第22話:発熱と変貌【2/2】
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「加藤くん!!」
篠原が悲鳴を上げた。
加藤は冷たい床の上に突っ伏したまま、まるで呼吸困難に陥った魚のように身体を激しく打ち震わせていた。両手で自らの喉元を掻き毟り、爪が制服の襟首を引き裂く。
「カハッ……! ゲホッ……オエェッ……!!」
猛烈な咳き込みとともに、加藤の口からドバッと、どす黒い血液の泡が床タイルへと吐き出された。生臭い鉄の匂いが、理科室の澱んだ空気を一気に支配する。
「血を……吐いた……!?」
健太が鉄パイプを両手で握り直し、息を呑んだ。
葵もアルミ槍を胸元に引き絞り、顔を蒼白にして息を詰める。
床で眠っていた小林も異様な物音に目を覚まし、激痛の走る右足を引きずりながら上半身を起こした。
「加藤……? おい、加藤……! どうしたんだよ……!?」
「加藤くん! しっかりして!!」
篠原は、蓮と葵の制止を完全に振り切って駆け出してしまった。
理科室で加藤を疑い、仲間同士で刃を向け合ったことへの罪悪感。そして、小林を命がけでここまで引きずってきてくれた親友を、見殺しになどできないという無垢な善意が、彼女の足を突き動かしていた。
「篠原、止まれ!!」
蓮が怒鳴り、即座に手を伸ばした。
「離れろ! そいつに触るな!!」
「嫌だよ! 加藤くんは私たちを助けてくれたんだよ! こんな時に見捨てるなんてできないよ!!」
篠原は叫びながら加藤の傍らに膝をつき、床に倒れ伏す加藤の肩を抱き起こそうとした。
「加藤くん! 聞こえる!? 目を開けて! 私だよ、篠原だよ!」
篠原の手が、加藤の熱狂した身体に触れた。その瞬間、篠原は息を呑んだ。手のひらを通じて伝わってくるのは、尋常な人間の体温ではなかった。まるで煮えたぎる熱湯のような、恐ろしい熱気が布地越しに伝わってきたのだ。
「あ……つ……い……」
加藤の喉から、声帯が裂けたような異音が漏れた。
「加藤くん……?」
篠原が、すがるような瞳で加藤の顔を覗き込んだ。
その、ほんの1瞬の隙だった。
ビキ、ビキッ……と、加藤の首筋の骨が不自然な角度へ捩じれ曲がった。加藤の身体が、弓のように激しく反り返る。
「ガハッ……ッ!?」
再び吐き出されたどす黒い血液の飛沫が、篠原の胸元と頬に生々しく飛び散った。
そして――加藤の両目が、カッと見開かれた。
その眼球を至近距離で捉えた瞬間、篠原の全身の血が凍りついた。
それは、もう人間の目ではなかった。
白目部分は毛細血管が完全に破裂し、どす黒い鮮血の色に染まりきっている。そして、瞳孔は収縮し、光を拒絶するように針の穴ほどに小さく収縮していた。
人間としての理性、感情、記憶、知性――そのすべてが、体内で燃え盛る未知のウイルスによって焼き尽くされた証拠だった。
(発症した……!)
蓮の全身の毛穴が逆立ち、視界がスローモーションのように引き延ばされる。
「篠原ッ!! 逃げろぉぉぉッ!!」
蓮は床を蹴り、木柄の槍を構えて全力で突進した。
健太も「篠原ぁッ!!」と絶叫し、鉄パイプを振り上げて駆け出す。
だが――すべてが遅すぎた。
『ギシャァァァァァァッ!!』
加藤の口から、人間の声帯を完全に破壊したような、狂乱の野獣の咆哮が迸り出た。
床に手足をついた低い姿勢から、加藤の身体が弾けた。人間としての筋肉のリミッターが完全に外壊した、爆発的な跳躍。
厚手の手袋をはめた両手が、蜘蛛のような奇怪な速さで篠原の両肩を鷲掴みにし、その華奢な身体を床へと力任せに押し倒した!
