第14話:掴んだ手【2/3】
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すれ違いざま、彼女を押し潰そうとしていたパニックの男子生徒たちが、そのまま空を切るようにして前方へ走り去っていく。
間一髪。ほんの一瞬の時間差で、葵は死の淵から引き戻されたのだ。
蓮の胸元に、葵の額が軽くぶつかった。
彼女の息が、蓮の制服の襟元に熱く吹きかかる。
生きている。彼女は、まだここにいる。
「……無事か、葵!」
蓮は葵の肩を掴み、彼女の顔を覗き込んだ。
葵は小さく息を吐き出し、涙で濡れた目を何度も瞬かせながら、蓮の顔を、そして自分の手首を固く掴んでいる蓮の右手を見つめた。
「は、はい……! ありがとう……蓮くん……! 私、私……!」
「喋るな、息を整えろ!」
蓮は引き上げた彼女の腕を解かず、そのままの手で彼女の手首を握り続けた。
一度解けば、この狂乱の闇の中で二度と掴めなくなるかもしれないという恐怖があったからだ。
だが、危機は去っていなかった。
葵を引き上げたその一瞬の停滞によって、二人が足を止めた場所に、追いついてきた感染者の影が迫っていた。
『アガァァァァァッ!!』
横転したベンチの影から飛び出してきたのは、顔面を半分削ぎ落とされた、元サッカー部の男子生徒の感染者だった。
彼は両手を爪のように折り曲げ、無防備な葵の背後から、その首筋を狙って跳躍していた。
「しまっ――!?」
蓮は葵を引き寄せて自分が盾になろうとしたが、体勢が間に合わない。
サバイバルナイフを構え直す隙すらない絶望の死角。
その時だった。
『ドガァァァァンッ!!』
闇を切り裂いて飛んできた一本の太い木が、空中を舞っていた感染者の側頭部に、エグい音を立てて炸裂した。
『ギャフッ……!?』
感染者は派手な音を立てて横に吹き飛び、泥の中に転がって激しく痙攣した。
木を振るった主――そこには、汗と泥で顔を汚し、息を荒げながらモップの柄を上段に構えた、健太の姿があった。
「遅くなって悪ぃな、二人とも!!」
健太はニッと白い歯を見せ、鋭い目で周囲の闇を威嚇するように棒を振るった。
「健太……!」
「二人でイチャついてる暇ねえぞ、蓮! ここももう限界だ! あいつら、完全に裏庭を囲み始めてる!」
健太の言う通りだった。
本棟から溢れ出た感染者たちと、正門から回り込んできた群れが合流し、裏庭の広場全体が血塗られた捕食者たちの坩堝と化しつつあった。
押し寄せた一般の生徒たちは、フェンスに押し付けられるか、次々と地面に倒されて感染者の餌食となっていく。
「行くぞ! フェンスの破れ目へ!」
蓮は叫び、葵の手首を掴んだまま、健太と視線を交わした。
三人。
生き残ったのは、最初から互いを信じ合っていたこの三人だけだった。
蓮はナイフを前方に構え直し、葵の手を強く引き、健太がその側振りを固める。
狂乱と絶望が渦巻く地獄の裏庭で、三人の絆という名の光が、脱出への筋道を切り拓こうとしていた。
掴んだ手首から伝わってくる生々しい脈動が、蓮の右手に確かな生命の重みとして刻み込まれていた。
葵の手首は蓮の掌の中で小刻みに震えていたが、決して力なく萎えることはなかった。彼女の指先は、蓮の腕に巻きつけられた分厚い国語辞典とガムテープの防具を、すがるように、秩序をもって力強く握り返してきた。
「絶対に、離すなよ」
蓮は押し殺した声で、しかし葵の鼓膜に直接叩きつけるような強さで言った。
「……うん。絶対に、離さない!」
葵の声には、先ほどまでの恐怖に押し潰されそうだった弱々しさは消え、蓮という存在を核とした強い覚悟が宿っていた。
二人の背後で、健太が打撃を与えた元サッカー部員の感染者が、泥まみれになりながらガチガチと顎を鳴らして立ち上がろうとしていた。だが、健太はその頭部に向かって、躊躇することなくモップの柄をもう一発、力任せに叩きつけた。
『バカッ!』という重く不快な音が夜の空気に響き、感染者は二度と起き上がらない肉の塊となって地面に伏した。
