第16話:狂乱の廊下【2/2】
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葵が煙の中から飛び込み、続いて健太がモップの柄を構えたまま滑り込む。
「入ったぞ、日高!」
「よし……!」
蓮が最後に中へ飛び込もうとした、まさにその瞬間だった。
濃い煙の奥から、白濁した2つの眼球が、剥き出しの殺意を宿して蓮の顔面へと急速に迫ってきた。壊れた昇降口から侵入してきたと思われる、大柄な男性の感染者だった。男は両腕を大きく広げ、蓮の身体ごと非常階段へと押し倒そうと、凄まじい質量を乗せて跳躍してきたのだ。
「アガァァァァァァァッ!!」
背後には開いた防火扉と、避難したばかりの2人がいる。ここで押し倒されれば、全員が非常階段の底まで転がり落ち、群がる感染者の餌食となる!
(押し返すのは無理だ……! だったら――!)
蓮は一瞬で判断を下した。
回避するのではなく、あえて前方に強く踏み出し、左腕のガムテープ防具を男の胸元へと真っ直ぐ押し当てた。そして、男の猛烈な前進の勢いをそのまま利用し、右手で男の制服の襟首を掴むと、己の身体を鋭く捻りながら背後へと引きずり倒すように身を沈めた。
柔道の「空気投げ」――!
父が幼い頃にサバイバルの手ほどきと共に教えてくれた、相手の質量と突進力をそのまま利用する体捌き。
大柄な感染者の身体が蓮の肩口をかすめるように通過し、白い煙の中から防火扉の向こう側――蓮たちが今飛び込んだ空間の床へと激しく叩きつけられた!
ドドシャァァンッ!!
男の巨体が床に激突し、苦悶の声を上げる間もなく胃の内容物を撒き散らす。
「日高っ!?」
健太が驚愕の声を上げた。
「扉を閉めろ! 押せぇぇぇッ!!」
蓮は床に転がる感染者の顔面を踏みつけ、その反動で身体を非常階段の内側へと倒し込みながら、開いていた重い鉄扉の取っ手を掴み、全身の力を込めて一気に引き寄せた!
バタンッ!!!!
重厚な鉄の扉が、凄まじい衝撃音を轟かせて枠へと収まった。蓮は間髪を容れず、ドア中央の金属製サムターンを、指が折れそうなほどの力で回転させた。
カチャンッ!!
シリンダーが固く噛み合い、施錠が完了した。
直後――。
ドドドドドンッ!!
扉の反対側から、追いかけてきた無数の感染者たちの体当たりと、床から跳ね起きた男の強打が、鉄扉を激しく叩きつけた。分厚い鉄板が微かに軋み、凄まじい金属音が非常階段の狭い空間に反響する。
しかし、堅牢な防火扉と施錠されたシリンダーは、その凶暴な圧力をしっかりと受け止め、1度として開くことはなかった。
「……ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
蓮は扉に背中を預け、ズルズルと滑り落ちるようにして床に座り込んだ。
全身から滝のような汗が噴き出し、視界が酸欠によってチカチカと明滅している。右手は激しく痙攣し、握りしめたサバイバルナイフの柄は、自分自身の汗と感染者の返り血でぬめりを帯びていた。呼吸がまともに整わない。喉の奥がカラカラに乾き、息を吸い込むたびに肺の底が灼熱の炎で炙られるような激痛が走る。左腕を覆うガムテープと国語辞典の防具は、激しい疾走と格闘によって血流を阻害し、腕全体が締め付けられるようにドクドクと重く脈打っていた。
扉の向こう側からは、非常ベルの甲高い絶叫と、鉄扉を引っ掻き叩く不気味な衝撃音が今もなお響き続けている。
しかし、この重い鉄の壁1枚が、彼らと「狂気の地獄」を明確に隔てていた。
生き残ったのだ。彼らは学園の中で巻き起こった最初の破滅と、狂乱の廊下を突破し、ついに死地を脱した。
蓮のすぐ隣で、健太もまたモップの柄を床に投げ出し、大の字になって倒れ込んでいた。制服のシャツは汗で肌にぴったりと張りつき、分厚い胸板が激しく上下している。日焼けした額から流れ落ちる汗の粒が、暗いコンクリートの床にポタポタと落ちて黒い染みを作っていた。
そして、葵。
