第2話:噂の流星群【2/3】
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翌朝。
寝不足で重い頭を抱えながら、蓮はいつものように通学路の坂道を自転車で下っていた。
九月の太陽は容赦なくアスファルトを照りつけ、街路樹からはツクツクボウシのけたたましい鳴き声が降り注いでいる。
コンビニの前で立ち読みをしているスーツ姿のサラリーマン。横断歩道で旗を振る交通指導員のおばさん。パン屋から漂ってくる焼きたてのバターの香り。
いつもと何一つ変わらない、平和で退屈な地方都市の朝の風景だった。
昨夜見たあの動画の記憶は、この圧倒的な『日常』の光の中では、まるで出来の悪い悪夢のように現実味を失っていく。
(やっぱり、ただの作り物だったんだ)
蓮は自転車のペダルを踏み込みながら、大きく息を吐き出して自分に言い聞かせた。
「おーい! 蓮!」
交差点の信号待ちをしていると、背後から陽気な声が飛んできた。振り返ると、親友の健太が、自転車の立ち漕ぎで猛スピードで接近してくるところだった。
「おはよう、健太。朝から元気だな」
「おう! 俺の辞書にスタミナ切れって言葉はねえからな!」
健太は蓮の横にピタリと自転車を止め、白い歯を見せて笑った。陸上部でこんがりと日焼けした肌と、制服のシャツのボタンを開けたラフな着こなし。どんなに陰鬱な気分でも、彼と一緒にいると空気がカラッと晴れるような気がする。
「それよりさ、蓮! お前、昨日の夜、ネットでバズってた動画見た!?」
信号が青に変わり、二台の自転車が並んで走り出した直後、健太が身を乗り出すようにして話題を振ってきた。
蓮の心臓が、ビクリと小さく跳ねる。
「動画……って、人が人を襲うやつか?」
「それそれ! お前も見てたか! いやー、俺も夜中にたまたまタイムライン流れてきてさ。マジでビビったぜ。あのゾンビみたいなヤツ、動きがやばすぎだろ!」
健太は自転車のハンドルを握りながら、大興奮でまくしたてる。
「やっぱり、あれは映画の宣伝か何かなのか?」
蓮が探るように尋ねると、健太はニヤリと笑って首を振った。
「それがさぁ、ネットの特定班がいろいろ検証してるんだけど、どうも映画の宣伝にしては不自然だって話になってるんだよ。動画に映ってた看板とか背景から、場所が『S県の繁華街』って特定されたらしいんだけど、あそこで最近映画の撮影があったなんて情報、どこにもないんだと」
「じゃあ、ただの悪ふざけのフェイク動画?」
「そこなんだよ。一番気味が悪いのはさ、あの動画、アップされてから数時間で完全にネット上から消されたんだぜ? しかも、動画を保存して別のサイトに転載したヤツのアカウントも、次々と凍結されてるらしい。まるで、見えざる手が必死に火消しをしてるみたいにさ」
健太の言葉に、蓮は昨夜自分が体験した『この投稿は削除されました』という無機質な画面を思い出した。
「……確かに、対応が早すぎるとは思った。でも、規約違反のグロテスクな動画だから、運営が自動ツールとかで弾いてるだけじゃないのか?」
「まあ、常識的に考えりゃそうなんだけどさ。でも、オカルト板とか都市伝説界隈じゃ、『あれはマジで起きた事件の隠蔽だ』って大盛り上がりだぜ。新種の狂犬病だとか、海外で作られた生物兵器のウイルスが日本に持ち込まれたとか、挙句の果てにはゾンビウイルスのパンデミック前夜だとかさ!」
健太はケラケラと笑いながら、まるで新作のゲームの設定でも語るかのように無邪気に陰謀論を楽しんでいた。
彼にとって、この不気味な現象も、退屈な日常を彩る『極上のエンターテインメント』の一つに過ぎないのだ。
「お前は能天気でいいな。もしそれが本当のウイルスだったらどうするんだよ」
蓮が呆れたようにため息をつくと、健太は胸を張って答えた。
「そん時はそん時だろ! 俺の陸上部で鍛えた足で、ゾンビなんて全部振り切って逃げてやるよ。蓮、お前も足引っ張るなよ?」
「はいはい、頼りにしてるよ」
適当に相槌を打ちながら、蓮は学校の正門へと続く並木道を見上げた。
太陽は眩しく、生徒たちの明るい笑い声があちこちから聞こえてくる。健太の言う通り、ただの悪ふざけか、手の込んだ都市伝説だ。そう信じなければ、この平穏な日常の足元がグラグラと揺らぎそうだった。
学校に到着し、二年B組の教室に入ると、すでにその『噂』はクラス全体を席巻していた。
朝のホームルームが始まる前、教室のあちこちで、スマートフォンを囲んだ生徒たちの輪ができている。
「ねえ、昨日のあのヤバい動画見た?」
「見た見た! 超グロかったよね。あれ絶対フェイクでしょ」
「でもさ、別のアカウントが上げてた動画だと、人が首筋噛みちぎられてたらしいよ」
「うわ、キモっ! 見たいけど見たくないかも」
女子たちのグループは、まるで新作のホラー映画の感想でも言い合うかのように、キャーキャーと声を上げて楽しんでいる。
男子のグループはさらにエスカレートしており、消された動画のキャッシュを探し出そうと、裏サイトや海外の動画共有サービスを漁っていた。
「おい、このURLまだ生きてるぞ! 早く見ろ、またすぐ消されるかもしれないから!」
「マジか! うおっ、これヤバっ! 血の量おかしいだろ!」
「これ絶対ユーチューバーのドッキリ企画だろ。そのうち『実はドッキリでしたー!』ってネタばらしの動画上がるって」
教室中に飛び交うのは、非日常への好奇心と、安全な場所から危険を覗き見るスリルに酔いしれる声ばかりだった。
それはまさに『噂の流星群』だった。
SNSという夜空に突如として現れ、強烈な光を放って人々の目を惹きつける。しかし、その光は運営の手によって次々と削除され、流れ星のように一瞬で姿を消していく。消されれば消されるほど、「隠蔽されている」「本当は本物なのではないか」という疑念が燃料となり、噂はさらに尾を引いて燃え広がっていく。
誰もが、この不気味な現象を『都市伝説』という枠組みの中に押し込め、消費可能なコンテンツとして楽しんでいた。
だが、蓮だけは、その熱狂の輪から一歩引いた場所で、言い知れぬ不気味さを感じていた。
(みんな、なんであんなに笑っていられるんだ……?)
