第21話:隠された傷【2/2】
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「葵ちゃん、酷いよ……!」
篠原が涙を溢れさせながら、加藤の前に立ちはだかるようにして葵を遮った。
「加藤くんは小林くんを助けてくれたの! 加藤くんがいなかったら、私たちとっくに殺されてた! それなのに、助けてもらった仲間を化け物扱いするなんて……そんなのあんまりだよ!」
新しく逃げ込んできた仲間たちの間に、激しい動揺と怒りが爆発する。
だが、その騒ぎの真ん中へ、静かに、そして圧倒的な威圧感をもって蓮が割り込んだ。
ザッ、と床を踏みしめる乾いた足音。蓮は木柄の簡易槍を水平に構え、その切っ先を加藤の胸元の高さでピタリと静止させていた。
「騒ぐな」
蓮の声は、氷点下の冷気を帯びていた。
「大声を出すなと最初に言ったはずだ。廊下にいる奴らに位置を悟られたいのか」
「日高……!」
加藤が後ずさりし、背中を薬品棚のスチール枠に強くぶつけた。
「お前まで……! 槍なんか向けるなよ! 俺たち仲間だろ!? 2年B組の仲間じゃないか!」
「仲間だからこそ、確認する」
蓮の視線は、寸分の揺らぎもなく加藤の瞳を射抜いていた。
「袖を捲れ、加藤」
「嫌だ……! なんで見せなきゃいけないんだよ!」
加藤は背中に腕を回したまま、頑なに首を振った。
「さっき小林の足を見た時は、ガラスの傷だって分かって手当てしてくれたじゃないか! なんで俺だけそんな風に犯人みたいに扱われなきゃいけないんだ!」
「小林は自分からズボンを破いて傷を見せた。やましいところがないからだ」
蓮は槍の切っ先を1ミリも動かさずに告げた。
「葵の動体視力と間合いの感覚は確実だ。弓道をやってる葵が、至近距離で傷の形を見間違えるはずがない。本当に机の角にぶつけただけなら、今ここで袖を捲って見せれば済む話だ。なぜそこまで頑なに隠す?」
「それは……っ、お前らが疑うからだろ! 見せたら、言いがかりをつけて俺を追い出す気なんだろ!?」
「噛まれていなければ追い出しはしない」
蓮は冷徹に言い放った。
「だが、もしそれが感染者の歯型なら――話は別だ。さっきも言ったはずだ。噛まれた人間は、早ければ数分、長くても数10分で理性を失い、凶暴な怪物へと変貌する。1人でも感染者をこの密室に紛れ込ませれば、ここにいる6人全員が全滅するんだ」
「日高の言う通りだ、加藤」
健太が鉄パイプを低く構え、加藤の逃げ道を塞ぐように横へと回り込んだ。その表情にはいつものひょうきんさは微塵もなく、苦渋に満ちた厳しい眼差しが浮かんでいた。
「俺だって、お前を疑いたくはねえよ。一緒にバカやってた同級生なんだからな。だがな、これは俺たちだけの問題じゃねえんだ。小林や篠原を守るためでもあるんだよ。頼むから……腕を見せてくれ」
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ!」
加藤は完全にパニックに陥り、涙と鼻水を顔中に撒き散らしながら絶叫に近い声で拒絶した。
「見せない! 絶対に見せない! 俺は正常だ! 意識だってこんなにはっきりしてる! どこも痛くないし、熱だってない! 俺は人間だ! 化け物なんかじゃないんだよ!!」
加藤の必死の叫びが、理科室の重苦しい静寂を激しく切り裂く。篠原が葵の手を振りほどき、加藤の身体を庇うように抱きついた。
「もうやめてよ! 加藤くんはこんなに怯えてるじゃない! もし追い出すなら、私と小林くんも一緒に出ていく! こんな冷たい人たちと一緒にいられないよ!」
