第23話:容赦なき決断【2/2】
おかげさまで、月間ホラー〔文芸〕ランキングにランクインしました!
読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!
「……うおおおおおおおッ!!」
蓮の喉の奥から、己の魂を削り出すような怒号が迸った。
実験台に激突した加藤が、床に散乱したガラス破片をものともせず、両手の鉤爪を床タイルに突き立てた。
弾かれた鋼のバネのような奇怪な反動。血走った眼球が、再び蓮の姿を補食目標としてロックオンし、牙を剥き出しにして床を蹴り上げる、まさにその刹那――。
蓮は右足を前へ、力強く踏み込んだ。
ドンッ!
靴底がコンクリートの床を強く叩きつけ、床からの反発力を下半身の強靭なバネへと変える。
腰を極限まで低く落とし、左腕の辞書防具を胸の前に固く構えてカウンターの体勢を作る。
右手に握りしめた木柄の簡易槍――ホウキの硬い木柄に、分厚い裁ちばさみの鋼刃をガムテープとスチールワイヤーで何重にも巻きつけた、即席の白兵戦武器。その切っ先を、蓮は加藤の顔面へと引き絞った。
狙うべき急所は、1つだけ。
胸を突いても止まらない。手足を切り裂いても痛みを感じない。
感染者の活動を完全に停止させる唯一の手段――頭骨の底面に守られた、生命活動のすべてを司る脳幹。
「加藤ぉぉぉぉぉぉッ!!」
蓮は己の全存在、全体重、そして生き残るという揺るぎない覚悟をその切っ先に乗せ、木柄の槍を1直線に突き穿った。
『シュッ!』
夜の澱んだ空気を切り裂く、乾いた鋭利な1閃。
跳躍してきた加藤の顔面と、蓮の突き出した鋼刃が、暗闇の中で激突した。
そして――。
『ズドスッ……!!』
重く、鈍く、生々しい肉と骨の破砕感が、槍の柄を通じて両手の平へ、そして両肩から背骨へとダイレクトに突き抜けた。
裁ちばさみの分厚い鋼刃が、跳ね起きようとした加藤の開かれた顎の下――喉仏の直上にある柔らかい皮膚と筋肉を、躊躇なく深々と貫通した。
刃先は舌の根元を裂き、口腔の奥を突き破り、頭蓋底の骨をメキリと凄まじい音を立てて砕き割りながら、中枢神経の深奥へと達していた。
「……ガ……ッ……!?」
加藤の喉から、肺の空気が一気に漏れ出るような、微小な異音が漏れた。
その全身の動きが、糸の切れた操り人形のように、1瞬にして完全に停止した。
白濁し、血走っていた眼球から、猛烈な捕食者の狂気が嘘のように消え去っていく。
刃を通じて蓮の手元に伝わってくるのは、電気のスイッチが唐突に切られたかのような、絶対的な「無」の感触だった。
手足の筋肉から緊張が抜け、加藤の両手から力が失われてダラリと垂れ下がる。
「……引き抜くッ!!」
蓮は奥歯が砕けんばかりに噛み締め、突き刺した槍の柄を、1瞬の躊躇もなく力任せに手元へ引き戻した。
『ポンッ!』
肉と骨が外れる湿った嫌な音が、静まり返った理科室に酷く鮮明に響き渡った。
鋼刃が加藤の頭部から1気に引き抜かれ、傷口から黒ずんだ血液と体液の飛沫が、天井の遮光シートへ、そして床タイルへ激しく飛び散る。
ドサリ……ッ!
加藤の身体は、床の上に横たわる篠原の足元へと、顔面から崩れ落ちた。
指先が1度だけピクンと虚しく痙攣し――それきり、2度と動かなくなった。
沈黙。
鼓膜を圧迫するような、凄惨な静寂が第1理科室を包み込んだ。
外の校舎から響き続ける非常ベルの金切り声と、換気ダクトを通じて伝わってくる本棟火災の重い地鳴りだけが、遠く現実の残酷さを告げていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ……!」
蓮は槍の切っ先を血溜まりへと向けたまま、両膝に手をついて激しい呼吸を繰り返した。
全身の毛穴という毛穴から吹き出した汗が目に入り、焼けるように沁みる。手袋をはめた右手が、自らの意思とは無関係に、カタカタと激しく痙攣していた。
自分が、殺した。
昨日まで同じ教室で笑い合っていた友人の頭部へ、自らの手で刃を突き立て、その命を完全に終わらせたのだ。
皮膚を裂き、肉を押し広げ、骨を砕いたあの生々しい感触が、今も両手の平に焼きごてのようにこびりついて離れない。
ウプッ……!
