第17話:理科室のバリケード【1/2】
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重厚なスライド扉が引き破られんばかりに軋み、真鍮製のシリンダー錠が『カチリ』と最後の抵抗を見せて噛み合った瞬間、特別棟2階・第1理科室の空間は、外の世界の狂乱から辛うじて切り離された。
押し殺した息の混じる、激しい喘ぎ声だけが暗闇に漂う。
蓮は扉に背中を預けたまま、冷たく濡れたコンクリートの床へ倒れ込むように膝をついた。全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出し、制服のシャツが不快な湿り気で背中にべったりと張りついている。
右手に握りしめたサバイバルナイフの柄には、己の脂汗と、先ほど切り裂いた感染者のどす黒い血液が混ざり合い、ぬめり気を帯びて手のひらに生々しくまとわりついていた。左腕を締め付ける「鎧」――国語辞典と分厚い現代文の教科書をガムテープで何重にも巻きつけた防具が、急激に上昇した血圧と激しい心拍によって、鬱血した腕をドクドクと激しく圧迫している。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ、ハァ……ッ……!」
すぐ隣では、健太が膝に両手を突き、今にも吐き出しそうな勢いで肺に溜まった灼熱の空気を吐き出していた。手にしたモップの柄を握る手は、先ほど感染者の頭部を力任せに殴打した際の強烈な手応えで掌の皮が剥けたらしく、じんわりと赤い血が滲み出ている。
その奥、実験台の暗がりに小さく丸まっているのは葵だった。葵は両手で自らの口元を固く覆い、涙に濡れた大きな瞳を見開いたまま、肩を激しく上下させていた。膝まわりは廊下の泥と不気味な赤黒い汚れでまみれている。それでも、幸いなことに噛み痕も、爪による裂傷も見当たらなかった。
ドガガガガッ!! ドドドドドンッ!!
スライド扉のすぐ向こう側――廊下から、耳をつんざくような激しい衝撃音が響き渡った。追いついてきた感染者たちが、閉ざされた扉にその肉体を直接ぶつけ、爪の割れた指先で木枠やすりガラスを乱暴に引っ掻いているのだ。
扉の表面が、衝突のたびにボコン、ボコンと嫌な音を立てて微かに歪む。シリンダーの金属パーツが軋みを上げ、錆びた真鍮と生臭い血液の混ざった悪臭が、扉の僅かな隙間から室内にまで漏れ届いてきた。
「ギシャァァァァッ!!」
「アガァァァ……! アァァァッ!!」
扉越しに聞こえるのは、かつてこの校舎で共に学び、笑い合っていたはずの同級生や教師たちの、狂気に満ちた咆哮だった。彼らにはもう、人間としての理性も、言葉も、知性も残されていない。そこにあるのは、扉のこちら側に潜む「生の匂い」と「動く肉」を求め、ただひたすらに障害物を打ち砕こうとする、純粋で飢えた捕食の衝動だけだった。
「……持ちこたえてくれよ……」
健太が、掠れきった声で祈るように呟いた。
「頼むから……折れてくれるなよ、その鍵……」
「鍵だけに頼るな」
蓮は荒い息を必死に押し殺しながら、低い声で言った。右手のナイフを1度床に置き、震える手で左腕のガムテープ防具の締め付けを軽く確かめる。痛む腕の筋肉を強引に意識の外へ追いやり、理科室内の暗がりへ鋭い視線を走らせた。
「あのシリンダーは長持ちしない。あいつらには痛覚がないから、骨が砕けようが腕が折れようが、体重のすべてをかけて扉を押し続けてくる。数分もしないうちに木枠が割れるか、シリンダーの受け皿がコンクリートから抜け落ちるぞ」
「じゃあ……どうするんだよ!?」
健太が血走った目を向けた。
「決まってるだろ。バリケードを作る」
