第21話:隠された傷【1/2】
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床に置かれた小型LEDライトが放つ淡い薄緑色の光の輪が、密閉された第1理科室の冷たい闇をぼんやりと切り取っていた。
人造大理石の実験台と重厚な教卓を隙間なく積み上げたバリケード。分厚い遮光シートで完全に塞がれた窓。
外のバイパス道路を焼き尽くす炎の赤光も、黒煙の臭気も、この閉ざされた空間の内側には届かない。だが、途絶えることなく校舎の遠くから響き続ける非常ベルの金属音だけが、壁や床のコンクリートを通じて足裏に微細な震動を伝え、ここが依然として死の淵にあることを容赦なく突きつけていた。
小林の右足の処置を終えた蓮は、手についた消毒液を清潔な布で拭い、静かに立ち上がった。
実験用の白衣やカーテンを敷き詰めた床の上では、激痛と極度の疲労に耐えかねた小林が浅い息を繰り返している。その傍らには、過呼吸気味に肩を震わせる篠原が寄り添い、祈るように小林の手を両手で握りしめていた。
そして、その数歩後ろ――暗がりの中にしゃがみ込み、制服の右袖をかばうように握りしめていた加藤が、蓮の視線に気づいて小さく肩を跳ねさせた。
「……みんな、少し落ち着いたか」
蓮は光量を極限まで絞ったライトの輪を足元に向け、低く抑えた声で語りかけた。
「小林の傷の止血はできた。だが、油断は禁物だ。長丁場になるぞ。外のバイパスもショッピングモールも、今は火の手と感染者の群れで完全に封鎖されている。夜が明けるか、あるいは奴らの狂乱が鎮まるまで、俺たちはこの理科室で体力を温存し、機を待つしかない」
「ああ……本当に助かったよ、日高」
加藤が床からゆっくりと立ち上がり、汗まみれの顔を袖口で乱暴に拭いながら力なく笑ってみせた。
「あのまま廊下にいたら、小林も俺たちも確実に追いつかれて食われてた。お前らがこの部屋にいてくれて……バリケードを開けてくれて、本当によかったよ」
「小林、傷口は痛むか」
蓮が低く問いかけると、小林は額の冷や汗を拭いながら、力なく唇を震わせた。
「……ズキズキするけど、止血してもらえたおかげで、さっきよりずっとマシだよ。日高、本当にありがとうな……。俺、あのまま昇降口に転がってたら、間違いなく奴らに貪り食われてた」
「礼なら加藤に言え。お前を担いでここまで走ってきたのは加藤だ」
蓮の言葉に、小林は横に立つ加藤を見上げ、涙で滲んだ瞳を細めた。
「加藤……お前がいなきゃ、俺は死んでた。本当に、恩に着るよ」
「よ、よせよ……水臭いな」
加藤は居心地悪そうに視線を泳がせ、ぎこちない笑みを浮かべた。
「当たり前だろ。中学からずっと一緒にサッカーやってきた相棒を見捨てるわけねえだろ。……お前が無事で、本当によかったよ」
そう口にする加藤の額には、異様なほどの冷や汗がびっしりと浮き出ていた。声はわずかに震え、その右手は無意識のうちに制服の右袖口をぎゅっと強く握り締めている。
蓮はその微細な挙動を見逃さなかった。
(……極度の緊張による動揺か? それとも――)
胸の奥に走ったわずかな違和感。だが、今はまず、この密閉された要塞の中で全員の防衛態勢を整えることが先決だった。
加藤と小林、そして篠原は、同じ2年B組のクラスメイトだった。
特に加藤と小林は、中学時代からの腐れ縁で、高校でも同じサッカー部に所属していた無二の親友同士だ。普段から明るくお調子者の加藤と、運動神経が良く面倒見のいい小林。先ほど廊下で追いつかれそうになった極限状態の中でも、加藤は足の動かない小林を見捨てることなく、自分の肩を貸して必死にここまで引きずってきたのだ。その友情と必死の行動力には、蓮も素直に敬意を抱いていた。
だが、蓮のサバイバル脳は、1秒たりとも弛緩してはいなかった。
右手に握りしめた木柄の簡易槍の感触を、作業用革手袋越しにじっと確かめる。事なかれ主義で責任から逃げ回っていたかつての少年は、もうどこにもいない。いまや蓮の双肩には、この狭い理科室に身を寄せ合う6人全員の命という、途方もなく重い責任が圧しかかっていた。
(外が地獄である以上、この部屋だけは絶対に安全な要塞でなければならない)
父の遺した『非常事態において、最も恐ろしいのは敵ではなくパニックを起こした味方だ。感染の疑いのある者を情けで集団に入れるな』という教えが、蓮の思考を冷徹に研ぎ澄ませていた。小林の足の傷はカミソリで引いたような一直線のガラス創傷であり、幸いにも歯型や爪痕の兆候はなかった。しかし、極限状況における油断は、即座に全員の全滅に直結する。
「礼なら後でいい。それより、動けるうちに備えを完璧にしておくぞ」
蓮は準備室の棚から確保していたサバイバル資材の入った段ボール箱を引き寄せた。
「暗闇の中での籠城だ。いつ何が起きても即座に対処できるよう、各自の装備を整える。加藤、篠原、お前らもこれを使え」
