第20話:ノックの音【1/3】
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遮光シートで完全に密閉された特別棟2階・第1理科室の室内は、濃密な漆黒と、死と緊張の混ざり合った重苦しい空気に満たされていた。
ジリリリリリリリ――ッ!
途絶えることなく校舎の遠くから響き続ける非常ベルの金切り声。本棟で巻き起こった猛火が建物の梁や構造材を焼き尽くし、窓ガラスを爆砕させる鈍い振動が、壁や床のコンクリートを通じて足裏にじりじりと伝わってくるたび、理科室内の空気がわずかに震えた。
蓮は、固く閉ざされたスライド扉の前で、両膝を床についたまま全身の神経を研ぎ澄ませていた。右手には、ホウキの木柄の先端に裁ちばさみの分厚い鋼刃をワイヤーとガムテープで何重にも巻きつけた自作の簡易槍。左腕には、国語辞典と現代文の教科書をガムテープで強固に固定した防具。そのすぐ後ろには、アルミ柄の槍を両手で構え、息を整えようと胸を上下させている葵。そして、鉄パイプを肩に担ぎ、汗まみれの顔で扉の隙間を睨みつけている健太が控えていた。
3人は、廊下の窓から外の街の壊滅的な地獄を目撃し、今すぐ路上へ出るのは自殺行為だと判断して理科室へ引き返し、再びバリケードを再構築した――まさにその直後だった。
『……ハァ……ハァ……ッ……!』
スライド扉のすぐ向こう側――暗く血生臭い廊下から、荒く乱れた呼吸音が聞こえてきた。
3人の身体が、1瞬にして氷のように凍りつく。蓮は握りしめた槍の柄に指先を食い込ませ、額から鼻筋を伝って床へ落ちる1滴の汗を、息を止めて見つめた。
感染者たちの足音は、痛覚や平衡感覚を失った者特有の『ズズッ、ズズズ……』という擦り足だ。一定のリズムもなく、障害物にぶつかっても速度を緩めずに突き進む。だが、今、扉の向こうから聞こえる足音は決定的に違っていた。
『タッ、タッ、タッ……パタパタ……ッ!』
怯え、焦り、つまづきながらも、自分の2本の足で交互に床を蹴って逃げてくる、明確な意思を持った人間の足音。それが2人、あるいは3人。
『頼む……誰か……誰か中にいるんだろ!? 開けてくれ!』
掠れた男子生徒の叫び声が、扉越しに響く。続いて、女子生徒の泣きじゃくる悲鳴が重なった。
『嫌……嫌ぁ! 追ってくる! 後ろから来てるよ!』
『トントン、トン、トン!』
遠慮がちでありながら、極限の恐怖に駆られたノックの音が、スライド扉の木枠を激しく揺らした。
葵が短く息を呑み、両手で自らの口元を固く塞ぐ。瞳が激しく揺れていた。健太も息を呑み、鉄パイプを握る手にぐっと力を込め、蓮の横顔を見つめた。
「日高……! 生存者だ……! 生きている奴らだぞ……!」
健太が、声にならない極小の囁き声で蓮に訴えかける。
蓮は即答しなかった。頭の中で、危険とリスクの計算が目まぐるしく回転していた。扉の向こうにいるのは生きている人間だ。同じ学校の生徒か教師だろう。だが、バリケードを開くリスクは途方もなく大きい。内側から組み上げた教卓や大型実験台を動かして扉を開けることは、これまで保たれていた理科室の絶対的な安全を自ら崩すことを意味する。もし、彼らのすぐ背後に感染者たちが肉薄していたら。扉を開けた瞬間に雪崩れ込まれたら。扉を開ける躊躇の最中に、もし彼らがすでに噛まれていたとしたら――。1人でも感染していれば、この狭い部屋は1瞬で逃げ場のない屠殺場と化す。
父の教えが脳裏を駆け巡る。
『非常事態において、最も恐ろしいのは敵ではなくパニックを起こした味方だ。感染の疑いのある者を情けで集団に入れるな。全員が全滅する』
「日高! 迷ってる暇はねえぞ! 外で誰かが死にそうなんだ!」
健太が焦燥感を剥き出しにして、蓮の肩を強く掴んできた。
「静かにしろ、健太!」
蓮は低く、しかし刃物のように鋭い声で制した。