胃の底から、猛烈な吐き気が1気にこみ上げてきた。
蓮は口元を手甲で固く押さえ、その場に深く屈み込んだ。胃液が喉元まで逆流し、酸っぱい苦汁が口内に広がる。
だが蓮は奥歯を強く噛み締め、涙を滲ませながら、それを強引に喉の奥へと呑み込んだ。
ここで吐き散らすわけにはいかない。
弱音を吐けば、足元から崩れ落ちて2度と立ち上がれなくなる。
自分が選んだのだ。仲間を生かすために、この手を血で汚す冷酷な決断を、自分自身の意思で下したのだから。
「日高……」
背後から、掠れた声が聞こえた。
健太が鉄パイプを力なく床に下ろし、蓮の隣へ膝をついていた。
その顔は、泥と涙と汗でぐしゃぐしゃに歪んでいた。唇を血が出るほど噛み締め、床に倒れ伏す加藤の遺体を見つめている。
「すまねえ……日高……。俺が……俺が呆けてたから……お前に、こんな役目を背負わせちまった……」
健太の声は、激しい慟哭に震えていた。
本来なら、サッカー部で1番の親友だった自分が引導を渡さなければならなかったはずなのだ。目の前にいたのは、自分と一緒にバカをやってきた加藤だった。それなのに、自分は恐怖と情に足がすくみ、鉄パイプを振り下ろすことすらできなかった。
その凄惨な重荷を、すべて親友である蓮に背負わせてしまった。その耐え難い自己嫌悪と罪悪感が、健太の頑丈な巨体を子供のように震わせていた。
「……謝るな、健太」
蓮は掠れた声で、静かに首を横に振った。
ゆっくりと立ち上がり、血の滴る槍の切っ先を、足元に落ちていた白衣の端で静かに拭い清める。鋼の刃が、薄緑色のライトを浴びて冷たく光った。
「お前が躊躇うのは当たり前だ。加藤はお前の親友だったんだからな。……責める気なんてこれっぽっちもない。だが、俺たちが生き残るためには、これしか道がなかったんだ。加藤が化け物に変貌したのも、俺たちがそいつを討たなきゃならなかったのも……全部、この狂った世界のせいだ」
蓮は床に倒れる加藤を見つめた。
理科室の床に伏した、かつての友人。
蓮はその傍らにしゃがみ込み、加藤の制服のポケットへそっと手を伸ばした。罪悪感を振り払うためではない。過酷なサバイバルを生き抜くために、使える物資があるかを確認するためだ。
ポケットから出てきたのは、小さな真鍮製の家の鍵と、安価な小型LEDライト。そして、買い食いしようとしていたのか、小さく折り畳まれた1000円札が1枚。
キーホルダーには、加藤が好きだったサッカーチームのエンブレムが、誇らしげに刻まれていた。
加藤が先ほど、猛烈な発熱に浮かされながらうわ言を漏らしていた姿が思い出される。
――『母ちゃん……寒いよ……。なんで、こんなに暗いんだよ……誰か、電気つけてくれよ……ッ!』
加藤もまた、家に帰りたかったのだ。
優しい母親の待つ自宅へ、温かい光の灯る場所へ、無事に帰りたかっただけの、ごく普通の17歳の高校生だったのだ。
「……持っていくぞ、加藤」
蓮は小型ライトと1000円札を自分のウエストポーチに収め、キーホルダーをそっと加藤の冷たくなり始めた胸元へ戻した。
「お前の分も……俺たちは絶対に生き抜く。絶対に、家族の待つ家へ帰る」
蓮の言葉に、虚飾も偽善もなかった。
今この瞬間にできる唯一の手向けは、彼らの死を無駄にせず、何としてでも生きてこの地獄を脱出することだけだった。
葵が、アルミ槍を杖のように突きながら、蓮の隣へと静かに歩み寄ってきた。
その瞳からは、もう涙は消えていた。自分が放った決死の1撃が蓮を救い、蓮の覚悟が全員の命を繋ぎ止めた。その冷酷な現実の重みを、彼女は静かに受け止めていた。
「日高くん……ありがとう。私を……みんなを守ってくれて」
「……葵が槍で弾いてくれなきゃ、俺が喉を裂かれてた」
蓮は葵の澄んだ瞳を見つめ返した。
「お互い様だ。……俺たちは、チームだ」
健太も手甲で顔の涙と鼻水を乱暴に拭い、立ち上がった。その瞳からは、少年らしい甘さが完全に削ぎ落とされ、過酷な現実を受け止めた戦士の光が宿っていた。
「おう……チームだ。俺たちは、絶対に誰も死なせない。日高だけに地獄を背負わせねえ」
小林も、床の上で必死に涙を拭い、包帯の巻かれた右足を引きずりながら、壁に背を預けて上半身を起こした。