葵は蓮の真横で壁に背を押し当て、両手で自らの口元を固く覆ったまま、膝を折って蹲っていた。その黒く澄んだ瞳からは堰を切ったように涙が溢れ出し、血と泥に汚れた白い頬を濡らしながら、顎先から滴り落ちている。
だが、彼女は悲鳴を上げることも、大声で泣き叫ぶこともしなかった。ここで声を漏らせば、自分たちの潜伏場所を外の怪物たちに知らせることになると、本能で察知していたのだ。葵は指先が白くなるほど口元を強く押さえつけ、肩を激しく震わせながら、胸の奥底から込み上げてくる恐怖と吐き気を必死に呑み込んでいた。
「……持ちこたえてくれよ……」
健太が、掠れきった声で祈るように呟いた。
「頼むから……折れてくれるなよ、その鍵……」
蓮はサバイバルナイフを床に置き、震える指先でシリンダーのサムターンを確かめた。堅牢なビル用の防犯シリンダーだ。戸枠のラッチもしっかりと金属の受け座に噛み合っている。外からどれほど肉体をぶつけようとも、人間1人の筋力や数人の質量程度でこの鉄扉がこじ開けられることはない。
「……大丈夫だ」
蓮は極限の疲労の中、自分自身と仲間たちを落ち着かせるように静かに告げた。
「シリンダーは正常に噛み合ってる。扉も防犯用の強化鉄板だ。あいつらがいくら体当たりしても、この扉は破れない」
その言葉を聞いて、健太は深く息を吐き出し、天井を仰ぎながら床に頭を預けた。
「助かった……のか……。俺たち……あの地獄から、逃げ切ったのか……」
「一時的にな」
蓮は短く答え、息を整えながら周囲の空間へと視線を走らせた。
そこは、特別棟の最奥に位置する、屋外へ通じる非常階段の踊り場だった。
天井の壁に設置された緑色の「非常口」誘導灯が、電圧の乱れによってチカチカと不吉に明滅している。その青白い緑の光が、コンクリートの打ちっぱなしの壁と、足元に広がるサビついた鉄製階段を、おどろおどろしい陰影と共に浮かび上がらせていた。
蓮はポケットから小型のLED懐中電灯を取り出した。
光量を極限まで絞り、指先でレンズの半分を覆い隠しながら、足元と階段の上方、下方を順番に照らし出す。
「……上下の確認をする」
蓮は低い声で告げた。
「上は屋上へ続くドアだが、鍵がかかっているはずだ。下は1階の裏庭へ続く階段。……階段の中に、あいつらが潜んでいないか確かめる」
蓮は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、一瞬膝がカクリと折れかけた。
「日高くん……!」
葵が咄嗟に手を伸ばし、蓮の腕をしっかりと支えた。その手は氷のように冷たかったが、指先には確かな力がこもっていた。
「無理しないで……私、見るよ」
「いや、俺がやる」
蓮は葵の手の上に自分の手を重ね、静かに首を横に振った。
「お前は体力を温存しろ。……怪我はないか?」
蓮は葵の全身へ視線を滑らせた。セーラー服は泥と煤で汚れ、膝のあたりのストッキングが破れて皮膚が赤く擦りむけていたが、噛み痕や爪による深い切創は見当たらなかった。
「私は……大丈夫。擦り傷くらいだから」
「噛まれてないな? 爪で引っかかれてもいないな?」
「うん。日高くんが……ずっと庇ってくれたから」
葵は切なそうに目元を和らげ、蓮の瞳を見つめ返した。
蓮は次に、健太に視線を向けた。
「健太、お前は?」
「俺か? 俺はピンピンしてるぜ。モップの柄で奴らの顔面をぶん殴った時の衝撃で、手首がちょっと捻挫気味って程度だ。噛み傷なんて1箇所もねえよ」
健太は自分の腕や脚をバシバシと力強く叩いて見せた。
「よかった……」
蓮は胸の底から安堵の息を吐き出した。
もし、この3人のうち誰か1人でも感染者に噛まれていたら。その瞬間に彼らの結束は崩壊し、互いに武器を向け合わなければならなくなる。それだけは何としても避けたかった。
蓮は懐中電灯の光を絞ったまま、慎重に非常階段の手すりへと歩み寄り、隙間から下方の暗闇を覗き込んだ。