自分の席に座り、喧噪を眺めながら蓮は思う。
映像の真偽はわからない。だが、あの映像に映っていた男の瞳に宿っていた狂気と、肉を食いちぎる音の生々しさは、決して笑って消費できるような類のものではなかった。もしあれが演技だとしたら、作った人間は相当に精神を病んでいる。
蓮は無意識に、右の手のひらで左腕をさすった。教室はエアコンが効いているというのに、肌にまとわりつくような薄気味悪い感触が拭えない。
ふと、視線を斜め前に向ける。
そこには、葵の後ろ姿があった。
黒髪をきっちりと一つに束ねた彼女は、周囲の喧騒に加わることなく、一人静かに窓の外を見つめていた。
クラスの女子たちが「ねえ水島さんもあの動画見た?」と声をかけても、葵は「ううん、私そういうの苦手だから」と短く返し、小さく愛想笑いをしてすぐに視線を窓の外へ戻してしまっていた。
その横顔には、普段の真面目で凛とした表情とは違う、どこか張り詰めたような、硬い緊張感が浮かんでいるように見えた。
(水島も……何かを感じてるのか?)
蓮は彼女の横顔から目を離せなかった。
ただの都市伝説として消費するには、あの動画には『死の匂い』が色濃く漂いすぎていた。
窓の外からは、相変わらずツクツクボウシの鳴き声が聞こえる。
だが、その鳴き声に混じって、朝から絶え間なく鳴り続けている遠くのサイレンの音が、少しずつ、しかし確実に、この学校の方向へと近づいてきていた。
二時間目の休み時間。
教室内の熱気は、朝のホームルームから一向に冷める気配がなかった。それどころか、スマートフォンを握りしめる生徒たちの顔には、非日常を消費する娯楽の笑みから、徐々に戸惑いの色が混じり始めていた。
「なあ、これちょっとおかしくね?」
クラスのムードメーカーである男子生徒が、教室の中央で声を上げた。彼の手には最新型のスマートフォンが握られており、その画面を周囲の数人が覗き込んでいる。
「どうしたんだよ。またグロ動画の生き残りでも見つけたか?」
健太が野次馬根性丸出しで近づいていく。蓮もその後を追った。
「いや、動画じゃなくてさ。これ見てみろよ」
男子生徒が示したのは、リアルタイムで更新されるニュースのキュレーションアプリの画面だった。しかし、そこには普段なら並んでいるはずの芸能ゴシップやスポーツの結果ではなく、赤い文字の【速報】ばかりが異常な密度で羅列されていた。
『S県警、県内全域に緊急配備。駅前での連続傷害事件の犯人を追跡中』
『K市内の総合病院がパニック状態。搬送された患者が医療従事者に暴行を加える事案が多発』
『首都圏の主要幹線道路で玉突き事故が多発。原因は道路上に飛び出した歩行者か』
『政府、午後一時に緊急記者会見を予定。新種の感染症との関連を否定せず』
見出しだけを見れば、まるでパニック映画の導入部分のようだ。
「なんだよこれ……。全部、今日の朝から起きてる事件だぜ? しかも全国であちこち」
画面をスクロールする男子生徒の指が、かすかに震えている。
「おいおい、マジかよ。これ絶対、あのゾンビ動画と関係あるだろ」
「だからあれはフェイクだって! たまたま頭のおかしい奴らが、動画の真似して暴れてるだけじゃん?」
「でも、病院で患者が暴れるって何だよ。映画の見すぎだろ」
生徒たちの間で、半信半疑の議論が再び熱を帯びる。しかし、朝のような「面白い都市伝説」として楽しむ空気は薄れ、得体の知れない不安が教室の空気を重く沈ませていた。
蓮は黙って画面を見つめていた。
ニュースの断片的な情報は、蓮の脳内で昨夜の動画と、朝から鳴り止まないサイレンの音とを見事に結びつけていく。
(……フェイクじゃない。実際に、何かが起きているんだ)
事なかれ主義の蓮の心に、冷たい警鐘が鳴り響く。
「なぁ蓮、これって……」
健太が、いつもの能天気な笑顔を消して蓮を見た。
「わからない。でも、普通じゃないことだけは確かだ」
蓮がそう答えた時だった。
『キィィィィィィィン……』
突然、蓮の制服のポケットの中で、スマートフォンが不快な警告音を鳴らした。
ビクッと肩を揺らす。それと同時に、教室内のあちこちから、同じように甲高い電子音が連鎖的に鳴り響いた。
「うわっ、なんだよこれ!」
「緊急速報? 地震か!?」
生徒たちが慌ててスマートフォンを取り出す。
