人として置いていかない」
蓮の言葉に、小林の目からボロボロと大粒の涙が零れ落ちた。
「日高……ありがとう……ありがとう……!」
「助かる、葵。小林、しっかり掴まってろ」
蓮は頷き、手すり越しに特別棟の構造を観察した。
「だが問題は移動ルートだ」
蓮は2階の非常階段の扉を見やった。
理科室から溢れ出た感染者たちが、2階のメイン廊下を完全に占拠している。あの中央廊下を正面突破しようとすれば、数対1の不条理な近接格闘を何度も強いられ、体力を削り取られて噛まれるリスクが跳ね上がる。ましてや、足を負傷した小林を抱えた状態での乱戦など、自殺行為に等しかった。
「中央廊下は使わない」
蓮は人差し指を1本立て、特別棟の建築構造を頭の中でなぞった。
「特別棟の端――配膳用小階段と、給食搬入用の裏通路を使う」
「配膳用階段……? あの、普段は生徒立ち入り禁止になってる狭い通路か!?」
健太が思い出そうと眉をひそめた。
「そうだ」
特別棟には、かつて校内給食や行事の際の物資搬送に使われていた、幅1メートルほどの非常に狭い専用階段と廊下が、建物の北側壁面に沿って隠されるように設置されていた。一般生徒は普段立ち入ることがなく、施錠されているか、清掃用具の物置として使われている場所だ。
だが、狭いということは、1度に侵入できる感染者の数が「1人」に限定されるということでもある。
自分たちの手にある簡易槍や鉄パイプの「リーチ」を最大限に活かし、1対1の状況を強制的に作り出せる、格好の迎撃地点となり得るルートだった。
「配膳階段から1階へ降り、給食搬入用の裏通路を通って家庭科室の裏ドアを目指す。……全行程、約80メートル。健太は小林の左肩を支えろ。葵は俺の直後につき、小林の右側をフォロー。俺が先頭で索敵と排除を担当する」
蓮は槍のグリップを握り直し、先頭に立った。
「音を殺し、影から影へ移動するぞ。行くぞ、手元から目を離すな」
屋根の傾斜を慎重に滑り降り、蓮は非常階段のスチール製手すりへと身を寄せた。
目指す配膳用搬入ドアの踊り場までは、水平距離にして約2メートル。高低差はほとんどないが、足元には漆黒の闇が口を開けており、踏み外せば1階のコンクリート床へと真っ逆さまに転落する危険な跳躍だった。
ましてや、下方の裏庭には無数の感染者たちが蠢いている。物音1つ立てて落下すれば、その瞬間に群れに群がられ、生きたまま食い破られるのは明白だった。
「俺が最初に跳ぶ」
蓮は低く囁き、手にした木柄の簡易槍をしっかりと握り直した。
「着地したら即座に受け止め態勢に入る。健太、小林を抱えて次に跳べ。葵は殿だ。跳んだらすぐに槍を構えろ」
「分かった。無理はすんなよ、日高」
健太が小林の腰に腕を回し、力強く頷いた。小林も痛む右足を引きずりながら、必死に頷き返す。
「日高くん、気をつけて……!」
葵がアルミ槍を胸元に引き絞り、真剣な眼差しで蓮の背中を見つめた。
蓮は深く息を吸い込み、冷たい夜風で肺を満たした。
父から教わった身体操作。恐怖を筋肉の緊張に変えるのではなく、関節を柔軟に保ち、重心の移動を地面と同化させる。
足裏全体でスチール屋根の錆びたリベットを捉え、蓮は音もなく跳躍した。
『トンッ』
驚くほど小さな金属音とともに、蓮の靴底が配膳ドア前の狭い踊り場へと吸い付くように着地した。膝を深く曲げて衝撃を殺し、即座に簡易槍を前方に構えて周囲のクリアを確認する。
「クリアだ。健太、小林を寄こせ!」
蓮が両手を広げて待ち構える中、健太が小林の身体を抱え上げた。
「小林、俺の首にしっかり掴まってろ! いくぞ!」
健太の強靭な背筋が唸りを上げ、小林を抱えたまま踊り場へと力強く飛び移ってきた。
『ドサッ』
2つの重厚な質量が着地した瞬間、スチール製の踊り場が微かに軋んだが、蓮が瞬時に小林の身体を抱きとめ、健太の背中を支えて衝撃を分散させた。小林は激痛に顔を歪めながらも、悲鳴を喉の奥で必死に押し殺した。
「よく耐えた、小林」
蓮が小林の肩を叩くと、最後に葵が身軽な跳躍で踊り場へと滑り込んできた。
『スッ』
弓道で培った完璧な着地。アルミ槍の石突を静かに床へつけ、葵は即座に後方の屋根へと視線を走らせる。理科室の割れた窓枠から感染者が這い出てくる気配は、まだない。
4人は、配膳用搬入ドアの前に集結した。
木製の頑丈な防炎仕様の引き戸。中央には真鍮製の重厚なレバーハンドルが付いている。
蓮は左腕の辞書防具を胸元に構え、右手で槍をいつでも突ける体勢に固定した。健太が小林を背負うようにして鉄パイプを引き絞り、葵がアルミ槍の穂先を側方の闇へと向ける。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