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
篠原の絶望の悲鳴が、密閉された理科室の壁をビリビリと震わせた。
「離せッ! 加藤、離れろぉッ!!」
突進する蓮が槍を突き出そうとする。しかし、加藤は倒れ込んだ篠原の上に完全に覆いかぶさり、蓮の間合いの内側へと密着していた。ここで槍を突き出せば、下にいる篠原の身体ごと貫いてしまう。
加藤は、顎が外れんばかりに口を巨大に開いた。剥き出しになった歯列。その隙間から、ドロリとした血混じりの唾液が糸を引いて垂れ落ちる。
ターゲットは、助けを求めて自らの身体を抱き起こそうとしていた篠原の、無防備な『首筋』だった。
「嫌……嫌ぁぁぁぁッ!!」
篠原が両腕で必死に押し返そうとした。しかし、人間としての痛覚も筋力制限も失った感染者の膂力は、女子高生の腕力など紙切れ同然にねじ伏せた。
加藤の顎が、容赦なく振り下ろされる。
『ブチリッ……!!』
生々しい、肉と皮膚が引きちぎられる不快な破壊音が、理科室の漆黒の中に凄惨なまでに響き渡った。
『ギャアアアアアアアアアアアッ!!!』
篠原の絶叫が、鼓膜を劈いた。
加藤の牙が、篠原の柔らかな首筋へと深々と食い込み、肉を食いちぎったのだ。
頚動脈が破裂し、そこから鮮血が噴水のように勢いよく噴き上がった。
吹き飛んだ血飛沫が、理科室の天井の遮光シートと、薬品棚のガラス戸を真っ赤に染め上げる。
加藤は、口内に溢れ出る同級生の温かい生き血を貪り食らいながら、さらに肉を削ぎ落とそうと、首を獣のように左右へ激しく狂振させた。
『クチャ……クチャ……ゴボッ……!』
篠原の悲鳴は、わずか数秒で気管に血が溢れ返った溺れるような泡音へと変わり、両脚がガクガクと激しく痙攣し始めた。その澄んでいた瞳から、急速に光が失われていく。
「篠原……さん……!?」
後方にいた葵が、アルミ槍を取り落としそうになりながら、その地獄の光景を直視したまま絶句した。
床に横たわっていた小林は、足の激痛をこらえながら必死に上半身を支え、震える声で叫び続けていた。
「加藤……! 頼むよ、加藤……! 冗談だろ……!? お前、俺を助けてくれたじゃないか! 一緒にサッカーの大会目指して、放課後あんなに走ったじゃないか……! なんでだよ……なんでこんなことになっちまうんだよ……ッ!!」
小林の頬を、止めどなく大粒の涙が濡らしていた。中学からずっと一緒だった親友。誰よりも元気で、誰よりもバカをやっていた加藤。その加藤が、自分の目の前で人ならざる怪物へと変貌し、自分たちを助けようとしてくれた篠原に食らいついている。その悪夢のような不条理が、小林の心を容赦なく叩き折っていた。
「加藤ぉぉぉぉぉぉッ!!」
健太の怒号が、理科室の闇を切り裂いた。
さっきまで一緒に逃げ延び、互いの無事を喜び合い、家族の元へ帰ろうと誓い合ったクラスメイト。その少年が、今、獣と化して別のクラスメイトの首に食らいつき、その血肉を貪っている。
理科室の中に、立ち込める濃厚な血の臭気。床を満たしていく、篠原の鮮血の池。
蓮の視線は、血に濡れる篠原の首元に釘付けになっていた。
噛み裂かれた巨大な傷口。そこに付着しているのは、篠原自身の血液だけではない。変貌した加藤の口腔内に溢れていた、あの感染者の体液と血混じりの唾液が、破れた動脈から体内へと直接侵入している。
首の創傷から、どす黒い筋のような血管が蜘蛛の巣のように浮かび上がり、急速に彼女の顔面や胸元へと広がり始めていた。体温が急速に失われていく一方で、額や首筋の血管だけが異常な拍動を刻んでいる。
(これが……父さんの言っていた、最悪の感染爆発の現実か……!)
蓮は歯が砕けんばかりに噛み締め、木柄の槍を両手で握り直した。
かつて父は言っていた。生物兵器や狂犬病のような劇症型の病原体において、最も脅威なのは「密室における感染者の発症」だと。1度感染者が牙を剥けば、閉鎖空間の中にいる者は逃げ場を失い、パニックと流血の連鎖によって短時間で全滅する。
今、まさにその悪夢がこの第1理科室で現実のものとなっていた。
(血液への直接注入……!)
蓮の脳内で、恐るべき感染の真実が結びついた。
加藤は腕の前腕部を噛まれてから、発症に至るまでに数時間の潜伏時間があった。末梢の血管からウイルスが中枢へと達するまでに、一定のタイムラグが存在していたのだ。
しかし、篠原は違う。首の太い頚動脈を直接牙で食いちぎられ、感染者の唾液と体液が、高圧の血流に乗って一気に全身へ送り込まれた。
この直接注入による感染の進行速度は、腕や足の傷とは比較にならない。
篠原の瞳から、人間としての意思の光が急速に消え去っていく。瞳孔が限界まで開き、白目が血の赤で染まっていく。ガクガクと全身の骨が不自然な軋み音を立て始め、口からどす黒い血液の泡が溢れ出した。わずか数分……いや、数10秒のうちに、彼女もまた理性を失った狂気の怪物へと変貌を遂げてしまう。
『ガフッ……グルルルルル……ッ!!』
口元を真っ赤に染め、噛みちぎった肉片を咀嚼しながら、変貌した加藤がゆっくりと顔を上げた。血塗られた顎から滴る鮮血。白目を剥き、完全に理性を失った怪物の視線が、突進してきた蓮と健太、そして床に這う小林と葵の姿を、次なる獲物として捉えた。
「来るぞ……!!」
蓮は木柄の槍を力任せに構え直し、叫んだ。
「構えろ! そいつはもう加藤じゃない!!」
逃げ場のない密閉された理科室の中で、かつての友が怪物と化し、血塗られた牙を剥いて飛びかかろうとしていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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