第14話:掴んだ手【1/3】
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夜の冷気が、濡れた制服の生地を通り抜けて肌に刺さるように冷たかった。
体育館の非常扉を破るようにして外へ躍り出た蓮たちは、サビの浮いた鉄製の非常階段を、甲高い金属音を殺しながら慎重に、しかし一刻の猶予もない速度で駆け下りていた。
頭上を仰げば、雲の切れ間から覗く下弦の月が、冷ややかな青白い光を校舎の壁面に落としている。だが、その光が照らし出しているのは、かつて自分たちが青春の日々を過ごした学園の姿ではなく、巨大な墓標の如き沈黙と、各所の窓から漏れ出る血生臭い悲鳴の残響だった。
カン、カン、カン、と足元の鉄板が微かに鳴る。
蓮は右手でサバイバルナイフの柄を血の汗で滑らせないよう強く握り締め、左腕に巻きつけた国語辞典とガムテープの重みに耐えながら、一段飛ばしで階段を降りた。
すぐ後ろには、極限の緊張で息を弾ませる葵。その後に、モップの柄を構えた健太と、腰が抜けかけた状態で必死に縋りつく鈴木たち二人の生徒が続いている。
一階の裏庭へ到達するまで、あと数段。
しかし、その足が完全に地面を踏みしめる前に、校舎の角の闇から、地鳴りのような重低音が響き渡った。
「ヒッ……! な、なんだ!?」
鈴木が短く悲鳴を上げ、手すりにしがみついた。
蓮は咄嗟に階段の踊り場で身を低くし、影に潜みながら裏庭の開けた空間を凝視した。
そこは、普段なら吹奏楽部が音出しをしたり、運動部がストレッチをしたりする静かな中庭風のスペースだった。だが今、そこを覆い尽くしていたのは、狂乱という言葉すら生ぬるい『人間の激流』だった。
「……本棟の非常口が破られたんだ」
蓮は歯を食いしばりながら低く呟いた。
本棟の一階、および二階の裏出入口から、パニックを起こした数十人、いや百人を超える生徒や教職員の大集団が、雪崩のように裏庭へとなだれ込んできていたのだ。
彼らは懐中電灯やスマートフォンのライトを乱雑に振り回し、その交錯する白い光が、夜の闇の中に狂気的な影絵を映し出している。
『開いてない! 裏門のフェンスもチェーンがついてるぞ!』
『嘘だろ!? 出られないのかよ!』
『押すな! 後ろから来てるんだよ! 早く押せよ!』
『嫌だ、来ないで! 先生、助けて! 助けてよぉぉっ!』
絶叫、怒号、罵声、そして押し合いへし合う衣擦れの音。
本棟の内部で捕食者の群れに追い詰められた人々が、唯一残された出口を求めて裏庭に逃げ込んできたものの、フェンスの施錠によって行き場を失い、狭い空間で完璧な「人の圧力鍋」を作り出していた。
そして、その激流の背後――本棟の暗い開口部からは、血まみれになった感染者たちが、獲物の臭いに導かれて次々と姿を現し始めていた。
「くそっ、まずいぞ……!」
健太が階段の手すりから身を乗り出し、青ざめた顔で吐き捨てた。
「あの混雑の中に突っ込んだら、身動きが取れなくなる! 押し潰されるか、後ろから追いつかれて終わりだ!」
「だが、ここを通らないとフェンスの破れ目には辿り着けない」
蓮の頭脳は、極限状態の中で冷徹に計算を弾き出していた。
記憶している「部活の抜け道」であるフェンスの破れ目は、裏庭の最も奥、弓道場の裏手に伸びる茂みの陰にある。そこへ行くためには、この狂乱する群衆の端を切り裂くようにして突き進むしかなかった。
「全員、手をつなぐか、前のやつの服を固く掴め!」
蓮は振り返り、後ろの生徒たちに向かって鋭く命じた。
「人波に飲まれたら一瞬で離散する! 何があっても手を離すな! 行くぞ!」
蓮を先頭に、五人は非常階段を飛び降り、裏庭の濡れた土の上へと足を踏み入れ、混乱する人の波の端をすり抜けるように疾走し始めた。
地面に降り立った瞬間、周囲の叫び声と重苦しい狂気が、ダイレクトに五人の鼓膜と皮膚を叩いた。
生温かい血液の匂い、汗の臭い、泥の臭い、そして恐怖によって分泌された過剰な体臭が充満している。
暗闇の中で振り回されるスマートフォンの光が、蓮の視界をチラチラと狂わせる。
「蓮! 右から来てる!」
健太の叫びと同時に、人波の端からパニックになった男子生徒が二人、猛スピードで突っ込んできた。
蓮は咄嗟に左腕のガムテープ防具を掲げ、衝突の衝撃を殺した。
「邪魔だ! 端へ寄れ!」
蓮が怒鳴るが、正気を失った生徒たちは言葉すら耳に入らない様子で、ただ闇雲にフェンスの方へと走り去っていく。
混乱は、数秒ごとに深刻さを増していた。
追いついてきた感染者たちが、群衆の最後尾に襲いかかったのだ。
『ギャアアアアッ!』
『噛まれた! 首を噛まれたぁぁっ!』
悲鳴が上がり、群衆がまるで巨大な生き物のように、感染者から逃れようと前方へ――つまり、蓮たちが突き進もうとしている方向へと一斉に雪崩を打った。
「ぐっ……!?」
