第19話:窓の外の街【1/2】
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赤と緑の非常火災警報灯が、脈打つ心臓のように不規則な明滅を繰り返している。
特別棟2階の廊下は、まるで光の届かない深海のように冷たく、重苦しい静寂に沈んでいた。
理科室の重厚なスライド扉を背にし、蓮、葵、健太の3人は、息を殺して暗闇の中に立ち尽くしていた。
ジリリリリリリリ――ッ!
遠く本棟の方角から響き続ける非常ベルの金切り声が、不気味な遠鳴りとなって廊下の壁に反響している。換気扇のダクトや窓のサッシの隙間を伝って、本棟から立ち上る火災の煙が微かに流れ込み、焦げたプラスチックと生々しい肉の焼けるような異臭が鼻腔を刺激していた。
「……前衛は俺だ。葵は真ん中。健太は後ろを固めろ」
蓮は、自らの呼気さえも押し殺すような極小の囁き声で指示を出した。
「壁に近づきすぎるな。教室の角や扉の死角から手が伸びてくる可能性がある。廊下の中央、血の跡が少ない場所を選んで足を進めるぞ」
健太と葵が、声を出さずに深く頷く気配が背中越しに伝わってきた。
蓮は右手に持った手作りの『木柄の簡易槍』の切っ先を、斜め前方の暗がりへと低く向けた。左腕に国語辞典を巻きつけた防具を胸元に構え、腰をわずかに落とす。不意の遭遇にも即座に急所へ突きを繰り出せる臨戦態勢だった。
その直後を、アルミ柄の槍を抱えた葵が、足音を立てないよう靴底全体を使って滑るような忍び足で追従する。
最後尾では、ずっしりとした鉄パイプを肩に担いだ健太が、時折首を巡らせながら後方の深い闇を鋭く睨みつけていた。
カサッ……。
蓮の靴底が、床に散乱していた割れた窓ガラスの微小な破片を踏みしめる。
それだけの細かな音でさえ、極限の緊張下にある3人にとっては爆音のように響き、全身の筋肉が瞬時に硬直した。
(落ち着け。……焦るな)
蓮は心の中で冷徹に言い聞かせた。
非常ベルのけたたましい音に引き寄せられ、特別棟内部にいた感染者たちの大半は、本棟側や1階へ移動したはずだ。しかし、このフロアが完全に空になったという保証はどこにもない。
半開きになった教室の扉の陰、暗がりが濃く淀む階段の踊り場。どこに、あの白濁した瞳を持つ狂気の捕食者が潜んでいるかわからなかった。
3人は、1歩1歩、地雷原を歩くかのような慎重さで特別棟の廊下を進んでいった。
被服室、美術室、音楽室。
特別教室の扉の前を通り過ぎるたび、その暗い開口部の奥から今にも血まみれの腕が飛び出してくるのではないかという恐怖が、3人の神経をギリギリと締め上げる。
壁面には、パニックに陥った生徒たちが逃げ惑った際に残した、生々しい赤黒い手形が幾筋も擦り付けられていた。足元には、持ち主を失ったローファーや、引きちぎられた制服のネクタイ、そして黒々と乾きかけた大量の血溜まりが点在している。
10分ほどの時間をかけ、永遠にも思える緊張の回廊を抜けた3人は、ようやく特別棟の最奥――屋外の非常階段へ通じる、重厚な鉄製防火扉の手前まで辿り着いた。
「……着いたぞ」
健太が、張り詰めていた息を小さく吐き出し、安堵の表情を浮かべようとした。
しかし、その手前。
防火扉のすぐ横にある、特別棟東側の壁面を大きく切り取った「大型のガラス窓」に差し掛かった時、蓮の足がピタリと止まった。
普段なら、この大きな窓からは、彩葉市の中心部へと続く幹線道路と、その周囲に広がる穏やかな住宅街のパノラマが一望できるはずだった。
夕方になれば、帰宅ラッシュの車のヘッドライトがオレンジ色の川のように連なり、街灯が優しく路地を照らし、家々の窓からは家族団欒の温かな明かりが漏れてくる。そんな、見慣れた平和な日常の光景がどこまでも広がっている場所だった。
