第17話:理科室のバリケード【2/2】
おかげさまで、月間ホラー〔文芸〕ランキングにランクインしました!
読んでくださっている皆さま、本当にありがとうございます!
ジリリリリリリリ――ッ!
非常ベルの音は、未だに止まることなく、校舎のどこかで鳴り響き続けている。窓の外――グラウンドの方角からは、無数の悲鳴と、何か重いものが崩れ落ちる音、黒煙とともに上がる炎の爆ぜる音が、絶え間なく届いていた。
蓮はポケットから小型のLED懐中電灯を取り出し、光量を1番低く絞って点灯させた。小さな温かみのある光の輪が、暗闇の中で身を寄せ合う3人の顔を静かに照らし出す。泥と血で汚れた制服。疲労困憊の表情。だが、その瞳の中には、死の恐怖を乗り越えた者だけが持つ、確かな生の光が宿っていた。
「……よし」
蓮は掠れた声で言った。
「安全は確保した。……これから、俺たちが置かれている『現実』を整理する」
理科室を包み込む漆黒の闇の中で、3人の荒い呼吸音だけが不規則に重なり合っていた。扉を固める人造大理石の実験台と重厚な教卓。その接合部からは、コンクリートと金属が軋み合う微かな摩擦音が時折漏れる。外からの激しい体当たりは、遮光シートによって気配を消されたことで次第に頻度を減らし、やがて不気味な遠鳴りのような静寂へと変わっていった。
蓮は、自分の手のひらの中で鈍い光を放つ小型LED懐中電灯の照射口を、指先で狭めながら足元へ向けた。直径数十センチの控えめな光の輪が、埃と泥に汚れたPタイルの床を照らし出す。
「……まずは、お互いの体を点検する」
蓮は擦れた低い声で切り出した。
「服の破れ、引っかき傷、特に噛み傷がないか。自分じゃ見えない背中や首筋も含めて、3人で順番に確認するんだ。……いいな?」
健太と葵は、無言で深く頷いた。この段階で、互いの体に1箇所でも感染者の牙や爪が触れた痕跡がないかを確かめることは、単なる衛生上の問題ではない。これからも共同体として互いを信じ合い、背中を預けられるかどうか。そのための、冷酷で決定的な確認だった。
「健太、お前からだ。制服を脱いで見せろ」
「おう……」
健太はモップの柄を床に静かに置き、汗でべったりと肌に貼りついた学ランとシャツを脱ぎ捨てた。日焼けした頑丈な上半身が、小さな懐中電灯の光に浮かび上がる。
蓮は葵を壁側へ背を向けさせつつ、健太の胸、脇腹、背中、そして両腕を念入りに調べた。肩のあたりに、廊下の壁に激しくぶつかった際にできたと思われる大きな紫色の打ち身と擦り傷があったが、出血は少ない。皮膚を鋭利な歯や爪で引き裂かれたような痕跡もない。手首の捻挫による腫れはあるものの、感染の兆候とされる不自然な血管の浮き上がりや黒ずみも見当たらなかった。
「問題ない。次は葵だ」
蓮の言葉に、葵が振り返り、セーラー服の襟元と袖を自分で手繰り寄せた。
「私……自分で見てみたけど、噛まれてないよ。さっき日高くんが掴んでくれた右手首と、膝を擦りむいただけ」
「見せてくれ。確認が必要だ」
蓮は葵の前にしゃがみ込み、彼女の膝と細い腕を照らした。膝のストッキングが破れ、痛々しく赤く擦りむけて血が滲んでいたが、それは転倒した際にアスファルトや床の砂利で擦った典型的な創傷だった。噛み痕特有の円形の歯型や、爪による不自然な平行した裂傷はない。腕や首筋も綺麗だった。
「よし……葵も大丈夫だ」
蓮は深く胸を撫で下ろした。
「最後は俺だな。健太、背中を見てくれ」
蓮はガムテープで強固に固定された左腕の国語辞典防具を慎重に外し、制服のジャケットとシャツを脱いだ。
ガムテープの強い締め付けから解放された左腕の皮膚は真っ赤に鬱血し、辞典の角が強く当たっていた部分には酷い内出血が起きていた。しかし、厚い紙の層と何重ものテープが防波堤となり、感染者の鋭い牙は皮膚の1ミリ手前で完全に遮断されていた。
