第19話:窓の外の街【2/2】
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窓枠を掴む蓮の指先に、白くなるほど強い力がこもった。
頭では理解していたはずだった。通信が完全に途絶した時、父からの最後の電話の内容を思い出した時、すでにこの街全体が崩壊していることは頭では予測できていた。
しかし、こうして圧倒的な暴力としての「現実の光景」を目の当たりにすると、自らの予測がいかに甘く、矮小なものだったかを骨の髄まで思い知らされた。
(これじゃあ……逃げ場所なんて、どこにもないじゃないか……)
蓮の胸の奥で、冷たい絶望の濁流が溢れ出しそうになる。
学校を出れば助かるかもしれない。外へ抜け出しさえすれば、誰かが保護してくれるかもしれない――そんな心の片隅にあった微かな希望は、窓外の凄惨な地獄の風景によって完全に粉砕された。
学校の外に広がる世界は、学校の中よりもはるかに広大で、はるかに無秩序で、はるかに凶悪な殺戮の舞台だったのだ。
「私の家……あっちの方角なのに……」
葵が、激しく燃え盛るバイパスの向こう側を指差しながら、大粒の涙をポロポロとこぼした。
「あの火事の向こう側……お父さんとお母さん、無事なのかな……。家、燃えてないかな……」
彼女の華奢な肩が激しく震え、手にしたアルミ柄の槍がカタカタと音を立てて揺れる。
健太もまた、自分の家がある方角――深い暗闇に沈む住宅街の一角をじっと見つめていた。普段なら見せる能天気な笑顔は完全に消え失せ、死の街を睨みつけるような冷たく張り詰めた眼差しだけが残っていた。
「……なぁ、日高」
健太が、掠れた声で蓮に問いかけた。
「俺たち……今からあそこへ突っ込むのか? あの火の海と、化け物の大群の中に……?」
健太の問いに、蓮は即答できなかった。
手にした槍の柄を握りしめる手のひらに、じっとりと冷たい汗が滲み出る。
非常階段の扉は、すぐ目の前にある。この扉を開けて階段を降り、裏庭のフェンスをくぐれば、学校の外へ出ることはできる。
だが、その先にあるのは何か。
見通しのきかない暗闇の住宅街。
あちこちで乗り捨てられ、激突して炎上する無数の車両。
そして何より、ショッピングモールや幹線道路から溢れ出し、獲物を求めて夜の街を徘徊しているであろう何千、何万という感染者の大群。
学校の敷地内であれば、教室の壁や施錠できる頑丈な鉄扉という「遮蔽物」がある。しかし、外の開けた路上には、身を隠せる壁も、背後を守る扉もない。1度群れに見つかれば、四方八方から押し寄せる濁流のような質量に呑み込まれ、手作りの槍など振るう間もなく肉片に変えられるのが関の山だ。
(今、外に出るのは……自殺行為だ)
蓮の冷徹なサバイバル脳が、警報を激しく鳴らし響かせていた。
「……引き返すぞ」
蓮の口から出た言葉は、予想外のものだった。
「え……?」
葵が涙を浮かべた瞳を見開き、呆然と蓮を見つめた。
健太も目を見張り、蓮の顔を覗き込む。
「引き返すって……おい、日高! 学校から脱出するんじゃなかったのかよ!?」
「外の状況をよく見ろ」
蓮は窓の外の地獄を、冷徹な視線で指し示した。
「今、街全体がパニックのピークだ。事故を起こした車が燃え上がり、モールから逃げ惑う群衆を追って、感染者たちが路上に溢れ返ってる。あんな開けた場所へ今突っ込めば、数分も持たずに囲まれて全滅する。隠れる場所も、逃げ込む扉もない路の上じゃ、俺たちの武器なんて何の役にも立たない」
蓮は手にした木柄の槍の切っ先を下げ、2人の目を見据えた。
「俺たちの最終目的は、外へ出ることじゃない。『生きて家族の元へ帰り着くこと』だ。そのためには、生存確率が最も高い選択をし続けなきゃならない」
「じゃあ……どうするんだよ」
健太が焦りを滲ませながら尋ねる。
「理科室へ戻る」
蓮は迷いなく言い切った。
「あそこには、俺たちが築いた頑丈なバリケードがある。遮光シートで窓を塞ぎ、外から気配を悟られない安全な空間だ。水もある。救急資材もある。何より、背後と頭上を守れる四方の壁と、厚い鉄の扉がある」
蓮は廊下の先、自分たちが先ほど出てきた理科室の方角を振り返った。
「外の狂乱が落ち着くまで、あるいは夜がさらに深まって奴らの動きが鈍るまで、理科室で態勢を整え直すんだ。今夜はあそこに籠城し、街の状況を見極めながら、より確実な脱出ルートを練り直す」
