第15話:破滅のチャイム【2/2】
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シャッターの反対側――本棟側からは、閉ざされた金属壁を叩く無数の手と、取り残された生徒たちの絶望の悲鳴、そして感染者たちの狂ったうめき声が、鈍い振動となって伝わってきた。
『開けて! 開けてよぉぉっ!』
『閉じ込めないで! 嫌だ! 食われる! 食われちゃうよぉぉっ!』
『ガシャガシャガシャ! ドンドン!』
金属壁を挟んだ、こちらとあちら。
生と死を分かつ、絶対的な壁。
蓮は、ゆっくりと体を起こした。
膝と肘が擦りむけ、制服が破れていたが、骨に異常はない。
隣には息を整えながら蓮の肩を支えてくる健太と、涙を拭いながら蓮の手を強く握り返す葵の姿があった。
「……助かった……のか……俺たち……」
健太が、掠れた声で呟いた。
「……ああ。本棟からは、抜けた」
蓮は、握りしめたナイフの刃を見つめた。
黒い鋼の表面には、先ほど切り裂いた感染者のどす黒い血液が付着していた。
ジリリリリリリリリ――ッ!
非常ベルの音は、シャッターを超えて特別棟の廊下にも不気味に響き続けている。
だが、その音はもはや警報ではなかった。
自分たちが知っていた『平凡で退屈で、けれどかけがえのなかった世界』が完全に死亡したことを告げる、終わりの鐘だった。
蓮は、特別棟の薄暗い廊下の奥を見据えた。
ここも長くは持たない。本棟からの侵入は遮断されたが、一階の裏口や非常階段からは、すでに外の群衆が侵入し始めているはずだ。
日常は終わった。
学校は死んだ。
大人も、警察も、国も、自分たちを守ってはくれない。
蓮は、自分の足で立ち上がった。
右手には、血に濡れたナイフ。
左手には、葵の温かい手の感触。
隣には、背中を預け合える親友。
少年の瞳から、すべての迷いが消え去っていた。
シャッターの向こう側で響いていた悲鳴と爪立てる音が、少しずつ、しかし着実に肉を食むぐちゃぐちゃとした鈍い打撃音へと変わっていった。
ジリリリリリリリリ――ッ!
天井の非常ベルは、容赦なくその鋭い高音を響かせ続けている。
赤く明滅する壁面の誘導灯が、シャッターの隙間から這い出してくる赤黒い血の筋を、不気味なほどの鮮やかさで浮かび上がらせていた。
その血は、ほんの数十秒前まで同じ教室で笑い合い、くだらない噂話に興じていたクラスメイトたちのものだった。
「……ハァ……ハァ……ッ」
健太が両膝に手をつき、荒い息を吐き出しながら床の血の筋を見つめていた。彼の持つモップの柄の先からは、汗と混ざり合った泥が垂れ落ちている。
その隣で、葵は自分の口元を両手で固く覆い、涙に濡れた目を閉ざしていた。彼女の細い肩が、吐き気と恐怖を押し殺すように激しく上下している。
「……立つんだ、二人とも」
蓮は、自分の声が驚くほど低く、冷ややかに響いたことにどこか他人事のような感覚を覚えていた。
右手には、血で滑るサバイバルナイフ。
鋼の刃にへばりついた赤黒い塊を、制服の裾で無造作に拭う。布地が吸い上げた血の生温かい感触が、太ももを通して肌へと伝わってきた。
「ここに長居はできない。ベルの音が校舎中のあいつらをここに引き寄せている。このシャッターだって、いつまで持つかわからない」
「……ああ……わかってる」
健太が顔を上げた。その瞳には、親友に対する畏怖と、己の無力さに対する苛立ち、そして何としても生き残るという泥臭い執念が入り混じっていた。
「わかってるよ、蓮。……行こう。もう、引き返せねえんだからな」
葵も静かに目を開けた。彼女は自分の頬を両手で強く叩き、赤い手形がついた顔で蓮をまっすぐに見つめた。
「私、大丈夫。走れるよ、蓮くん」
三人は立ち上がった。
遮断された本棟を背にし、特別棟の奥へと続く暗い廊下へと歩を進める。
特別棟の廊下は、本棟ほどの狂乱には包まれていなかった。
だが、それは安全を意味してはいなかった。
非常ベルの暴走する金属音が反響する中、薄暗い廊下のあちこちから、引きずるような足音と喉の鳴る不気味な音が近づいてきているのがわかった。
『ズズズ……ズル……ズル……』
『アァァァ……』
音楽室の引き戸が不自然に半開きになり、中から血まみれの合唱部員の影がフラフラと姿を現す。
理科室の戸口からは、白衣の胸元を大きく切り裂かれた化学教師が、爪を割った手で壁を伝いながら這い出てくる。
かつて彼らが誇りに思っていた、歴史ある校舎。
春には正門の桜が咲き誇り、夏にはグラウンドから野球部の声が響き、秋には文化祭の準備で遅くまで明かりが灯っていた場所。
その思い出の記憶すべてが、今、赤黒い血液と吐瀉物、そして脳漿の匂いによって無残に塗り潰されていく。
「走るぞ。音を立てて突っ切る!」
蓮は叫び、葵の手首を固く掴んで足を踏み出した。
もう音を殺して隠れる段階は終わっていた。非常に鳴り響くベルが、校舎そのものを巨大な誘蛾灯へと変えてしまっているのだ。遅かれ早かれ、隠れている場所は埋め尽くされる。
速度こそが、今彼らに残された唯一の盾だった。
「どけぇぇぇぇっ!!」
先頭に立った健太が、突き出された化学教師の腕を、モップの柄でフルスイングにして薙ぎ払った。