「篠原さん、待って……! そういうことじゃないの……!」
葵が必死に制止しようと手を伸ばすが、篠原は拒絶するように背中を向けた。小林も、激痛の走る右足を引きずりながら、必死に上半身を起こそうとする。
「日高……頼むよ……! 加藤を信じてやってくれ! あいつは俺を助けるために、昇降口のガラスが割れた時も体を張ってくれたんだ! あいつが噛まれるわけないんだよ……!」
室内は、決定的な亀裂と緊張によって張り詰めていた。
新しく逃げ込んできた加藤、篠原、小林の3人と、この拠点を守ってきた蓮、健太、葵の3人。極限状態の中で生じた疑心暗鬼が、互いの信頼を根底から引き裂こうとしていた。
蓮は、槍を構えたまま、加藤の全身をつぶさに観察した。
(……おかしい)
蓮の鋭い観察眼が、加藤の身体に現れている微細な異変を冷徹に捉えていた。
加藤の額や首筋から噴き出す、異様なまでの量の汗。単なる恐怖や緊張による冷や汗にしては、異常なほど肌が不気味にテカり、制服のシャツの襟元がぐっしょりと重く濡れている。呼吸が、浅く、そして異様に速い。胸元を激しく上下させ、まるで体内で燃え盛る見えない猛熱を必死に体外へ放出しようとしているかのような、不自然な過呼吸。さらに、怒鳴り声を上げる加藤の瞳。その瞳孔が時折かすかに散大し、視線の焦点がわずかに合わなくなっていた。
机の角にぶつけた傷などではない。加藤のあの異常な狼狽ぶり、そして身体から無意識に発せられている拒絶反応のサイン。葵が見たものは間違いなく、感染者の歯列が皮膚を食い破った痕跡だ。
(あいつは……噛まれている)
蓮の胸の奥で、氷のように冷たい確信が固まった。
昇降口のパニックの中で小林を助けた際か、あるいは廊下を逃げてくる途中で、感染者の牙を腕に受けたのだ。加藤自身、それが何を意味するかを本能で察知しているからこそ、死に物狂いで隠そうとしている。
だが――今ここで、無理やりに力づくで加藤を取り押さえ、袖を剥ぎ取ったらどうなるか。
加藤は完全に錯乱している。必死に抵抗して暴れ回れば、篠原が取り乱してバリケードへ突っ込むかもしれない。床に横たわる小林を巻き込み、せっかく止血した足の傷口を再び破裂させる危険もある。何より、この暗闇の閉鎖空間で武器を持った人間同士が乱闘を起こせば、その騒音で廊下や外の感染者を呼び寄せてしまう。
蓮は奥歯をギリッと噛み締めた。
現時点で、加藤はまだ人間の言葉を話し、理性を保っている。完全に発症して牙を剥く前の人間を、確証の開示がないまま槍で突き殺すことは、今の蓮にはできない。それは防衛ではなく、ただの虐殺になってしまうからだ。
「……わかった」
蓮は静かに息を吐き出し、構えていた簡易槍の切っ先を、ゆっくりと床へ下ろした。
「日高……?」
健太が驚いたように蓮を見た。葵も痛ましげに息を呑む。加藤は薬品棚に背を預けたまま、警戒を解かずに蓮を睨みつけていた。
「腕を無理に暴いて見せろとは言わない」
蓮の声は極めて低く、冷徹な響きを保っていた。
「だが、お前を無条件で信用することもできない」
蓮は理科室の奥、スライド扉から最も遠い準備室側の壁際を指差した。
「加藤。今夜、お前はあの壁際の椅子に座って過ごせ。小林や篠原の近くには行くな。そして、渡した革手袋は朝まで絶対に外すな。制服の袖も捲るな」
「な……なんで隔離されなきゃいけないんだよ!」
加藤が不満の声を上げようとしたが、蓮はその言葉を鋭い眼光で遮った。
「これが俺たちの譲歩できる絶対の限界線だ」
蓮は1歩前に踏み出し、加藤を見据えた。