コンクリートと鉄で作られた階段が、1階の裏庭へと向かってつづら折りに伸びている。下からは冷たい夜風がサァッと吹き上がってきており、生々しい血の匂いと共に、遠くのグラウンドから響く狂乱のざわめきが微かに届いていた。踊り場にも段の上にも、動く影はない。
(下は……クリアだ)
続いて、上方の屋上へ続く階段を見上げた。重厚な鉄扉がしっかりと閉ざされており、施錠されているのが確認できた。上から何かが降りてくる気配もない。
「階段内は安全だ。……ここで少し、息を整える」
蓮は懐中電灯を消し、再び壁際に腰を下ろした。
深い闇が3人を包み込む。緑色の非常口誘導灯の明滅だけが、一定の間隔で彼らの強張った表情を青白く照らし出していた。
静寂が降りる。
鉄扉の向こう側から響く鈍い打撃音と、遠くの校舎から上がる火災の爆ぜる音、そして鳴り止ぬ非常ベルの金切り声。それらの不吉な環境音の中に、3人の荒い呼吸音だけが重なり合っていた。
「……なぁ、日高」
健太が、闇の中でぽつりと口を開いた。
「俺たち……本当に、学校から出られるのかな」
健太の声から、先ほどまでの威勢のいい強がりは消え失せ、等身大の17歳の少年が抱く剥き出しの不安が滲み出ていた。
「外に出たってさ……街はどうなってんだよ。警察も、自衛隊も、消防も……全滅してんだろ? 家へ帰ったって、誰もいないかもしれないんだろ……?」
健太の投げかけた問いは、この場にいる全員が胸の奥底で最も恐れていた疑念そのものだった。
通信は完全に遮断されている。テレビもラジオもインターネットも機能していない。自分たちが当たり前のように享受してきた「社会」という安全なシステムは、このわずか数時間のうちに跡形もなく崩壊してしまったのだ。学校の外に広がる彩葉市の住宅街。そこが、この学校以上に凄惨な地獄と化している可能性は極めて高かった。
葵が己の膝を抱え込み、小さく身体を縮こまらせた。
しかし、蓮は闇の中で、サバイバルナイフの柄を力強く握りしめた。
「健太」
蓮の声は低く、しかし力強く闇を切り裂いた。
「外がどうなってようが、関係ない」
「え……?」
「父さんは言った。『家族を守れ』って。『生き延びろ』って。……俺の家には、母さんと妹の結衣がいる。鍵をかけて、俺の帰りを待ってるはずだ。お前の家にも、お前の家族がいるだろ。葵のご両親だって、絶対に生きている」
蓮は葵の細い肩にそっと手を置いた。葵が息を呑んで顔を上げる。
「誰かが助けに来てくれるのを待つ時間は終わったんだ。これからは、俺たちの足で走り、俺たちの手で道を切り拓くしかない。……家へ帰るんだ。俺たちの手で、家族を確かめに行くんだよ」
蓮の言葉には、客観的な証拠は何ひとつなかった。
外の世界が安全だという保証も、家族が無事だという確証も存在しない。
しかし、その言葉には、極限状態の中で揺らぐ仲間たちの心を繋ぎ止める、圧倒的な強さと熱が宿っていた。
「……ふっ」
健太が、暗闇の中で鼻を鳴らして笑った。
「相変わらず、カッコいいこと言い上がって……。事なかれ主義の平均点男が、いつの間にそんな熱血リーダーになったんだよ」
「熱血じゃない。ただの生存戦略だ」
蓮は淡々と言い返したが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
「よしっ!」
健太は自分の両頬を平手でパンッと強く叩いて立ち上がった。
「決まりだな! こんな血臭い学校、さっさと脱出してやるよ! 俺のオカンに『遅い!』って怒鳴られる前に、家に帰りついてやる!」
葵も制服の袖で丁寧に涙を拭い、しっかりと立ち上がった。その瞳からは、もう涙はこぼれていなかった。
「日高くん、城山くん。……ありがとう。私、もう迷わない。一緒に行く」
過酷な極限状況の中で、3人の心が1つの強固な絆として結実した瞬間だった。
蓮は、自身の装備の最終点検を開始した。