「日高……ありがとう……。加藤を……化け物のまま暴れさせないでくれて、本当にありがとうな……。俺、足手まといだけど……絶対に生き残るよ。加藤のためにも……!」
4人は、互いに深く頷き合った。
容赦なき決断。かつてのクラスメイトを自らの手で葬り去るという、途方もない惨劇と罪悪感をその魂に刻みつけながら、それでも少年少女たちは立ち上がっていた。
「……よし。加藤の遺体を準備室へ移すぞ」
蓮は息を整え、周囲を見回して矢継ぎ早に指示を出した。
「床の血を白衣で拭き取って、薬品棚にある消臭剤やアルコールを撒くんだ。濃厚な血の匂いがスライド扉の隙間から廊下に漏れ出せば、外の奴らを刺激して一斉に引き寄せることになる。小林の足の包帯も巻き直して、次の防衛線を――」
蓮がそう言いかけた、まさにその瞬間だった。
『ピクッ……』
背後で、微小な、しかし決定的な異音が鳴った。
4人の身体が、同時に凍りついた。
蓮は息を呑み、視線を素早く床へと向けた。
実験台の脇、加藤に首の動脈を食いちぎられ、大量の血の海の中で倒れ伏していた篠原。
すでに息絶え、体温を失いかけていたはずの彼女の指先が、不自然な角度でピクンと痙攣していたのだ。
「……え……?」
葵の口から、掠れた息が漏れた。
『ビキッ……ゴキゴキッ……!』
篠原の細い首の骨が、人間には不可能な角度へと軋み音を立てて捩じれ曲がった。
首筋に穿たれた巨大な噛み傷――そこから、どす黒い蜘蛛の巣のような壊死した血管網が、目に見える猛烈な速度で彼女の白い顎へ、頬へ、そして額へと這い上がっていく。
体温は氷のように冷たく失われていくのに、浮き上がった毛細血管だけが、異常な拍動を狂ったように刻んでいた。
(嘘だろ……もう発症するのか……!?)
蓮の脳裏に、氷のような戦慄が走った。
小林は、感染者の体液がついたガラス破片で足を深く切られてから、発症に至るまでに数時間の潜伏時間があった。手足の末梢血管からウイルスが全身を巡るまでには、一定のタイムラグが存在していたのだ。
だが、篠原は違う。
首の太い頚動脈を直接牙で食いちぎられ、怪物の唾液と体液が、高圧の血流に乗って一瞬で心臓へ、そして脳へと送り込まれたのだ。
血液への直接注入による、超急速発症。
潜伏期間など、最初から存在しなかったのだ。
「シ……篠原さん……!?」
小林が、信じられないものを見るように悲鳴を上げた。
『ア……ガ……ッ……オエェェッ……!!』
篠原の口から、どす黒い血液の泡が激しく床へと吐き出された。
その両目が、カッと見開かれる。
白目は毛細血管の破裂によって真っ赤に染まり、瞳孔は光を拒絶するように針の穴ほどに小さく収縮していた。
人間としての篠原は、すでに死んだ。
目の前に横たわっているのは、今まさに産声を上げた、飢餓と殺戮の怪物だった。
『ギシャァァァァァァァッ!!』
女子生徒の面影を完全に破壊した狂乱の絶叫が、密閉された理科室の壁を震わせて爆発した。
床に手足をつけた異様な前傾姿勢から篠原が、血の海を蹴立てて飛びかかろうと地を蹴る。
さらに、その絶叫に呼応するように――。
ドドドドドッ!!
ガシャアアアアアンッ!!
理科室の外――特別棟2階の廊下の暗闇から、無数の地響きのような足音が怒涛の勢いで押し寄せてきた。
室内に満ちた濃厚な血の匂いと、篠原の上げた凶悪な咆哮に引き寄せられ、校舎中を徘徊していた感染者たちの群れが、一斉に理科室の前へと殺到したのだ。
ズズズンッ!!
外側から、数10体もの怪物の身体が、スライド扉へと激しく叩きつけられた。
人造大理石の実験台がきしみ、教卓が数センチ押し戻される。
床に打ち込んだ木製丸椅子の楔が、凄じい質量によって悲鳴を上げて軋み始めた。
「バリケードが……もたねえぞッ!!」
健太が鉄パイプを構え直し、絶叫した。
内側には、血に狂って立ち上がる新たな感染者・篠原。
外側には、扉を突き破らんとする無数の怪物の大群。
彼らが心血を注いで築き上げた絶対の要塞が、今、内と外の両側から、音を立てて崩壊しようとしていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。
ぜひ、この下にある「評価」で★をつけて応援してください!
これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




