第16話:狂乱の廊下【1/2】
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ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ――ッ!
非常ベルの金切り声が、脳髄に直接針を突き刺すかのような高音で特別棟の廊下に響き渡っていた。
本棟との間を分断した分厚い防火シャッターの向こう側から、ドスドスという無数の足音と、金属を爪で引っ掻くような不快な摩擦音、そして「開けてくれ!」という絶望的な叫びが、重く鈍い振動となって床を通じて足裏に伝わってくる。
その悲痛な叫び声も、刻一刻と肉を引き裂く生々しい打撃音と、喉の奥を鳴らす怪物たちのうめき声に飲み込まれ、やがてかき消されていった。
「……ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
蓮は、特別棟2階の廊下の中央で膝に両手をつき、肺が切れそうなほどの荒い呼吸を繰り返していた。
右手には、黒く塗られた鋼のサバイバルナイフ。その切っ先からは、先ほど切り裂いた感染者のどす黒い血がポタポタとPタイルの床に滴り落ち、小さな血溜まりを広げている。左腕にガムテープと国語辞典で固めた防具は、汗と返り血を吸って不快な重みを増し、締め付けられた鬱血部分がドクドクと不気味な脈動を刻んでいた。
すぐ隣には、泥と汗で制服を汚した葵が、蓮の腕に巻きつけられた防具の端を力任せに握りしめて立っていた。彼女の指先は小刻みに震えていたが、その瞳にはもはや最初の頃のような盲目的な恐怖の色はない。自らの手首を掴み、地獄の淵から引き揚げてくれた蓮への絶対的な信頼と、この狂気の世界を生き抜くという強い意志が、その横顔を固く引き締めている。
「日高! ボサっとしてる暇はねえぞ! 追ってくる!」
少し前方に立ち、1本のモップの柄を両手で構えた健太が、血走った目で廊下の奥を睨みつけながら叫んだ。
健太の叫びは正しかった。
本棟からの直接の侵入は防火シャッターによって遮断されたものの、非常ベルの甲高い警報音は、特別棟の内部に潜んでいた感染者たちや、1階の壊れた非常口から忍び込んできた新たな狂気を引き寄せる最強の誘蛾灯と化していたのだ。
「ズズ……ズズズズ……」
「アァァァァ……」
特別棟の暗い廊下のあちこちから、足を引きずる重い足音が不気味に重なり合って響き始める。天井の非常火災警報灯が、電圧の乱れによってパチパチと不吉な赤と緑の光を交互に明滅させ、廊下の壁面にへばりつく無数の黒い影を、蠢く異形の腕のように怪しく揺らめかせていた。
「階段へ向かうぞ! この階の廊下も、長居すれば取り囲まれる!」
蓮はサバイバルナイフを胸元に構え直し、葵の手首を固く握り直した。
「葵、ハサミは落としたが、俺の手を絶対に離すな。お前が転んだら、俺も一緒に転ぶ覚悟で引きずるからな」
「うん……! 離さない、絶対に離さないから!」
葵は力強く頷き、蓮の駆け出す勢いに合わせて迷わず足を踏み出した。
3人は特別棟の2階廊下を、非常階段へ続く大型の防火扉を目指して疾走した。
普段なら、放課後の部活動の生徒たちが賑やかに行き交い、吹奏楽部のトランペットの音色が心地よく響いていたはずの場所。しかし今、そこに広がっているのは、理性を失い、破滅と捕食の衝動だけに支配された異界そのものだった。
途中の被服室の戸口から、突然、腕を血まみれにした女子生徒の感染者が飛び出してきた。
制服のリボンは引きちぎられ、首筋には肉を抉られた巨大な噛み痕が生々しく露出している。白濁した目を限界まで見開き、両手を蜘蛛のように広げながら、横を走り抜けようとする葵の脇腹へと飛びかかろうとした。
「させるかぁぁッ!!」
健太が疾走の勢いを殺さず、手にしたモップの柄を水平にフルスイングした。
ガァン、と硬質で鈍い打撃音が廊下に鳴り響く。
堅い柄の先端が感染者の顔面を真っ向から捉え、鼻骨と頬骨をへし折った。感染者は悲鳴すら上げず、吹き飛ばされるように被服室のドア枠へと激突し、もんどり打って床に転がった。
「ナイスだ、健太!」
「礼なら後でラーメン奢れ! まだまだ来やがるぞ!」
健太が叫ぶ視線の先、廊下の屈曲部から、さらに3体の感染者が姿を現した。
1人は特別棟の用具管理をしていた年配の男性職員、1人は化学の非常勤講師、そしてもう1人は頭部から血を流した男子生徒だった。彼らは非常ベルの金属音に狂乱し、人間としての関節の可動域を完全に無視した荒々しい跳躍と前傾姿勢で、蓮たちとの距離を急速に詰めにかかってくる。
「キシャァァァァッ!!」
先頭の男性職員が、爪の割れた指先を鉤爪のように立て、蓮の喉笛を狙って飛びかかってきた。
(落ち着け……引きつけて、急所を狙う……!)