「声を出すな! 俺たちの存在を外の感染者に知られたら終わりだ!」
「話し合いの余地もねえのかよ!」
「分かってる! 分かってるんだよ!」
蓮は奥歯を強く噛みしめた。事なかれ主義で生き、他人の面倒事からは引き下がってきたかつての自分。だが、扉の向こうで震えているのは、ほんの数時間前まで同じ校舎で笑い合っていた同級生かもしれない。ここで見殺しにすれば、その罪悪感が一生自分たちを苦しめ続けることになる。
『開けて……お願い……! 篠原だよ! 2年B組の篠原美咲! 小林くんも一緒なの! 足にケガしてて走れないの! お願いだから開けてぇ!!』
扉の向こうから、涙に狂った女子生徒の叫びが届いた。
「……篠原と、小林……!?」
葵が思わず声を漏らした。同じ2年B組の仲間だった。篠原は、大人しく目立たないが掃除当番などを真面目にこなす女子生徒。小林は、サッカー部に所属する陽気で運動神経の良い男子生徒だ。昨日まで、すぐ後ろの席で友達とサッカーの話をして笑っていた同級生たちだった。
「……助ける」
蓮の口から、重い決断が漏れた。
「日高……!」
健太の顔に、ぱっと安堵の色が浮かぶ。
「ただし、条件がある」
蓮の瞳は、氷のように冷たく冴え渡っていた。
「扉は30センチだけ開ける。1人ずつ滑り込ませる。……情けをかける余地はない。入ってきた奴らが感染者に噛まれていないか、俺がここで全身をチェックする。もし1箇所でも噛み痕があったら、俺はその場でそいつを外へ叩き出すか、槍で突く」
冷酷とも思える宣言に、葵と健太は1瞬息を呑んだ。しかし、すぐに頷いた。自分たちの命を守りながら同級生を救い出す、それが唯一の限界線だと理解したからだ。
「葵、遮光シートの端をほんの少しだけ捲って外の状況を確認しろ。追ってきている感染者の数は?」
「わかった!」
葵は素早く扉の上部へ手を伸ばし、ガムテープで固定された黒い遮光シートの端を指先で数ミリだけずらした。すりガラス越しに、暗い廊下の光景を覗き込む。
「……見えた! 篠原さんと、小林くん……それと加藤くんの3人! 小林くんは加藤くんに肩を借りて、足を引きずってる!」
葵が小声で報告する。
「後ろは!? 感染者は追ってきているか!?」
「廊下の奥……曲がり角の向こうから、3体……いや、4体の影が近づいてきてる! 距離はおよそ20メートル! 歩きだから、まだ追いつかれてない!」
「20メートル……時間にして約15秒か」
蓮の頭の中で、残された時間が秒単位で刻まれ始めた。
「十分だ。バリケードを解除するぞ! 健太、教卓を30センチだけ引け! 俺が正面で槍を構えて警戒する! 葵は3人が滑り込んだら、即座にドアを閉めて鍵をかけろ!」
「了解!」
3人は、極限の集中力で動き出した。
健太が重厚な教卓に手をかけ、全身の背筋を使って力任せに引く。
ズズズッ、と床タイルと金属脚が擦れる重い摩擦音が響き、スライド扉の前に人間1人がギリギリ通り抜けられる30センチの隙間が生まれた。
蓮は、その隙間の真前に立ち、自作の木柄の槍を水平に構えた。裁ちばさみの分厚い鋼刃が、暗がりの中で冷たく光る。万が一、滑り込んできたのが感染者だった場合、あるいは背後から跳びかかられた場合に備え、1瞬でその喉元を突き穿てる構えだった。
蓮は真鍮製のシリンダー鍵に手をかけ、横へと回した。
カチャンッ、と解錠の金属音が響く。蓮はスライド扉を左手で静かに、しかし素早く30センチだけ開けた。
ガラガラッ!
扉が開いた瞬間、廊下の冷え切った空気と、生々しい血の匂い、そして本棟から漂う焦げ臭い黒煙が一気に理科室内へ流れ込んできた。
「入れ! 声を出すな! 早く滑り込め!!」
蓮が低く鋭い声で外へ放つ。
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