蓮は床に置いたナイフを再び深く握り直した。
「扉を完全に塞ぐ。あいつらの質量を正面から受け止められるだけの『壁』を、今すぐここに構築するんだ」
蓮の言葉に、暗闇で体を丸めていた葵が、ハッと顔を上げた。彼女は涙を制服の袖で拭うと、震える足でまっすぐに立ち上がった。
「私……やるよ。何を引きずればいいの?」
「葵……」
蓮は一瞬、葵の瞳を見た。そこには、恐怖に押し潰されかけていた数分前の弱々しさはない。自分たちの足で生き残る――その強い決意の光が、瞳の奥に戻っていた。
「よし。健太、お前は俺と一緒に1番重いヤツを運ぶ。葵は、扉の隙間から光が漏れないように、窓と扉のすりガラス部分を隠すものを探してくれ」
「了解だ!」
健太がモップの柄を壁に立てかけ、気合を入れるように力強く両手を打ち合わせた。
理科室という空間は、一般的な教室とは構造が大きく異なる。生徒用の木製デスクではなく、表面に厚い人造大理石や耐薬品性の合成樹脂が貼り合わされた、極めて重量のある「実験台」が幾つも配置されているのだ。さらに壁際には、スチール製や木製の薬品棚、器具収納庫、そして教壇代わりの大型デスクもある。それらは人間が簡単に動かせるものではない。だからこそ、1度設置してしまえば、感染者たちの突進を食い止める「要塞の壁」となり得る。
「ターゲットは、あの教卓と、1番手前のアシスタント用実験台だ」
蓮が懐中電灯の光を絞り、足元だけを照らしながら指示を出した。
「教卓は中にガラス器具や教本が入っていて重い。まずはこれを、扉に対して垂直じゃなく『水平』に横付けする。扉の面全体に体圧を分散させるためだ」
「おうっ! 任せろ!」
健太が教卓の端に手をかけ、腕の筋肉を盛り上げた。
「せーのっ……ぐっ、ぬうぅぅぅッ!!」
ガガガガガッ!!
教卓の金属脚が理科室の床タイルを激しく削り、甲高い摩擦音が響く。蓮も反対側の端に肩を放り込み、全身の体重をかけて押し込んだ。脚の筋肉が悲鳴を上げ、視界の端が酸素不足でチカチカと明滅する。
「押せ! 足を引くな!」
蓮の怒号に合わせ、健太が渾身の力を込める。
ズズ、ズズズ……。
200キロ近くある教卓が床を滑り、スライド扉の真前へと横付けされた。
扉の向こうからの激しい体当たりによって、すりガラスがギシッと悲鳴を上げて内側へ歪んでいた。しかし、横付けされた教卓の分厚い天板が、その歪みを内側からガッチリと受け止める。
ガシャーンッ! ドンッ!!
扉の向こうで感染者がさらに強く体をぶつけてきたが、教卓の巨大な質量が衝撃を正面から受け止め、扉の軋みはピタリと収まった。
「効いてる……! 効いてるぞ、日高!」
健太が汗だくの顔でニヤリと笑った。
「まだだ! これだけじゃ教卓が押し滑らされる! 次はあの生徒用実験台を引きずってきて、教卓の『後ろ』に噛ませる! テコの原理で突っ張り棒にするんだ!」
蓮の頭脳は、極限状態のプレッシャーの中で、物理的な強度を冷徹にはじき出していた。ただ物を積み上げるだけでは意味がない。外からの強い「押し」に対して、内側からどう力を分散させ、床との摩擦を最大化させるか。父から幼い頃に叩き込まれた、アウトドアやサバイバルでの「現場処理の知恵」が、蓮の脳内で1つの設計図として組み上がっていく。
「葵! 実験台の下にあるガスホースと水管の固定ボルトは外れてるか!?」
蓮が叫ぶと、実験台の影で作業していた葵が声を張り上げた。
「うん! この台は可動式の予備台だから、配管は繋がってない! キャスターのロックは解除したよ!」
「よし! 引くぞ!」
蓮、健太、葵の3人が、人造大理石の天板を載せた大型実験台に手をかけた。
「1、2の……3ッ!!」
ゴゴゴゴゴゴッ……!!