「よし、これで一匹! だが多すぎる、蓮! 急ごう!」
健太が息を荒げながら、周囲の暗闇を鋭い眼光で警戒する。
裏庭の広場は、今や真の無秩序と殺戮の地獄と化していた。
本棟の破れた非常口から吐き出し続けられるパニック状態の生徒たちと、それを追いかけてきた無数の感染者。さらに、正門の壊落によって学校の敷地内になだれ込んできた街の感染者たちが交差し、狭い裏庭の中で巨大な肉の坩堝を形作っている。
叫び声、肉を引き裂く音、助けを求める悲痛な怒号、そしてそれらをすべて塗り潰すような感染者たちの狂った呻き。
人間としての理性や社会的秩序は完全に崩壊し、そこにあったのは生きたいと願う無防備な獲物と、それを貪り食う純粋な捕食者の本能だけだった。
「人波の中を突っ切るのは無理だ! 弓道場の脇の茂みへ迂回する!」
蓮は即座に脱出ルートの補正を試みた。
裏庭の中央では、パニックになった生徒たちが施錠されたフェンスに押し付けられ、将棋倒しとなって圧死するか、背後から追いついてきた感染者に噛みつかれて地獄絵図を描いている。あの中へ飛び込めば、いくら武器を持っていようと集団の質量に押し潰されて身動きが取れなくなる。
「弓道場か! 了解!」
健太が即座に頷き、蓮の右側を固めるように体勢をとった。
蓮は右手に深くサバイバルナイフを握り直し、左手で葵の手首を固く繋いだまま、裏庭の端に位置する弓道場へと向かって走り出した。
弓道場は、校舎の離れとして建つ木造平屋の建物だ。普段なら静寂と凛とした空気が支配するその場所も、今は暗闇の中に不気味な黒い影となって佇んでいた。周辺には背の高いツツジの植え込みと、大きなクスノキが茂っており、月光すら届かない深い影を落としている。
「葵、弓道場の裏のフェンスの状況はわかるか!?」
走りながら、蓮が葵に問いかけた。
「うん! 弓道場の裏側は……部員が道具を運ぶために、フェンスの下の金網が少したわんでる場所があるの! あそこなら、大人一人でもくぐり抜けられるはず!」
葵の声は風を切って蓮の耳に届いた。部活動で日々その場所を使っていた彼女の記憶は、この極限状態において最高の地図だった。
「よし、そこを目指す!」
蓮たちが茂みの影へと飛び込んだ直後、暗がりの中から二つの影が猛然と飛び出してきた。
『アガァァァッ!』
それは、制服の胸元を真っ赤に染めた女子生徒の感染者と、首の骨が不自然に曲がった男子生徒の感染者だった。彼らはツツジの植え込みの影に潜み、走ってくる蓮たちの生の匂いに反応して飛びかかってきたのだ。
「させかけるかよぁっ!」
健太が先行し、モップの柄を横一文字に振るった。
『ガァン!』と鋭い打撃音が響き、女子生徒の感染者が顔面を打ち砕かれて植え込みへと倒れ込む。
しかし、もう一人の男子生徒の感染者は、健太の振るった棒の隙間を縫うようにして、葵に向かって手を伸ばしてきた。
白濁した瞳、血と泡で汚れた歯茎、そして爪が割れて血の滲む指先。
それが、葵の胸元へと迫る。
「葵、俺の背中に隠れろ!」
蓮は繋いでいた葵の腕を力任せに自分の方へ引き寄せ、彼女を己の背後へ庇い立てると同時に、左腕のガムテープ防具を感染者の突き出された腕へと叩きつけた。
『ドスッ!』
国語辞典の分厚い紙束が、感染者の突進を完璧に受け止める。衝撃が蓮の左肩に突き抜けたが、蓮は眉一つ動かさなかった。
感染者が牙を剥き出しにしてガムテープの表面に噛みつこうとしたその瞬間、蓮は右手に持ったサバイバルナイフを下方から上方へと、一気に突き上げた。
『ズスッ……!!』
研ぎ澄まされた鋼の刃が、感染者の顎下から頭骨の隙間を貫き、脳幹へと深く達した。
生命のスイッチが切断された独特の感触。感染者の全身の筋緊張が一瞬で解け、ダラリと力なく膝から崩れ落ちた。
蓮は刃をねじるようにして抜き取り、冷酷なまでに素早く次の警戒姿勢をとった。
今回の続きは、19:10の投稿になります。お楽しみに!
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