第20話:ノックの音【3/3】
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懐中電灯の光の中心で、小林は激痛に顔を歪ませながら、ガタガタと全身を震わせていた。
「か……噛まれてない! 噛まれてないよ! 誓う! 絶対に噛まれてない!」
「ズボンを切るぞ」
蓮はサバイバルナイフを左手で引き抜き、葵に向かって短く指示を出した。
「葵、ライトを傷口に集中させろ。健太、小林の身体を押さえろ。暴れて傷口を広げるな」
「わかった!」
葵が素早く前に出、小型ライトの光を小林の右足へ正確に照射した。健太は小林の肩を上から固く押さえつける。
蓮はナイフの尖端を小林の血濡れたズボンの生地に引っ掛け、一気に上方へ引き裂いた。
バリバリバリッ!
湿った布地が破れ、露出した小林の右スネの傷口がライトに晒された。
傷口は凄惨だった。スネの外側の肉が、長さ15センチほどにわたって鋭利に切り裂かれ、赤黒い筋肉の層と脂肪組織が露出している。ダラダラと溢れる鮮血が、白っぽいスネの骨を赤く染めていた。蓮はサバイバルナイフの平の部分を使って血液を慎重に押しぬぐい、傷口の断面を穴があくほど見つめた。
半月状の噛み痕や、引きちぎられたような特有の肉の欠損。あるいは爪による平行した引っかき痕。
……ない。
傷口の縁は、カミソリで引いたように一直線に鋭く切れていた。鋭利なガラスの断面によって、深く斜めに肉を削がれた創傷だった。
「……創縁が滑らかだ。歯型も爪痕もない」
蓮は、深く胸の奥で息を吐き出した。槍の穂先をゆっくりと下ろし、ナイフを腰の鞘へ戻す。
「ガラスか……金属の破片だな」
小林は、緊張の糸が切れたように途切れ途切れの息を漏らし、その場に崩れ落ちるように頭を床へつけた。
「そうだよ……! 1階の昇降口から逃げる時、あいつらに追いかけられて……ガラス扉が割れて、その破片の山の上に派手に転んだんだよ……! 噛まれてなんか……ない……!」
「疑って悪かった、小林」
蓮は懐中電灯を床に置き、応急手当の準備に取りかかった。
「だが、確認が必要だったんだ。許してくれとは言わないが、これが俺たちのルールだ」
加藤も、膝の力を失ったように床へへたり込んだ。
「すまない……日高。俺、パニックになってて……。小林が噛まれてないって分かって……本当によかった……!」
「篠原さんも、大丈夫だよ」
葵が優しい声で篠原の背中を撫でた。
「日高くんは、私たち全員を守るために確認したの。怖かったよね……でも、もう大丈夫だから」
「雑談は後だ。手当てをする」
蓮は理科室の棚から確保していた未開封の救急箱と、蒸留水のポリタンクを引き寄せた。
「小林、痛むぞ。耐えろ」
蓮はポリタンクのキャップを開け、小林の傷口に向かって冷たい蒸留水を直接注ぎかけた。
ドバドバドバッ!
「ぐああああああああっ!?」
小林が激痛に身体を跳ねさせたが、健太が上からその体を力任せに押さえつけた。
「耐えろ、小林! 傷口にガラスの粉や泥が入ってたら、感染症で足が腐る! 歯を食いしばれ!」
蒸留水が泥や細かなガラス片を洗い流していく。蓮は消毒液を浸した大型の脱脂綿を取り出し、創傷の周囲を清拭した。さらに清潔なガーゼを重ね、上から伸縮包帯を強く巻きつけて圧迫止血を施す。数分間の処置の末、小林の右足は真っ白な包帯で頑丈に包み込まれた。出血の勢いは収まり、ひとまず大量出血による危険は抑えられた。
「……処置完了だ」
蓮は額の汗を拭い、床に腰を下ろした。
理科室の中に、束の間の静寂が訪れた。非常ベルの金切り声はいまだに外から響き、遮光シートで密閉された窓の向こうからは本棟の崩壊する重い音と火災の爆ぜる音が届いている。
「……教えてくれ」
蓮は、落ち着きを取り戻しつつある加藤と篠原に向き直った。
「本棟と……体育館はどうなってる?」
加藤の顔から一気に血の気が引き、唇が震え始めた。
「地獄……だよ……」
加藤が掠れた声で語り始めた。1階の昇降口が破られ、体育教師たちが1瞬で食われたこと。2階の廊下も悲鳴とパニックで溢れかえっていること。小林も力なく呟いた。
「体育館も……全滅だと思う。扉が内側から固く閉ざされてて……中で悲鳴が響き渡ってた。中で誰かが発症して、逃げ場がなくなって……」
学校という安全なはずだった社会。そこはもう、ただの巨大な屠殺場と化していた。