蓮は走る歩幅を微調整し、左腕のガムテープ防具を正面へ突き出した。男の剥き出しの牙が、辞書の分厚い紙束へと深々と突き刺さる。
ガブリッ、と強烈な衝撃が左肩を伝って身体を激しく揺さぶったが、幾重にも巻かれたガムテープの積層と堅固な紙の層が、人間の噛む力を完璧に遮断した。
「ウオあぁぁぁぁッ!!」
蓮は左腕で男の顔面を力任せに押し返しながら、右手にしたサバイバルナイフを、下から突き上げるようにして男の顎下――軟骨の隙間から脳幹へと向かって全力で刺し穿った!
ズスッ、と鋼の刃先が肉を断ち、骨の隙間を滑り、脳組織を破壊する生々しい感触が、ナイフの柄を通じて手のひらへダイレクトに伝わる。男の全身から一瞬で力が抜け、白濁した瞳がぐるりと上を向いた。
蓮は足を踏み込ませてナイフを横に捻り、一気に引き抜いた。
バシャッと黒い血液が激しく飛び散り、男性職員の巨体が糸の切れた泥人形のように床へ崩れ落ちる。
「1つ……! 次だ!」
倒れゆく男の体を踏み越え、蓮は葵の手を強く引っ張り上げた。残る2人――化学講師と男子生徒の感染者が、左右から挟み込むように襲いかかってくる。
「日高、左は任せろ!」
健太が突進し、モップの柄の先端を化学講師の胸元へと鋭く突き刺した。
ドスッ、という重い突き技を受けた講師の体が大きく後ろへ仰け反る。健太はその隙を見逃さず、棒の柄を力任せに振り下ろし、講師の膝関節を外側から打ち砕いた。バキッという関節の砕ける異音と共に、講師が床に崩れ落ちる。
一方、右側から迫っていた男子生徒の感染者は、蓮の振るったナイフの間合いの内側へと猛然と潜り込んできた。男は血塗れの口を大きく開け、葵の無防備な首筋に向かって、その歯列を突き立てようと食らいつく。
「葵ぃぃッ!!」
蓮はナイフを引き直す間がないと判断するや否や、自身の右肩を前方に突き出し、全身の体重を乗せて男子生徒の感染者へと体当たりを食らわせた。
ドガァンッ、と2つの肉体が激しく衝突する。
男子生徒の感染者はバランスを大きく崩し、廊下の壁に据え付けられていた消防用消火栓の金属扉へと背中から激突した。バリバリとガラスが割れる甲高い音が響き、衝撃で赤く重い消火器が床に転がり出る。
「これで……終われ!」
蓮は体当たりの体勢から、間髪を容れずにサバイバルナイフを水平に薙ぎ払った。研ぎ澄まされた鋸歯を持つ鋼刃が、男子生徒の首筋を深い位置で切断する。
ズバッ、と鮮血が吹き出し、消火栓の赤い扉をさらに深く染め上げた。感染者はその場に崩れ落ち、2度と動かなくなった。
「ハァ……ハァ……ハァ……ッ!」
立ち込める血煙と生臭い鉄の匂いの中で、蓮はナイフを構え直した。息が上がり、激しく波打つ心臓が肋骨を内側から叩き割るかのような衝撃を繰り返している。しかし、足を止めて休む余裕は1秒たりとも存在しなかった。
ジジジジジジジジジジジジ――ッ!