『バガァン!』という乾いた打撃音が廊下に木霊し、教師の体は壁の掲示板に激しく激突して崩れ落ちた。掲示板に貼られていた『全国大会出場決定』の賞状が、破れ飛んで血の海へと舞い落ちる。
「右だ! 非常階段のドアへ向かえ!」
蓮は葵を引き寄せ、襲いかかってくる合唱部員の爪を、左腕の国語辞典防具で力任せに弾き飛ばした。
『ドスッ!』
重い衝撃が左肩に走るが、骨は折れていない。蓮は間髪入れずに右手の一撃――サバイバルナイフの分厚い刃を、感染者の首筋へ向けて横一文字に振るった。
『ズバッ!』
研ぎ澄まされた刃が肉を裂き、太い血管を切断する。どす黒い血液が噴水のように噴き出し、特別棟の白い壁に惨劇のグラフィティを描いた。
感染者が崩れ落ちる隙間を縫って、三人は廊下の最奥にある重い防犯ドアへと飛び込んだ。
「鍵を開けろ!」
健太が非常ドアのレバーを強く押し下げる。
『ガチャンッ!』
重厚な金属音が響き、外の冷たい夜風が一気に廊下へと流れ込んできた。
それは、血と腐敗の匂いに満ちていた校舎の空気とは異なる、雨を含んだ夜の匂いだった。
「出ろ!」
三人は非常階段へと躍り出た。
サビの浮いた鉄製の非常階段。
見上げれば、雲の切れ間から下弦の月が冷ややかな光を投げかけている。
見下ろせば、暗闇に包まれた裏庭と、住宅街へと続くフェンスが広がっていた。
だが、彼らが階段を駆け下りようとしたその瞬間。
『ドドドドドドドッ!!』
背後の校舎全体が揺れるほどの巨大な振動と爆発音が、秋の夜空を引き裂いた。
「っ……!?」
三人は思わず足を止め、振り返った。
本棟の二階と三階の窓ガラスが一斉に内側から吹き飛び、鋭いガラスの雨が夜のグラウンドへと降り注いでいた。
火災だ。
どこかの化学実験室の薬品に火が移ったのか、あるいはショートした配線から燃え広がったのか、本棟の中層階から凄まじい黒煙と、真っ赤な炎の舌が噴き出していた。
炎の明かりが、夜の校舎の姿を地獄の絵巻物として浮き彫りにする。
燃え盛る窓際。そこには炎に包まれながら苦悶の表情で助けを求める生徒たちの影と、その体に群がり、肉を貪り続ける感染者たちの影が、巨大な影絵となって映し出されていた。
窓から逃げ場を失い、炎に追われて三階から投身する生徒たちの姿。
『ドサッ』『ドカッ』という重い落下音が、グラウンドの闇から連続して響いてくる。
そして、正門。
すでに完全に壊滅した正門からは、街中から集まってきた数百、数千の感染者たちの群れが、吸い寄せられるように燃え盛る校舎へと雪崩れ込んでいた。
ジリリリリリリリリ――ッ!
非常ベルの音は、炎の爆ぜる音と、人々の絶叫、そして無数の感染者たちのうめき声と混ざり合い、この世界が終わる時に鳴り響く『破滅の交響曲』と化していた。
「……あ……ああ……」
葵が、階段の手すりに縋り付きながら、その光景を目に焼き付けていた。
彼女の頬を、涙が幾筋も伝い落ちる。
そこに広がるのは、自分たちが明日も、来週も、来年も続くのだと信じて疑わなかった『平和な日常』の完全な終焉だった。
勉強に悩んだ教室。
部活動で汗を流したグラウンド。
友達と笑い合った食堂。
淡い恋心を抱いていた図書室。
そのすべてが、炎と血と狂気の中で、跡形もなく焼き尽くされていく。
「……終わったんだ」
健太が、掠れた声でぽつりと呟いた。
彼の目にも、涙が溜まっていた。だが、その顔は力強く前を向いていた。
「俺たちの……学校は、もう……ねえんだ」
蓮は、握りしめたサバイバルナイフを、そっと自分の腰の鞘へと収めた。
『カチッ』という静かな金属音が、激しい騒音の中で、蓮の心の中に明確な区切りを刻みつけた。
日常は終わった。
事なかれ主義の平和な高校生活は、もう二度と戻ってこない。
明日になれば学校へ行き、テストを受け、部活をし、家に帰って温かい夕飯を食べる。そんな当たり前の未来は、この火災の煙と共に空へと消え去ったのだ。
だが。
蓮は、己の右手を見た。
爪の中に泥が入り込み、他人の血がこびりついた手。
この手で、自分は葵の手首を掴み、死の淵から引き揚げた。
この手で、自分は生き残るための刃を握り締めた。
(俺たちは……生きてる)
蓮は、葵の肩にそっと手を置いた。
葵が振り返り、濡れた瞳で蓮を見つめる。
「行くぞ、葵。健太」
蓮の声には、震えも、迷いもなかった。
そこにいたのは、理不尽な破滅の世界の中で、大切な者の命を背負って戦う生存者としての覚悟を決めた、一人の男の姿だった。
三人は、非常階段を駆け下りた。
背後で燃え盛る県立彩葉第一高等学校。
夜空を赤く染め上げる炎と、どこまでも響き渡る破滅の非常ベル。
彼らは裏庭のフェンスの破れ目を潜り抜け、闇に包まれた住宅街へと足を踏み出していった。
通信は切れた。
インフラは停止した。
警察も、政府も、誰も助けには来てくれない。
だが、彼らの手には、互いを信頼する強い絆と、生き抜くための知恵、そして決して諦めない固い意志が握られていた。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
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これからも『残響サバイバーズ ―僕らの最後の青春―』をよろしくお願いいたします!