健太が蓮の背中と首筋に懐中電灯の光を近づけ、じっくりと点検する。
「……傷はねえよ、日高」
健太の声に、安堵の色が混じった。
「ガムテープ防具、完璧に効いてたぜ。辞書に深い歯型がついてるけど、お前の皮膚には届いてねえ」
「そうか……よかった」
蓮はシャツを着直し、防具のガムテープを少し緩めた状態で巻き直した。3人全員に、感染の疑いはない。この極限状態において、その事実確認は何よりの救いだった。
「さて……次は水分の補給だ」
蓮は自分のリュックサックから、今朝家から持参した500ミリリットルのペットボトルのミネラルウォーターを取り出した。すでに3分の1ほど飲んでいたが、まだ十分な量が残っている。
「1人1口ずつ、ゆっくり含んで飲め。一気に飲むなよ。胃が受け付けないし、貴重な水分だ」
蓮はキャップを開け、まず葵に手渡した。
「ありがとう……日高くん」
葵は両手でボトルを受け取り、1口だけ口に含んで静かに喉を鳴らした。冷たい水が身体に染み渡るのを感じ、彼女の表情に微かな生気が戻ってくる。
続いて健太が受け取り、慎重に1口飲んだ。
「はぁー……生き返る……。水ってこんなに美味かったんだな」
最後に蓮が1口含み、乾ききった喉と唇を湿らせた。
水分補給を終えた3人は、暗闇の中で互いに肩を寄せるようにして床へ座り込み、理科室内の資源探索へと意識を向け始めた。
「ここに何があるかを把握する」
蓮は光量を落とした懐中電灯で、室内をゆっくりと照らし出した。
「ただ逃げ込むだけじゃ意味がない。ここにあるものを『道具』としてどう活用できるか、整理しておこう」
第1理科室は、実験用具と化学薬品、そして非常用の防災資材が豊富に揃った、学校内でも屈指の物資の宝庫だった。蓮と健太は立ち上がり、静かな足取りで棚やキャビネットを探索し始めた。葵も灯りの補助のために小型ライトを持ち、2人の足元や手元を照らす。
まず目についたのは、壁際のスチール製薬品庫だった。頑丈なガラス戸の向こうには、様々な褐色の薬品瓶が整然と並んでいる。
健太がガラス戸越しに薬品名のラベルを読み上げた。
「希塩酸……濃硫酸……水酸化ナトリウム……無水エタノール……。なぁ、日高。これさ、感染者にぶっかけたら大ダメージ与えられるんじゃねえの? 映画とかだと、薬品投げつけて撃退したりするだろ」
蓮は薬品庫のラベルを一瞥し、即座に首を横に振った。
「絶対にダメだ。使うな」
「なんでだよ? 硫酸とか強酸だぞ?」
「強酸や強アルカリの危険性を甘く見るな」
蓮の思考は、どこまでも冷静だった。
「濃硫酸や濃塩酸を瓶ごと投げつければ、ガラスが砕けて中身が周囲に飛散する。狭い廊下や室内でそんな真似をしてみろ。飛び散った液滴が俺たちの皮膚や目に付着して、重い化学熱傷を負うリスクの方が圧倒的に高い。それに、濃塩酸からは刺激性の強い塩化水素ガスが発生するおそれもある。閉鎖空間で吸い込めば、俺たち自身が先に動けなくなるぞ」
「う……そりゃヤバいな」
健太は引いたように手を引っ込めた。
「薬品を兵器として使うのは、扱う側の防護装備が完璧な時だけだ」
蓮は薬品庫の隣にある別の棚を開けた。
「俺たちが使えるのは、こういう日常的な道具だ」
棚の中から出てきたのは、サバイバルに直結する実用的な物品の数々だった。
・大型の耐熱・防切創(防刃)作業用革手袋(3双)
・実験用の安全保護メガネ(プラスチック製・4個)
・未開封の大型救急箱(消毒液、ガーゼ、包帯、脱脂綿、安全ピン、サージカルテープ、鎮痛剤)
・洗浄用蒸留水のポリタンク(2リットル×2本)