非常ベルの音が、火災の延焼を示すように音調を変え、いっそう甲高く廊下に轟く。
本棟側から立ち上る黒煙の焦げ臭い匂いが、特別棟の廊下にも薄っすらと漂い始めていた。火の手は、確実にこちらへ向かって迫ってきている。
「2人とも、無事か!?」
蓮が背後を振り返ると、健太はモップの柄で倒れた講師の頭部をさらに1撃加えて完全に沈黙させ、大きく頷いた。
「なんとかいける! だが手首が痛ぇ……! アイツら、本当に力だけはバカみたいに強ぇぞ!」
「葵は!?」
「だ……大丈夫! 日高くん、私、怪我してない!」
葵は乱れた前髪を押さえながら、力強く応えた。制服は血飛沫と煤で汚れ、泥に濡れていたが、その瞳には生存への絶対的な意志がしっかりと燃え上がっていた。
「よし! 防火扉まであと30メートルだ! 一気に駆け抜けるぞ!」
蓮は葵の手を再び固く握り締め、暗い廊下の先を見据えた。
廊下の先にあるのは、特別棟と屋外の非常階段を隔てる、重厚なグレーの鉄製防火扉だ。あの扉を抜け、内側から重いレバーとサムターンを施錠できれば、ひとまずこの階に溢れ返る感染者たちの群れから身を守る「絶対的な空間」を確保できる。
しかし、その防火扉の手前に、さらなる試練が立ち塞がっていた。
「アァァァァァァァァ……」
防火扉の前に、およそ5体の感染者たちが、まるで扉を守るバリケードのように群がっていたのだ。彼らは鳴り響く非常ベルの音に引き寄せられ、開かない鉄の扉に叩きつけられるようにして蠢いていた。その中には、先ほど理科準備室へ向かう途中で見かけた体育教師や、運動部員たちの変わり果てた姿も混ざっている。
「……数が多いな」
健太が低く唸り声を漏らした。
「正面から突破するには、俺たちの体力が持ちそうにねえぞ」
「突破するんじゃない」
極限状態のプレッシャーの中、蓮の頭脳は冷徹なまでの冴えを見せていた。
「あいつらは光と音に強く反応する。正面からの刺激には飛びつくが、側面の死角には疎い」
蓮は鋭く視線を走らせ、足元近くに転がっていた赤くて重い消火器を捉えた。先ほどの戦闘で消火栓のボックスから転がり出たものだ。
「健太」
「なんだ?」
「あの消火器のピンを抜け。そして、あいつらの足元に向かって思い切り投げつけるんだ」
健太は一瞬目を丸くしたが、すぐに蓮の意図を察知し、獰猛な笑みを浮かべた。
「なるほどな……! 煙幕と炸裂音で気を逸らすのか!」
「そうだ。消火器が激突して噴射した瞬間の混乱に乗じて、扉の右側をすり抜ける。俺が先頭で扉のレバーを押し下げるから、健太は葵を庇いながら滑り込め。2人が入ったら、俺が最後に入って扉を閉める」
「了解だ、隊長!」
健太はモップの柄を葵に預けると、床に転がっていた消火器を両手で力強く持ち上げた。黄色い安全ピンを指で力任せに引き抜き、レバーを強く固定するように構える。
「葵、耳を塞げ!」
蓮が鋭く叫ぶと、葵は即座に両手で自分の耳を強く覆った。
「食らいやがれ、化け物どもがぁぁぁぁッ!!」
健太が全身の筋肉を躍動させ、重量のある消火器を、防火扉の前にたむろする感染者たちの中心へ向かって、ボウリングの球のように勢いよく投げつけた!
ドガァァァァンッ!!
消火器の金属容器が床に激突すると同時に、内蔵された高圧ガスボンベが破裂し、白い粉末消火剤が爆発的な勢いで全方位へと激しく噴射された!
視界が一瞬にして白濁した粉末の濃霧によって完全に奪われる。
「ギシャァァァァッ!?」
「アガァァァッ!?」
突然の強烈な金属打撃音と、視界を覆い尽くすアルカリ粉末の煙に、感染者たちが酷く混乱し、喉を鳴らしながら乱暴に両腕を振り回し始めた。彼らに知性はない。しかし、目と粘膜を直接刺激する強力な化学粉末と轟音は、彼らの感覚器官を一時的に麻痺させ、動きを狂わせるのに十分すぎる効果を発揮した。
「今だ! 走れぇぇぇッ!!」
蓮の号令が、立ち込める白い煙を切り裂いた。
蓮は葵の手を力強く引っ張り、白い粉末の雲の中へと迷わず飛び込んだ。
視界はほぼゼロに近い。だが、壁面の冷たい感触と非常火災警報灯の赤い点滅だけを頼りに、防火扉の大型レバーの位置を頭の中で正確にトレースする。
右側の煙の中から、不意に血まみれの手が伸びてきた。ガシッ、と蓮の制服の襟首を掴んで引き留めようとする。
「邪魔だ!」
蓮はサバイバルナイフを迷うことなく横一文字に一閃させた。掴みかかってきた指が骨ごと切り飛ばされ、感染者がくぐもったうめき声を上げて煙の底へと沈んでいく。
その直後、目の前に重厚なグレーの鉄製防火扉の冷たい手触りが現れた。
「健太! 葵! 入れ!」
蓮は大型のドアレバーに全身の体重を乗せて一気に押し下げた。
ガチャリ、と重いラッチの外れる金属音が響き、分厚い鉄扉が内側へと開いた。
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