凄まじい「人の壁」の圧力が、蓮たちの横腹を直撃した。
将棋倒しの予兆。押し寄せた人波によって、足元がすくわれそうになる。
「うわああああっ!」
最後尾にいた鈴木が人波に押されて手を滑らせ、悲鳴を上げながら暗闇の中へと引きずり込まれていった。
「鈴木!」
健太が手を伸ばそうとしたが、逆方向から押し寄せる別の生徒たちの塊に阻まれ、届かない。鈴木とその隣の女子生徒は、パニックを起こした大集団の波に飲まれ、あっという間に夜の帳と人垣の向こう側へと消えてしまった。
「くそっ……! 鈴木ぃぃっ!」
健太が拳を握り締め、叫ぶ。
「追うな、健太!」
蓮は心を鬼にして怒鳴りつけた。
「引き返したら俺たちも飲まれる! 前だけ見ろ!」
蓮のすぐ後ろには、葵がいた。
葵はガムテープで強固に巻かれた腕で蓮の制服の裾を必死に掴み、呼吸を乱しながらも、蓮の足跡を狂いなく踏み追っていた。その表情は蒼白だったが、瞳の奥にある強い意志の光だけは消えていなかった。
だが、悲劇は唐突に訪れる。
群衆の内部で、さらなるパニックが弾けたのだ。
本棟の窓から飛び降りてきた感染者が、逃げ惑う人波の真っ只中に着地した。
『ひぃぃぃっ! 上から降ってきた!』
『逃げろ! 押し戻せ!』
人波が、前触れもなく「逆流」した。
前方から押し寄せる数十人の圧力が、蓮と葵の直前で炸裂した。
蓮は踏ん張り、サバイバルナイフを胸元に構えて体勢を保持した。しかし、蓮のすぐ後ろを走っていた葵の足元には、逃げ遅れて倒れ込んでいた別の生徒の鞄と、地面から浮き出た樹木の根が重なっていた。
「あっ……!」
葵の足先が、不運にもその障害物に引っかかった。
人波の強い押しと、足元の拘束。
葵の細い身体が、大きな弧を描くようにして前方へ傾いた。
掴んでいた蓮の制服の裾が、激しい張力に耐えかねて『ビリッ』と音を立てて引きちぎられる。
「葵っ!?」
蓮が振り返った瞬間、視界がスローモーションに切り替わった。
月明かりの下、崩れ落ちていく葵の姿。
彼女の手から、工作用の小さなハサミが滑り落ち、泥の中に沈んでいく。
彼女の大きな黒い瞳が、開かれたまま蓮を見つめていた。そこにあったのは、死への恐怖と、去りゆく日常への無念、そして掠れた声で名前を呼ぼうとする唇の動きだった。
葵が倒れ込もうとしているその地面のすぐ脇には、パニックになった男子生徒たちが、前しか見ずに土足を乱暴に踏み鳴らして駆け抜けていた。
一度あの泥の上に倒れ込めば、一秒も経たずに数十人の足によって踏みつけられ、胸骨を砕かれ、二度と立ち上がれなくなる。
あるいは、すぐ数メートル後方まで迫っている、血に飢えた感染者の顎にその柔らかい首筋を捧げることになる。
死。
回避不能な死の影が、葵の身体を覆い尽くそうとしていた。
思考が、凍りつく。
かつての「事なかれ主義」の自分なら、どうしていただろうか。
リスクを計算し、自分自身の安全を最優先し、差し伸ばしかけた手を引っ込めていたかもしれない。他人の不幸に巻き込まれないよう、一歩引いて静観を決め込んでいたかもしれない。
だが――今の蓮の身体には、父から叩き込まれたサバイバルの本能と、図書室で彼女と交わした誓いが、血となって駆け巡っていた。
(死なせるか……っ!!)
蓮の身体が、思考の速度を超えて動いた。
右手に握っていたサバイバルナイフを素早く逆手に握り直し、腰を低く落としながら、左腕――辞典とガムテープで鎧と化した左腕を、泥へと落ちていく空間に向かって思い切り突き出した。
そして、右手。
ナイフを保持したままの右手の指先を極限まで伸ばし、闇の中へ倒れ込んでいく葵の、細く繊細な右手首を――ガシッと、力強く掴み取った。
『ガシッ……!!』
皮膚と皮膚、骨と骨がぶつかり合う、生々しい衝撃が蓮の掌に伝わる。
「……っ!?」
葵の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
「させない……っ! 倒れるな、葵ぁぁぁぁっ!!」
蓮は全身の筋肉を途切れることなく収縮させ、右腕にすべての背筋と脚の筋力を集中させた。
地面を蹴りつけ、下半身を固定する。
そして、倒れゆく彼女の体重と、押し寄せる群衆の圧力を一身に受け止めながら、渾身の力でその腕を自分の胸元へと引き寄せた。
『ギチチチッ』と、蓮の右肩の関節が悲鳴を上げる。
だが、手は緩めない。指先が葵の手首の骨に深く食い込み、手袋越しに彼女の激しい脈動と、温かい体温がダイレクトに伝わってくる。
「……蓮……くん……!」
引き上げられた葵の身体が、宙を舞うようにして立ち直った。
彼女のつま先が再び地面を捉え、蓮の胸の中に飛び込むような形で、体勢が完全に復元された。
今回の続きは、13:10の投稿になります。お楽しみに!
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