・小型のガストーチ(ガスライター充填式・2個)
・実験用の長柄チャッカマン(3本)
・ガラス切りナイフ(1本)
・万能工具セット(ペンチ、ドライバー、ニッパー、ラジオペンチ)
・予備の太口ガムテープ(布製・5巻)
・耐熱アスベストシート(消火用・2枚)
「すごい……こんなにあるんだ」
葵が思わず感嘆の声を漏らした。
「ああ、十分すぎる成果だ」
蓮は革手袋を手に取り、健太と葵に1双ずつ手渡した。
「この革手袋をはめろ。ガラスの破れ目や、感染者の爪・歯から手を守るのに絶大な効果がある。怪我をした手じゃ、武器も握れなくなるからな」
2人は即座に革手袋を装着した。厚手の革が手を包み込み、安心感がグッと増す。さらに、安全保護メガネも全員が装着した。感染者の飛散する体液や血液が目に直接入るのを防ぐためだ。
「この蒸留水のポリタンクは貴重だ」
蓮は2リットルのポリタンクをリュックサックへ押し込んだ。
「水道が止まった今、水は命そのものだ。飲むだけじゃなく、傷口の洗浄にも使える」
救急箱の中身からは、消毒液と包帯、絆創膏を取り出し、葵のポケットと健太のポケット、そして蓮のリュックへ均等に分配した。万が一、途中で離散した際にも、各自が最低限の応急手当を行えるようにするためだ。
「……なぁ、日高」
健太が棚の奥から、1本の重厚な金属の脚部を引き出してきた。折れた実験用スタンドの鉄パイプだ。長さはおよそ80センチ。程よい重みと硬度がある。
「これ、モップの柄より頑丈だぜ。先端も尖ってるし、殴るにも突くにもちょうどいい」
「いい獲物だな。モップの柄は木製だから、激しく打つと折れる危険があった。それを使え」
健太はニヤリと笑い、鉄パイプを固く握りしめた。モップの木棒から、頑丈な鉄パイプへ。武器を持ち替えただけで、健太の頼もしさは格段に跳ね上がった。
理科室内の資源探索と装備の強化を終えた3人は、再び部屋の中央の床へ腰を下ろした。
防具の補強、武器の確保、水と救急資材の分配。数十分前まで無防備な高校生だった3人は今、理科室の知恵をフル活用した生存者パーティへと変貌を遂げていた。
しかし、装備が整ったからといって、外の状況が好転したわけではない。
ジリリリリリリリ――ッ!
天井の非常ベルは、相変わらず鼓膜を刺すような高音で鳴り続けている。
そして、遮光シートで覆われた高窓の隙間、さらに壁を通じて、外の地獄の音が絶え間なく伝わってきていた。
「キャアアアアアアッ!!」
「助けて! 誰か助けてぇぇぇッ!!」
「ドカンッ!! ガシャーン!!」
本棟の方角から響く、凄まじいガラスの割れる音と爆発音。体育館の方角から聞こえる、数百人の悲鳴と押し合いへし合う怒号。そして、それらを噛みちぎるような生々しい破壊音。さらに、グラウンドを埋め尽くしているであろう無数の感染者たちの、地鳴りのような呻き声。静まり返った理科室の中で、その音を聞いているだけで、精神が削り取られていくような感覚に襲われる。
「……外、どうなってるのかな」
葵が膝を抱え、小さく呟いた。彼女の瞳は、足元の床の1点を見つめていた。
「本棟は、完全に壊滅したと思われる」
蓮は冷静に状況を分析し、言葉にした。
「火災が発生している音も聞こえる。化学室かどこかの薬品に引火したか、ショートした配線から燃え広がったんだろう。煙と炎で、本棟の中にいた生徒たちは二重の意味で追い詰められているはずだ」
「体育館も……ダメだろうな」
健太が鉄パイプを床に置き、苦い表情で言った。
「あの全校集会で集められた400人……施錠されたバリケードの中で、逃げ場もなくあいつらに襲われてる。外の門も破られたんだ。正門からなだれ込んだ奴らも加わって、学校全体が化け物の巣窟だ」
