第22話:発熱と変貌【1/2】
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非常ベルの無機質な金属音は、絶え間なく鼓膜を打ちのめし続けていた。
特別棟2階・第1理科室の密閉された暗闇の中、壁掛け時計の秒針だけが、カチ、カチ、と冷酷に時を刻み続けている。
針は深夜2時を回っていた。
小林たち3人が逃げ込み、加藤の右腕に刻まれた噛み傷をめぐって張り詰めた対立が起きてから、すでに数時間が経過していた。
外の本棟で燃え広がる猛火の地鳴りや、窓ガラスが爆砕する乾いた破壊音が、壁や床のコンクリートを通じて足裏にじりじりと伝わってくる。換気扇のダクトや窓枠の隙間からは、焼け焦げた建材と肉の焼けるような生々しい異臭が微かに漂い込み、室内の空気を重苦しく澱ませていた。
理科室の中央、実験用の白衣や分厚いカーテンを敷き詰めた床の上では、右足に深いガラス裂傷を負った小林が、激痛と極度の疲労に耐えかねて浅い眠りに落ちていた。蓮が施した蒸留水での洗浄と伸縮包帯による圧迫止血によって、新たな出血はひとまず抑えられている。そのすぐ横には、極度の緊張と恐怖でやつれきった篠原が体育座りで寄り添い、祈るように小林の手を両手で包み込んでいた。
教卓の陰では、葵がアルミ柄の簡易槍を胸元に抱きかかえるようにして座り込み、じっと息を潜めている。その澄んだ瞳は眠気に屈することなく、暗闇の中で時折不安げに揺れ、廊下側のスライド扉と部屋の奥の暗がりを交互に見つめていた。
そして、スライド扉から最も遠い準備室側の壁際。
パイプ椅子に深く腰掛け、仲間たちから隔離された加藤が、1人暗闇の中に沈んでいた。
蓮は部屋の中央、教卓の前に立ち、手にした木柄の簡易槍の切っ先を、加藤の座る壁際へ向けて低く構え続けていた。左腕には国語辞典と現代文の教科書をガムテープで固めた防具。腰のベルトにはサバイバルナイフ。その横では、鉄パイプを杖のように床についた健太が、血走った目で加藤の動向をじっと監視している。
「……日高、少し目を閉じろよ」
健太が、己の呼気さえ殺すような極小の囁き声で蓮に耳打ちした。
「俺が見張ってる。お前、さっきから1睡もしてねえだろ。この先、何が起きるか分からねえんだ。体力を少しでも残しとかねえと、いざって時に身体が動かねえぞ」
「……いや、眠れない」
蓮は視線を加藤から1ミリも逸らさずに、静かに首を横に振った。
「あいつの様子が、さっきから明らかに悪化してる」
健太が痛ましげに眉をひそめ、加藤の方へと視線を凝らした。
小型LEDライトの微弱な間接光に浮かび上がる加藤の姿。
数時間前、右腕の傷を葵に指摘され、隔離を命じられた直後は「なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないんだ」と不満をぶつけ、強がってみせていた加藤だった。しかし、深夜を過ぎた頃から、その強がりは完全に消え去り、身体には目に見えて異様な変貌が現れ始めていた。
パイプ椅子の上で、加藤は小刻みに、しかし激しく全身を震わせていた。
額や首筋からは、まるでバケツの水を頭から浴びたかのような大量の汗がとめどなく噴き出し、制服のシャツは肌にべったりと重く張りついている。全身は、冷え切った理科室の空気に晒されているにもかかわらず、まるで風呂上がりのように湯気を立てていた。
その肌の色は、健康的な血色を完全に失っている。皮膚の下を走る毛細血管が限界まで拡張し、まるで熱湯で茹で上がったかのような、赤黒くどす黒い鬱血が首元から顔面へと広がっていた。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ……!」
浅く、速く、異常なまでに促迫した呼吸音。
荒い呼気が吐き出されるたび、加藤の口元から白く熱い蒸気が立ち上るのが見えるほどだった。
体温が、人間の生理的な限界を超えて急上昇しているのだ。
(猛烈な高熱……。やはり、体内で何かが急速に増殖している……)
蓮の胸の奥で、凶悪な警報がガンガンと鳴り響いていた。
父の遺した言葉が、再び脳裏をよぎる。
『非常事態において、最も恐ろしいのは敵ではなくパニックを起こした味方だ。感染の疑いのある者を情けで集団に入れるな。全員が全滅する』
葵が見たあの右腕の傷痕――半円を描く赤黒い歯型。
加藤は「机の角にぶつけた」と言い張り、袖を捲ることを拒絶した。だが、目の前で起きているこの異常な発汗と呼吸、そして急激な体温の上昇は、単なる打撲や風邪などで説明がつくはずもなかった。
感染者の唾液に含まれる未知の病原体が、加藤の血管を通じて全身を巡り、中枢神経を、そして人間としての理性を内側から焼き尽くそうとしているのだ。
かつての蓮なら、こんな極限の状況に直面すれば、面倒を避けて逃げ出していたはずだった。事なかれ主義で、責任を背負うことを極端に嫌っていた自分。しかし今、蓮の背中には、自分を信じて背中を預けてくれる葵と健太がいる。そして、傷つき怯える小林や篠原がいる。
自宅で待つ母と妹の結衣の元へ生きて帰り着くためにも、誰かが冷徹に現実を見据え、一線を画さなければならない。油断すれば、この狭い密室は1瞬で逃げ場のない屠殺場へと変わるのだ。