「……学校の中に、まともな大人はもう残ってない。警察も、自衛隊も来ない。全校放送も切れた。……俺たち、ここでどうしたらいいんだよ……?」
加藤のすがるような瞳が、蓮へ向けられた。
だが、蓮には安易な慰めの言葉を返すことはできなかった。
「救助は来ない。この学校だけじゃなく、街全体が同時多発的に崩壊してるんだ。バイパスは大炎上し、ショッピングモールも住宅街も火の手が上がってる。警察も消防も壊滅状態だ。さっき、廊下の窓から俺たち自身の目で見てきた」
加藤と篠原は、絶望的な現実に息を呑み、言葉を失った。
小林は、自分の置かれた立場を痛いほど理解していた。青ざめた顔で包帯を巻かれた右足を見つめ、唇を噛み締めている。
「……日高。俺を……置いていってくれ。俺がこんな足じゃ、みんなの足を引っ張る……! 走れない奴が1人でもいたら、全員食われちまうんだろ……!? 俺のせいでみんなが死ぬなんて嫌だ……! だから……俺を置いていけよ……!」
小林の悲痛な叫びが、暗い理科室に響き渡った。加藤が小林の肩を抱きしめて泣きじゃくり、篠原も顔を覆って泣いた。健太と葵は、無言で蓮の横顔を見つめていた。
蓮は自分の掌を見つめた。事なかれ主義だった、かつての自分ならどうしただろうか。「自己責任だ」と言って冷酷に切り捨てていただろう。だが――。
蓮は深く息を吸い込み、静かに小林の前へ歩み寄った。
「小林。お前に1つだけ聞く。……お前は、生きて家に帰りたいか?」
小林はハッと顔を上げた。涙に濡れたその瞳には、生への強烈な執着が爛々と輝いていた。
「帰りたいよ……! お袋に会いに行きたいよ! 死にたくない……! 生きたいよ!!」
蓮は小さく頷いた。
「なら、置いていかない」
「え……?」
小林が絶句した。
「条件がある」
蓮は冷徹なトーンを崩さずに言った。
「俺はお前をお客様として守る気はない。足が痛かろうが、自力で歯を食いしばって前を向け。弱音を吐いて生きるのを諦めたら、その場でお前を置いていく。加藤、お前が小林の左肩を支えろ。健太、お前が右肩だ。2人が交代で小林を担ぐ。移動する時は、俺と葵が前衛と後衛で槍を使って壁を作り、あいつらを遠ざける」
蓮は手にした木柄の簡易槍を強く握り直した。
「1人も死なせない。6人全員で、生き残る」
「日高……ありがとう……! ありがとう……!」
加藤が涙を流して蓮の手を握りしめた。小林も何度も頭を下げて泣いた。
「へへっ、任せとけって! 俺の筋肉なら小林1人担ぐくらい朝飯前だぜ!」
健太が自分の胸をぽんと叩いた。葵もアルミ槍を構え、力強い笑みを浮かべた。
「だが――今すぐ外へ飛び出すのは自殺行為だ」
蓮の冷静な言葉に、全員の視線が集まった。
「外のバイパスも住宅街も、今はパニックと炎上で地獄絵図だ。あそこへ今突っ込めば、足の不自由な小林を抱えた状態じゃ、数分も持たずに感染者の大群に呑み込まれる。それに、小林の足の止血はできたが、今無理に動かせば傷口が開いて再び大出血を起こすリスクが高い」
蓮は理科室の四方を見回した。
「この部屋には、俺たちが築いた鉄壁のバリケードがある。遮光シートで気配も遮断されている。水もあるし、救急資材もある。今夜は、この理科室で態勢を整える。小林の体力の回復を待ち、夜の動向を見極めてから、確実な脱出のタイミングを計るんだ」
蓮の的確で論理的な判断に、異論を唱える者は1人もいなかった。感情に流されてパニックの夜へ飛び出すのではなく、安全な拠点で体力を温存し、機を待つ。極限状態の中で見出された、最も現実的な生存戦略だった。
「わかった……! 日高くんの言う通りにするよ」
加藤が頷き、小林も深く息を吐いて頷いた。
蓮たちは理科室の床に実験用の白衣やカーテンを敷き、小林を静かに横たわらせた。篠原も葵に寄り添い、ようやく訪れた安全な空間に震える身体を落ち着かせようとしていた。
蓮は小型LEDライトの光量を絞り、足元に置いた。薄緑色の淡い光が、暗闇の中で身を寄せ合う6人の顔を静かに照らし出す。
外の地獄から隔絶された理科室の要塞。小林の足の手当てを終え、誰もが張り詰めていた糸をわずかに緩めていた。
だが、その暗がりの中、制服の右袖を不自然にかばうように握りしめる加藤の微かな震えに、目を留める者はまだ誰もいなかった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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