腰のベルトに挿したサバイバルナイフ。鞘から引き抜き、刃の表面に付着した血糊を、理科準備室から持ち出していた予備のウエスで念入りに拭き取る。黒くコーティングされた鋼刃が、誘導灯の緑の光を浴びて冷たく輝く。
左腕の防具。ガムテープの巻き具合を強く締め直し、ズレがないかを入念に確認する。
ポケットの中の大型マグライトと、小型LEDライトのスイッチの点灯確認。
リュックサックの中身。消毒用エタノールのポリタンク、チャッカマン、予備のバッテリー、そして非常食のカロリーメイトと保存水。
健太も、手にしたモップの柄の強度を確かめるように、両手で強くしならせた。
「よし、折れてねえ。まだまだこいつで化け物どもの頭をぶち割れるぜ」
葵は蓮から手渡された予備の小型懐中電灯を握り、セーラー服のポケットにしっかりと収めた。
「全員、準備はいいか」
蓮が静かに尋ねる。
「いつでもいけるぜ」
「うん、大丈夫」
「よし。脱出作戦を開始する」
蓮は、非常階段の下へと続く手すりに手をかけた。
「階下に降りたら、裏庭を通って弓道場の脇のフェンスを目指す。フェンスの破れ目から学校の敷地外へ脱出したら、まずはここから1番近い葵の家を目指す。……移動中の鉄則は3つだ」
蓮は指を1本ずつ立てながら、低く明瞭に告げた。
「1つ、絶対に大声を出すな。会話は最小限の小声で行う。
2つ、懐中電灯の光を無闇に周囲へ向けるな。足元だけを最低限照らす。あいつらは光と音に反応する。
3つ、もし途中で感染者に出会ったら、可能な限り回避する。倒さざるを得ない場合のみ、俺と健太で頭部を破壊する。……いいか?」
「了解!」
「わかったわ」
「行くぞ」
蓮を先頭に、3人は足音を極限まで忍ばせながら、非常階段の段差をゆっくりと降り始めた。
カツン、カツン、とサビついた鉄板が微かな音を立てる。夜風が一段と強まり、裏庭の木々がざわめく音が遠くから届いてくる。非常階段の踊り場を1つ曲がり、2つ曲がり、1階の裏庭の出口へと近づいていく。
頭上の本棟からは、依然として炎の爆ぜる轟音と、非常ベルの悲痛な金切り声、自由を奪われた生徒たちの叫び、そして建物が軋み崩壊していくような重い振動が伝わってきていた。
県立彩葉第一高等学校。
彼らが日常を過ごした平和な学園は、今や完全に紅蓮の炎と狂気の渦の中に沈み、破滅の時を迎えていた。
1階の裏庭の出入口に到達する。
ドアは半開きになっており、そこから夜の冷気がひやりと流れ込んできた。
蓮はドアの陰から慎重に外を覗き込んだ。
裏庭の暗がりの中、本棟の火災による赤い照り返しが不気味に揺らめき、崩れ落ちた物置や散乱した部活動の用具を赤黒く照らし出している。そして、その闇のあちこちに、数体の感染者たちの影が、ゆらゆらと蠢いているのが見えた。
蓮は、右手でサバイバルナイフを深く握り直した。
左手で葵の腕を優しく、しかし確実に引き寄せる。
背後には、モップの柄を構えた頼もしい親友がいる。
(ここを抜ければ……外だ)
蓮は小さく息を吸い込んだ。胸の奥で、心臓が力強く、静かに脈打っている。
事なかれ主義で、いつだって面倒な責任から逃げ回っていたかつての少年は、もうどこにもいない。
大切な仲間を守り、理不尽な破滅の世界を生き抜く「生存者」としての自分が、確かにそこにいた。
「行くぞ」
蓮は、夜の闇へと力強く1歩を踏み出した。
通信は途絶し、インフラも停止している。警察も政府も、誰も助けには来てくれない。
だが、彼らの手には、互いを信頼する強い絆と、生き抜くための知恵、そして決して諦めない固い意志がしっかりと握られていた。
背後で燃え盛る校舎の火の粉が、夜風に乗って暗闇の空へと消えていく。
彼らは1度も振り返ることなく、裏庭のフェンスの破れ目を潜り抜け、深い闇に包まれた住宅街へと足を踏み出していった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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