「う……あ……ッ……あつい……」
不意に、加藤の喉の奥から、乾いた砂を擦り合わせるような異様な唸り声が漏れ出した。
両手は激しく震え、指先が狂ったように自らの頭髪を掻き毟る。
「小林……パス……出せよ……。俺、走ってるだろ……」
譫妄状態に陥った加藤の口から、途切れ途切れに過去の記憶がこぼれ落ちる。意識はすでに混濁し、現実と悪夢の境界線が完全に崩壊していた。
「母ちゃん……寒いよ……。なんで、こんなに暗いんだよ……誰か、電気つけてくれよ……ッ! 体が……焼ける……ッ! 頭が……割れる……ッ!!」
その声は、暗闇に怯える幼い子供のようだった。
普段はお調子者で、クラスでも率先して冗談を言っては周囲を笑わせていた加藤。サッカー部の練習では誰よりも声を出し、小林と肩を組んで部室へ戻っていたあの少年が、今、未知の病魔に身体の芯から焼き尽くされ、激痛に身悶えている。
加藤は両手で自らの頭を抱え込み、ガタガタとパイプ椅子を激しく揺らした。その手には、蓮が渡した防刃用の厚手革手袋がはめられたままだ。革の指先が、自らの頭髪を引きちぎらんばかりに掻き毟り、頭皮を激しく擦り上げる。
健太が、鉄パイプを握る手に爪が白くなるほど力を込め、苦痛に顔を歪めた。
「……なぁ、日高」
健太の掠れた声が、震えていた。
「本当に……本当にあいつ、助からねえのかよ。何か……何か薬とかねえのかよ。熱冷ましとか、胃薬とか……理科室の薬品棚に、なんか効くもんがねえのか……!?」
健太の胸の中にも、同級生を見殺しにすることへの凄まじい罪悪感が渦巻いていた。自分たちだけが武器を持ち、安全な場所に立ち、苦しむ仲間を壁際に隔離して槍を向けている。その構図そのものが、健太の優しい心を容赦なく切り刻んでいた。
「ない」
蓮は感情を完全に押し殺した声で、首を横に振った。
「これは病気や風邪じゃない。ウイルスの感染だ。現代の医学ですら解明されていない病原体が、あいつの脳を侵食してるんだ。解熱剤を飲ませたところで、進行を1秒遅らせることすらできない」
蓮の言葉は、氷のように冷たく、そして絶対的な真実だった。
父の教えが、冷徹な刃となって蓮の思考を支えていた。
『同情と生存は両立しない。危機的状況において、希望的観測で判断を下すリーダーは、敵よりも先に味方を殺す』
蓮自身、胸が張り裂けそうだった。目の前で苦しんでいるのは、昨日まで同じ教室で机を並べていた仲間なのだ。助けられるものなら、今すぐにでも駆け寄って介抱してやりたい。だが、自分たちが踏み外せば、この理科室にいる全員が死ぬ。その冷酷な現実から目を逸らすことは許されなかった。
「加藤くん……?」
床に座っていた篠原が、弾かれたように顔を上げた。
暗がりの中、苦しげに身悶えする加藤の姿を見て、篠原の瞳に激しい動揺と憐憫が走る。
「日高くん、加藤くんが……! ものすごく苦しそうだよ……!」
篠原が立ち上がりかけ、蓮へ向かって悲痛な声を上げた。
「動くな、篠原!」
蓮は槍の切っ先をわずかに動かし、低い、しかし絶対的な命令の響きを込めて制した。
「席を立つな。近づいてはいけない」
「でも……! あんなに苦しんでるのに……! 熱があるんじゃないの!? お水くらい飲ませてあげなきゃ……!」
「ダメだ。あいつはもう、熱冷ましでどうにかなる状態じゃない」
蓮の声は冷徹だった。冷酷になりたくてなっているのではない。ここにいる全員の生存を背負う者として、感情に流されるわけにはいかなかった。
「そんな……! 加藤くんは小林くんを助けてくれたんだよ!? ここまで一緒に逃げてきた仲間じゃない! なんでそんなに冷たくできるの!?」
篠原の目から大粒の涙が溢れ出した。
理科室に逃げ込んできた直後、蓮たちに疑われ、槍を向けられたことへの恐怖と反発。そして、自分たちのために危険を冒してくれた親友が苦しんでいるのを目の当たりにして、彼女の心は限界を迎えていた。
加藤と小林、そして篠原。3人は同じ2年B組で、平和だった日常の中でいつも笑い合っていた仲間たちだった。昇降口でガラスが割れ、感染者が雪崩れ込んできたあの阿鼻叫喚の瞬間、加藤は足の動かない小林を見捨てることなく、必死に肩を貸してここまで引きずってきたのだ。篠原にとって、加藤は命の恩人であり、この地獄の中でしがみつける唯一の希望だった。
「篠原さん、落ち着いて……!」
葵が立ち上がり、篠原の肩を後ろから抱きとめた。
「日高くんは、私たち全員を守るために言ってるの。加藤くんの様子を見て……普通の熱じゃないよ」
「葵ちゃんまでそんなこと言うの……!? 加藤くんは人間だよ! 私たちのクラスメイトだよ!!」
篠原は叫び、葵の手を力任せに振りほどいた。
その時だった。
「……あ……がぁッ……!!」
突然、加藤の身体が激しく痙攣した。
膝の力が完全に抜け、パイプ椅子から転がり落ちるようにして、コンクリートの床へと崩れ落ちたのだ。
ドサッ、という鈍い衝撃音が室内に響く。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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