蓮もポケットから端末を引き抜いた。画面には、地震や津波を知らせるエリアメールの見慣れたポップアップが表示されていた。しかし、そこに書かれていた文面は、かつて見たことのない異常なものだった。
『【緊急治安情報】現在、彩葉市を含む県内広域において、暴徒化した集団による無差別な襲撃事件が多数発生しています。市民の皆様は、直ちに屋内へ避難し、戸締まりを厳重にして絶対に外に出ないでください。不審な人物を見かけても、絶対に近づかず、速やかに警察に通報してください』
教室が、水を打ったように静まり返った。
誰一人言葉を発しない。ただ、手元の小さな画面に表示された『暴徒化した集団』という暴力的な文字列を見つめている。
「……おい、これって」
健太が乾いた声で呟いた。
「市役所からの緊急メールだ。俺たちの街で、起きているんだ……」
蓮がそう言い終わるか終わらないかのうちに。
『ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン……』
今度は窓の外から、腹の底を震わせるような、低く、重々しいサイレンの音が鳴り響いた。
それは救急車やパトカーのサイレンではない。災害時に街中に設置されたスピーカーから流れる、防災無線のサイレンだった。
「なんだよ、これ……。訓練じゃないよな?」
窓際の女子生徒が、震える声で空を仰ぐ。
サイレンの音に混じって、スピーカーから市役所の職員と思われる男性の、ひどく焦った声が街中に響き渡った。
『――市民の皆様に、緊急にお知らせします。現在、市内で暴動事件が多発しております。速やかに、屋内へ避難してください。繰り返します。速やかに、屋内へ――』
アナウンスは途中でブツリと途切れ、マイクが何かにぶつかるような激しいノイズだけが残された。
「嘘だろ……」
教室の空気が、完全に『恐怖』へと反転した。
生徒たちが一斉に窓際に殺到し、校舎の外を見下ろす。蓮と健太も、人混みを掻き分けて窓枠に手をかけた。
四階の教室から見下ろす彩葉市の風景は、朝の登校時とは完全に様変わりしていた。
市街地を貫く主要なバイパス道路は、おびただしい数の車で完全に渋滞し、そこかしこで追突事故が起きている。車から降りた人々が、何かから逃げるように走っていた。
遠くの商業施設のあたりからは、どす黒い煙が立ち上っている。
そして、学校から数百メートル離れた住宅街の路地。
そこには、昨夜の動画で見たのと同じように、不自然な歩き方で徘徊する人影が、ぽつり、ぽつりと増え始めていた。
「……おい、あれ見ろよ」
視力の良い健太が、校門のずっと手前、通学路の交差点を指さした。
蓮が目を凝らすと、交差点の真ん中で、数人の警察官が盾を構えて規制線を張っているのが見えた。彼らの向かい側には、二十人ほどの集団が押し寄せている。
暴徒のデモ隊かと思ったが、違った。
集団の先頭にいるのは、パジャマ姿の老人や、血まみれのスーツを着たサラリーマンだ。彼らは警察官の制止の声など全く聞こえていないかのように、盾に向かって無差別に体当たりを繰り返している。
「パーン! パーン!」
乾いた破裂音が、遠くから風に乗って聞こえてきた。
威嚇射撃だ。警察官が空に向かって拳銃を撃ったのだ。
日常の日本において、警察官が発砲するという異常事態。それでも、暴徒の集団は怯むどころか、銃声に引き寄せられるようにさらに数を増し、警察官の防衛線を押し破ろうとしていた。
「おい……警官が、押し倒されたぞ……!」
健太が息を呑む。
交差点の規制線が崩れ、数人の警察官が集団に飲み込まれた。警棒を振るう隙もなく、暴徒たちが覆い被さっていく。遠すぎて詳細な描写は見えないが、何が起きているのかは、昨夜の動画を見た者には容易に想像がついた。
「ヒッ……!」
隣で見ていた女子生徒が、耐えきれずに顔を覆ってしゃがみ込む。
蓮は窓枠を強く握りしめた。指の関節が白くなる。
都市伝説ではなかった。噂の流星群は、ただの幻影ではなく、確かな質量と破壊力を持った隕石となって、彼らの平穏な日常に真っ向から激突してきたのだ。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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