蓮は吸い寄せられるように窓枠へ手をつき、ガラスの向こう側に広がる世界を見つめた。
そして、眼下に広がるその光景を視界に捉えた瞬間、呼吸が完全に止まった。
「……嘘だろ……」
蓮の唇から、絶望そのもののような呟きがこぼれ落ちた。
その異変を察した葵と健太も、蓮の背後から恐る恐る窓へ近づき、外の世界を見下ろした。
「ウソ……これ……何……?」
葵が、震える両手を窓ガラスにつき、瞳を限界まで見開いた。
「おいおい……マジかよ……。映画のセットか何かかよ……」
健太の口から、手にした鉄パイプを取り落としそうになるほどの激しい動揺が漏れた。
窓の外。
眼下に広がる彩葉市の街並みは、彼らが知っている『日常』とは完全に別の惑星の風景へと変貌を遂げていた。
街は、燃えていた。
文字通りの、紅蓮の火の海だった。
学校から500メートルほど離れた場所を走る片側2車線の大型バイパス道路。
普段なら車のライトで規則的に彩られているはずのその主要幹線は、無数の車両が凄まじい勢いで激突し合い、ひしゃげ、折り重なるようにして完全に封鎖されていた。
玉突き事故などという生易しい規模ではない。まるで巨大な鉄のスクラップ置き場のように車と大型トラックが幾重にも絡み合い、その裂け目から真っ赤な炎の舌と、どす黒い重油の煙が夜空へ向かって噴き上がっている。炎の猛烈な照り返しが、垂れ込める雲を毒々しい赤銅色に染め上げていた。
『パーーーーーーーーーーッ!!!』
遠くから、押し潰された事故車両のクラクションが壊れたように一定のリズムで鳴り響き続けている。
バイパス周辺の側道でも、車線や信号のルールなど完全に崩壊して暴走した車が、電柱や店舗のガラス張りのショーウィンドウに突っ込み、横転して激しい白煙を噴き上げていた。
「……あれを見ろ」
蓮が、震える指先でバイパスのさらに向こう――巨大な郊外型ショッピングモールがある方角を指差した。
ショッピングモールの広大な屋外駐車場。
そこには、無数の黒い影が蠢いていた。
距離があるため個々の姿までは判別できない。しかし、その異常な密集度と群れの規模は、学校のグラウンドを埋め尽くしていた感染者たちのそれを遥かに凌駕していた。
逃げ惑う人々の影と、それを獰猛に追いかけて押し倒す無数の怪物たちの影。
群衆のパニックと無慈悲な殺戮が、街の最大拠点であるモール周辺で爆発的に拡大しているのは明白だった。
さらに、その周辺に広がる住宅街。
家々の明かりは、異常なほどまばらだった。
電力が完全に遮断されている区画が巨大な黒いシミのように広がり、その闇のあちこちから、木造家屋が燃え上がる局地的な火災の赤い火の手が幾つも立ち上っている。
消火活動が行われている気配は微塵もなかった。
消防車のサイレンの音も、パトカーの赤色灯の回転も、どこにも存在しない。
夜の底から響いてくるのは、絶え間なく続く遠い悲鳴と、鳴りやまぬクラクション、そして増大する火炎が木材と鉄骨を焼き尽くす不気味な重低音だけだった。
「……警察も、消防も……動いてない……」
葵が、冷たいガラスに額を押し当てながら、消え入るような声で呟いた。
「街中が……あんな風になってるのに……誰も助けに行ってない……!」
「動けるわけがねえよ……」
健太が、ギリッと奥歯を強く噛み鳴らした。
「あんなバカげた数の化け物が、街中に溢れ返ってんだぞ。パトカーが数台駆けつけたところで、あっという間に取り囲まれて引っくり返されるのがオチだ。……インフラも、治安も、何もかもが完全に吹き飛んじまってるんだ」
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