「……警察や自衛隊は、本当に来ないのかな」
葵が、すがるような目で蓮を見た。
蓮はポケットの中のスマートフォンを取り出した。画面は真っ黒なまま、電源は落ちている。だが、電源を入れたところで「圏外」の表示が変わらないことは分かっていた。
「来ない」
蓮は、はっきりと言い切った。
「もし警察や自衛隊が動ける状況なら、すでにヘリコプターの音が聞こえるか、広報車のアナウンスが聞こえるはずだ。だが、聞こえるのは非常ベルと悲鳴、火災の音だけだ。……これは、この学校だけの問題じゃない」
蓮は、前日2階の自分の部屋の窓から見た光景や、テレビのニュース、父からの電話の言葉を頭の中で繋ぎ合わせた。
「全市……いや、隣県や首都圏も含めた、広域での同時多発的な崩壊が起きてるんだ。通信インフラがダウンし、警察も消防も行政も、最初の1波で完全に処理能力を超えてパンクした。……今、この街に公的な救助なんて存在しない」
蓮の分析は残酷だった。大人に頼る。国家に頼る。警察に守ってもらう。そんな前提は、この数時間で完全に過去のものとなっていた。
「……じゃあ、俺たちは……」
健太がゴクリと唾を飲み込んだ。
「俺たちは、自力で生き残る」
蓮は2人をまっすぐに見つめた。
「学校はもう安全な避難場所じゃない。ただの死体と化け物の山だ。ここに長居すれば、本棟の火災がこちらに燃え移るか、いずれあいつらにこの理科室のバリケードすら突破される。……俺たちの脱出ルートは、決まっている」
蓮は指を1本立て、理科室の奥にある窓の方角を指した。
「特別棟の裏手にある非常階段。あそこから1階の裏庭へ降りる。裏庭のフェンスの破れ目から学校の外へ脱出し、まずは1番近い葵の家を目指す。それから俺の家、健太の家だ」
「……うん」
葵が力強く頷いた。彼女の目から、迷いの色は消えていた。
「私、お父さんとお母さんに会いに行く。絶対、生きて家へ帰る」
「おうよ! 俺だって、オカンの顔見ねえと死んでも死にきれねえからな!」
健太も鉄パイプを強く握り直し、胸を張った。
3人の心が、暗闇の中で再び固く1つに結ばれた。
「決まりだ」
蓮は時計を確認した。部屋の壁掛け時計は、午後6時40分を指していた。遮光シートの隙間から伺える外の気配は、完全に日没を迎え、濃密な夜が世界を支配し始めている。
「暗闇は、俺たちの味方だ」
蓮は静かに立ち上がり、腰のサバイバルナイフの柄に手を当てた。
「あいつらは光と音に反応する。夜になれば、奴らの視界は極端に狭まる。俺たちが足音を殺し、光を最小限にして影から影へ移動すれば、無数の群れを回避して脱出できる確率は格段に上がる」
「脱出のタイミングは……いつだ?」
健太が緊張した面持ちで尋ねる。
「今から20分後。午後7時ちょうどだ」
蓮は告げた。
「それまでの20分間、体力を温存し、息を整えろ。これが、俺たちが学校で過ごす、最後の20分になる」
3人は無言で頷き、再び床に身を横たえた。
遮光シートで密閉された理科室の要塞。
非常ベルの甲高い金切り声と遠い悲鳴が響き続ける暗闇の中で、少年たちは武器を強く抱き締め、静かにその刻限を待った。完全な闇に包まれた校舎の中で、命がけの脱出に向けた緊張の時間が、1秒1秒と静かに刻まれていく。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
面白かった、続きが気になると思っていただけたら、執筆を続ける大きな励みになります。
ぜひ、この下にある「評価」で★をつけて応援してください!
これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