蓮は箱の中から、防刃用の厚手作業用革手袋と、プラスチック製の安全保護メガネを取り出し、加藤と篠原に手渡した。さらに、以前確保してあった予備のモップの木柄を1本、加藤の前へ差し出す。
「この革手袋をはめろ。破片や感染者の爪から手を守る。メガネは飛散する体液が目に入るのを防ぐためだ。加藤、お前はこの棒を持て。丸腰よりは遥かにマシだ」
「お、おう……サンキュー」
加藤は受け取った木柄を実験台の脇に置き、厚手の革手袋に手を伸ばした。篠原も震える手で手袋を受け取り、葵の助けを借りながらぎこちなく指を通していく。
「よし、全員装備を身につけろ。手袋のバンドは手首にしっかり巻きつけて固定するんだ。緩んでいると、いざという時に脱げて怪我をするからな」
蓮の指示に従い、暗がりの中で各自が身支度を整え始めた。
その時だった。
葵が、手に持っていた補助用の小型ライトの光を、手袋を装着しようとしている加藤の手元へ何気なく向けた瞬間のことだ。
加藤は、厚い革手袋に右手を滑り込ませようと、制服のシャツの袖口のボタンを外し、肘のあたりまで無造作に捲り上げていた。
「加藤くん、手袋のバンド、ちゃんと絞って……」
葵が優しく声をかけようとした、その言葉が、彼女の喉の奥でピタリと凍りついた。
ライトの細い光束が、加藤の捲り上げられた右腕の前腕部――手首から数センチ上の内側の皮膚を、青白く照らし出していた。
そこに、不自然極まりない傷痕が存在していた。
長さは3センチほど。
転んで擦りむいたような擦過傷ではない。皮膚の表面が何かに強く挟み込まれたように赤黒く鬱血しており、その中心部分の表皮が、半円を描くように点々と破れて微かな血が滲んでいた。
それは、葵の脳裏に焼き付いているあの忌まわしい記憶と、最悪の形で合致していた。本棟から逃げる際、パニックになった女子生徒が廊下で感染者に押し倒され、首筋を噛みちぎられる直前につけられた、あの赤黒い歯型の痕。人間の、いや、理性を失って獣と化した感染者の歯列が残す、紛れもない『噛み傷』だった。
「あ……」
葵の唇から、小さな息の漏れる音がこぼれた。全身の血液が急速に冷却され、足元へ向かって流れ落ちていくような、凄まじい悪寒が彼女の背筋を駆け抜ける。
(嘘……。加藤くんの腕……あれ、どう見ても……)
光の揺れと葵の視線に気づいた加藤が、ハッとして自分の右腕を見下ろした。
そして、葵の瞳が自らの腕の傷痕に釘付けになっていることを認識した瞬間――。
「っ……!」
加藤の顔から、さっと血の気が引き、表情が強張った。彼は弾かれたように右腕を背中側へと隠し、捲り上げていたシャツの袖を、慌てふためいた乱暴な手つきで手首まで無理やりに引き下ろした。
「な、なんだよ、葵さん……。いきなりライトなんか当てて、眩しいじゃないか……」
加藤の声は、明らかに上ずっていた。額やこめかみからは滝のような冷や汗が噴き出し、その瞳は異常なほどの速さで左右に泳いでいる。
「加藤くん……」
葵の絞り出すような声が、理科室の暗闇に重く落ちた。その声音に含まれたただならぬ緊迫感に、手当ての道具を片付けていた健太も、横たわっていた小林も、息を呑んで顔を上げた。
「その右腕の傷……どうしたの?」
室内の空気が、1瞬にして凍りついた。
「な、なんのことだよ……?」
加藤は、引きつった笑みを口元に貼りつけながら、背後に回した右腕の手首を左手で強く握りしめた。
「なんでもないよ……ただの傷だ。早く手袋をして、休もうぜ。みんな疲れてるんだろ?」
「今、見えたよ……」
葵は1歩も引かず、震える手で小型ライトを加藤の胸元へ向けた。その声は震えていたが、確信に満ちていた。
「加藤くんの右腕の内側……赤黒い、半円みたいな傷があった。皮膚が抉れて、歯型みたいに丸く並んでた……。あれ、転んでついた傷じゃないよね……?」
「ち、違うって言ってんだろッ!!」
唐突に、加藤が耳をつんざくような怒鳴り声を上げた。閉ざされた理科室の壁に、その叫びがビリビリと反響する。
「ただの擦り傷だよ! 1階の廊下を走って逃げる時に、倒れてた机の角に強くぶつけたんだ! それだけだよ! なんでそんな疑うような目で見るんだよ!」
「加藤……お前、まさか……」
床に横たわっていた小林が、信じられないものを見るように、怯えた瞳で加藤を見上げた。
「お前……あいつらに、噛まれたのか……?」
「違う! 違うって言ってんだろ、小林!」
加藤は小林に向かって必死に両手を振ろうとしたが、途中でハッとして再び右腕を背中へ隠した。
「俺はお前を肩に担いで、ここまで必死に逃げてきたんだぞ! お前を助けるために命を懸けた俺が、化け物に噛まれてるわけないだろ! 俺を疑うのかよ!?」
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