「仲間を疑いたくないなら、仲間を危険に晒さない行動で証明しろ。もし席を立って小林や篠原に近づこうとしたり、不審な動きを見せたら、その時は問答無用で槍を突き立てる。……いいな?」
その冷酷なまでの威圧感に、加藤はゴクリと唾を呑み込み、反論の言葉を喉の奥に呑み込んだ。
「……わかったよ。あっちに座ればいいんだろ、あっちに……!」
加藤は右腕を抱え込むようにして、足早に理科室の奥の壁際へと移動し、パイプ椅子に乱暴に腰を下ろした。
篠原が心配そうに加藤の元へ駆け寄ろうとしたが、蓮が静かに手を出して制した。
「篠原。お前は小林のそばにいてやれ。小林の足には手当てが必要だ」
「でも……!」
「日高くんの言う通りにして、篠原さん」
葵が静かに、しかし毅然とした態度で篠原の肩に手を置いた。
「私たちも、加藤くんを信じたい。だからこそ……今は距離を置くのが一番安全なの」
篠原は唇を噛み締め、悔しそうに涙を拭いながら、小林の横へと戻っていった。
「健太」
蓮は小声で健太を呼び寄せた。
「なんだ、日高……? 本当にあいつ、大丈夫なのか……?」
健太が不安げに眉をひそめ、耳元で囁く。
「大丈夫なはずがない」
蓮は健太にだけ聞こえる極小の囁き声で告げた。
「葵の目は確かだ。それに、あいつの呼吸と汗の量は異常だ。体内で何かが確実に始まっている」
健太の顔から血の気が引いた。
「じゃあ……なんであいつをあのまま……!」
「今ここで暴れさせたら、小林の傷口が開くか、理科室の中がパニックになってバリケードが崩れる。あいつが完全に化け物に変貌する前に、こちらから手を下すわけにはいかない」
蓮は手にした槍の柄を強く握り直した。
「俺と健太で、交代で見張る。加藤の呼吸、発汗、瞳の動き……1秒たりとも目を離すな。もしあいつが倒れるか、理性を失って襲いかかってきたら――その瞬間に、俺たちが確実に仕留める」
「……わかった。俺が先に起きて見張るぜ」
健太は鉄パイプを強く握りしめ、重く頷いた。
理科室の中に、再び沈黙が降りてきた。
しかし、それは先ほどまでの安堵に満ちた静寂とは全く異なる、全員の神経を針の先で突くような、重苦しく冷酷な静寂だった。
部屋の隅、パイプ椅子に深く腰掛けた加藤。彼は暗闇の中で膝を抱え、荒い息を繰り返しながら、時折激しく身体を震わせていた。額からは絶え間なく汗が流れ落ち、その呼吸音は時間の経過とともに、次第に熱を帯びた湿り気を帯び始めている。
中央の床では、小林が痛みに耐えながら毛布にくるまり、篠原がその手を握りしめている。葵はアルミ槍を膝の上に置き、暗闇の奥に座る加藤の姿を、悲痛な眼差しで見つめ続けていた。
カチ、カチ、カチ……。
壁掛け時計の秒針が、無機質に時を刻む音だけが室内に響く。外の非常ベルの金切り声と、遠い爆発音。
蓮は壁に背中を預け、手にした槍の切っ先を加藤の方角へと向けたまま、静かに息を潜めた。胸の奥で、ドクドクと警鐘が鳴り響いている。
小林のガラス傷は塞がった。しかし、この密閉された要塞の中に、すでに『死のカウントダウン』が持ち込まれてしまったことは明白だった。
もし、あの腕の傷が感染の牙痕であるならば――。体内に注入された毒が理性を焼き尽くし、凶暴な変貌を遂げるまでの猶予は、もう数時間も残されていない。
張り詰めた闇の中、少年たちは誰も眠ることのできない、悪夢のような夜の底へと沈んでいった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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