蓮の分析と判断は、残酷なまでに論理的で、そして正しかった。
感情に任せて外へ飛び出せば、待っているのは確実な死だ。生き残るためには、焦る心を押し殺し、時を待つ忍耐が必要だった。
「……わかった」
健太が、深く息を吐き出して頷いた。
「悔しいけど……お前の言う通りだ。あんな火の海に丸腰同然で飛び込むのは、ただの無駄死にだもんな。……理科室へ戻ろう」
葵も、ぎゅっと自分の胸元を握りしめ、力強く頷き返した。
「うん……! 日高くんの判断を信じる。お父さんとお母さんに会うために……今は、生き延びることを最優先にする」
「よし。そうと決まれば行動は迅速だ。音を立てずに、来た道を戻るぞ」
3人は即座に反転した。
前衛を蓮、中央に葵、殿を健太が固める隊列を再び組み、足音を極限まで殺しながら、暗い廊下を理科室へと引き返し始めた。
足元に散らばるガラス片や血痕を避け、壁の死角に神経を張り巡らせながら進む。
1分、また1分と、張り詰めた緊張の中を慎重に歩みを進める。
やがて、先ほど開け放った第1理科室の分厚いスライド扉が、暗闇の中にぼんやりとその輪郭を現した。
扉の周囲に、感染者の姿はない。
蓮が先頭に立って素早く室内の安全を確認し、手招きした。
葵が滑り込み、続いて健太が背後を警戒しながら中へと入る。蓮が最後に足を踏み入れ、スライド扉を静かに、そして確実に閉ざした。
カチャン……。
金属錠のサムターンを回し、施錠を完了させる。
すぐさま、蓮と健太は先ほど横へどけていた人造大理石の重い実験台と教卓に肩を入れ、再び扉の内側へと隙間なく押し当てた。
足元には分厚い木製丸椅子を何脚も斜めに突き挟み、床との間に強固な「楔」を打ち込む。
外からの圧力を完全に受け止められる、鉄壁のバリケードが瞬く間に復元された。
「……ふぅ……っ」
作業を終えた蓮は、実験台に背中を預け、ズルズルと冷たい床へ座り込んだ。
全身からどっと重い疲労感が噴き出し、深く息を吐き出す。
窓の遮光シートによって、室内は再び完全な暗闇へと閉ざされていた。外の火災の赤光も、非常ベルの金属音も、分厚い壁とシートによって遠く遮られている。
「……戻ってきちゃったな」
健太が鉄パイプを床に置き、暗闇の中でポツリと呟いた。
その声に落胆の色はあったが、自暴自棄な響きはなかった。
「だけどよ、さっきの窓の外を見て……正直、足がすくんでたんだ。ここで態勢を立て直せるのは、ありがてえよ」
「……日高くん」
葵が蓮の隣にそっと腰を下ろした。
「ありがとう。止めてくれて。私……あのまま外に出てたら、きっとパニックになって、みんなの足を引っ張ってたと思う」
「礼を言う必要はない」
蓮は首を静かに横に振った。
「俺だって怖かった。あの街の惨状を見たら、誰だって足が止まる。……だが、俺たちは生き残るために最善の手を選んだんだ。家族に会うために、今はここで力を蓄える」
蓮は小型LEDライトを1番低い光量で点灯させ、足元に置いた。
薄緑色の光の輪が、埃まみれの床と、お互いの疲れ切った顔をぼんやりと照らし出す。
手元には、先ほど自作した2本の槍と、頑丈な鉄パイプ。棚には、集めた水と救急資材がある。
外の世界は、想像を絶する破滅の地獄へと変貌していた。
しかし、この閉ざされた理科室の中だけは、外の狂気を遮断した彼らの絶対的な要塞だった。
「体を休めろ」
蓮は2人を見つめ、静かに告げた。
「長丁場になる。体力を1ミリでも回復させておくんだ。交代で見張りを立てる。まずは俺が――」
蓮がそう言いかけた、まさにその時だった。
『――ト、トン』
静まり返った理科室に、小さく、しかし異様なほど鮮明な音が響いた。
3人の身体が、同時に凍りつく。息が止まり、心臓が激しく跳ね上がった。
それは、風の音でも、遠くの爆発音でもなかった。理科室と廊下を隔てる、重厚なスライド扉の表面――分厚い木枠を、外側から誰かの指の関節が控えめに叩く、紛れもない『ノックの音』だった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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