重厚な実験台が床を滑り、教卓の背後へと隙間なくピタリと収まった。
さらに、実験台のキャスター4箇所すべてのロックを足で固く踏み込み、足元には実験用の分厚い木製丸椅子を何脚も斜めに突き挟む。床と天板の間に「楔」を作り、実験台が動く余地を完全に奪っていく。これで、外からどれほど強い圧力がかかろうとも、内側の実験台と椅子が床に食い込み、扉が内側へ倒れ込むことはない。
ドドドドドンッ!!
扉の向こうから激しい体当たりが何度も繰り返される。しかし、完成した強固なバリケードは微動だにしなかった。重い衝突音も、ただの虚しい打撃音となって理科室内に響くだけだった。
「……やった……か……?」
健太が膝に手を突きながら、荒い息を吐き出した。
「待て、まだ終わりじゃない」
蓮は肩で息をしながらも、懐中電灯の光を扉の上部――すりガラスの小窓へと向けた。
扉の木枠の上部には、縦30センチ、横50センチほどのすりガラスが嵌め込まれている。そこからは、廊下の非常火災警報灯が放つ赤と緑の不吉な光がチカチカと漏れ込んでいた。さらに、外でうごめく感染者たちの顔や血の手形が、不気味なシルエットとなって透けて見えている。
「あのガラスが割れたら、そこから腕を突っ込まれて、内側のバリケードを崩されるかもしれない。光が漏れてるのも危険だ」
蓮の指示を瞬時に理解した葵が、即座に行動を起こした。彼女は準備室の隅にあった黒い実験用遮光シートと、太口のガムテープを抱えて戻ってきた。
「日高くん、これ使って!」
「助かる!」
蓮は葵から遮光シートを受け取ると、健太の肩を踏み台にして教卓の上へ駆け上がった。分厚いビニール製の黒いシートをすりガラス全体に覆いかぶせ、その端をガムテープで何重にも強力に貼り付けていく。
バリッ、バリッ、バリッ!
テープを引き裂く乾いた音が理科室に響く。シートがガラス全体を覆い尽くした瞬間、廊下から差し込んでいた不気味な赤と緑の光は完全に遮断され、理科室内は濃密な漆黒へと沈み込んだ。
そして、光が遮られたことで、外の感染者たちも目の前にあった獲物の気配を見失ったようだった。
「……ウゥ……?」
「……アァ……」
扉を叩く激しい衝撃が、次第に弱まっていく。外の感染者たちは、扉の中に生き物がいるのか確信を持てなくなり、ただ無目的に周囲をうろうろと徘徊するだけになった。
ズズ……ズズズ……。
足音が少しずつ扉から離れ、廊下の奥へと散っていく気配が伝わってくる。
「……はぁ……はぁ……はぁ……っ」
教卓の上から飛び降りた蓮は、その場に座り込み、深く息を吐き出した。
バリケードの構築は、ひとまず完了した。スライド扉の前には、重量数百キロに及ぶ教卓と実験台、そして楔となった丸椅子の群れが壁のように連なり、上部のすりガラスは黒い遮光シートで完全に覆われている。外の狂気から自分たちを隔てる、強固な「安全地帯」が、ようやく形になったのだ。
「……すげえな、日高……」
健太が暗闇の中で床に倒れ込み、感嘆の声を漏らした。
「お前……本当にただの事なかれ主義だったのかよ? 手際がプロのそれだぜ……」
「……ただの思いつきだ」
蓮はナイフを自分の膝の上に置き、固く閉じた目を手甲で覆った。
「父さんが……ずっとこういうサバイバルの本を読んでたからな。刷り込まれてただけだ」
「それでもすごいよ、日高くん」
葵が蓮のすぐ隣に腰を下ろし、優しく声をかけた。彼女の手が、蓮の震える肩にそっと触れる。
「日高くんがいなかったら……私たち、今頃あの廊下で……」
葵は言葉を詰まらせた。言わなくても分かっていた。もし蓮の冷徹な判断と具体的な指示がなかったら、自分たちはあの惨劇の廊下でパニックを起こし、感染者たちの餌食になっていたはずなのだ。
理科室内は、完全な静寂を取り戻していた。聞こえるのは、3人の荒い呼吸音と、エアコンの停止した室内に漂う薬品のツンとした匂い。そして――窓の外から遠く響いてくる破壊と破滅の音だけだった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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