第13話:悲鳴の全校集会【2/2】
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『ガアアアアアアッ!!』
陸上部顧問だった野村は、倒れ込んだ男子生徒の背中に馬乗りになると、その首筋へと容赦なく牙を突き立てた。肉が千切れる生々しい音と、鮮血が床のフローリングに飛散する音が重なる。
野村だけではない。
噛まれて横たわっていた生徒や教師たち――かつて仲間だった者たちが、血走った目を剥き出しにし、四つん這いで床を這い、足をもつれさせながら逃げる無防備な背中に飛びかかっていく。
一人、また一人と、生贄が増えていく。
そして恐ろしいことに、首筋や腕を深く噛みちぎられて血の海に倒れた生徒たちが、わずか数秒から数十分の短時間でゴキゴキと関節を不自然に鳴らし始め、新たな感染者として立ち上がっていったのだ。
増殖の連鎖。
密閉された空間の中で、捕食者と獲物の比率が、絶望的な速度で書き換えられていく。
『皆さん! 落ち着いてください! 順番にバリケードをどかすのです!』
ステージの上で、教頭がハンドマイクを握り締め、白目を剥き出しにして叫び続けていた。
だが、その声を聞く者など誰もいなかった。
教頭の足元――ステージの下にまで血の波が押し寄せていた。
不意に、ステージの脇の階段から、血まみれになった男子生徒が四つん這いで登ってきた。彼の腹部は大きく引き裂かれ、内臓が覗いていたが、その目はまっすぐに教頭の足元を捉えていた。
『ひ……ひぃっ!? 来るな! 来ないでくれ!』
教頭はハンドマイクを投げ捨て、後ずさった。
だが、逃げ場はどこにもなかった。ステージの裏手にある控室のドアもまた、彼自身が安全のために施錠させていたのだから。
『ギャアアアアッ!』
男子生徒が跳躍した。教頭の胸元に飛びかかり、二人はステージの上に転がり込む。
マイクから切れたスピーカーが『ゴー』という不快なノイズを体育館全体に響かせる中、教頭の絶叫が途絶えた。
二階のキャットウォークで見下ろしていた蓮たちは、言葉を完全に失っていた。
「……ひどすぎる……」
葵が両手で口を覆い、膝を折ってその場に蹲った。彼女の目からは溢れ出る涙が止まらなかった。
下で繰り広げられているのは、戦いでもなければパニックですらなかった。一方的な屠殺だ。かつて同じ校舎で笑い合い、部活に励み、将来を語り合っていた同級生たちが、肉の塊として食い散らかされていく地獄。
「おい……蓮……」
健太が、モップの柄を握る手を激しく震わせながら、青ざめた顔で蓮を見た。その目は恐怖で血走り、口元は乾いていた。
「下……全滅するぞ。あれ……助けらんねえのか……? 俺たち……何とかできねえのかよ……!?」
健太の声には、正義感と無力感が渦巻いていた。陸上部として校内でも顔が広く、誰からも好かれていた健太にとって、下にいる同級生たちの惨劇を指をくわえて見ていることは、自身の魂を削り取られるような苦痛だった。
だが、蓮はナイフを逆手に握り直したまま、氷のように冷たい声で言い放った。
「無理だ」
「なっ……!?」
「あそこへ降りたら、俺たちも一秒で呑み込まれる」
蓮は、健太の胸元を強く突くようにして視線を固定させた。
「よく見ろ、健太。バリケードは塞がってる。あの中に降りて、あの四百人のパニックと数千の感染者に揉み込まれたら、俺たちの命がいくつあっても足りない。……俺たちの目的を忘れるな」
「目的って……!」
「生き残ることだ。家族の元へ帰ることだ」
蓮の言葉は、冷徹でありながら、圧倒的な説得力を持っていた。
「お前がここで死んだら、お前の親父さんや母さんはどうなる? 水島のご両親は? 俺の母さんと結衣は!? 全員を見捨ててヒーローごっこをしに行くのが、お前のやりたいことなのか!?」
「……っ!!」
健太は言葉を詰まらせ、悔しそうに歯を食いしばって床を見つめた。ぽたぽたと、彼の汗と涙がキャットウォークの金属網を通り抜けて下へと落ちていく。
「……蓮の言う通りだよ」
葵が、立ち上がりながら擦れた声で言った。涙を袖で拭い、葵は蓮の隣に立った。その瞳には、絶望の底から手繰り寄せた、鋭い決意の光が宿っていた。
「私たちは……生きて帰らなきゃいけない。ここで全滅したら、誰も何があったのか伝えられない……」
「……わかったよ」
健太は深く息を吐き出し、モップの柄を構え直した。
「悪かった、蓮。取り乱した。……行こう。裏の非常階段へ」
蓮は小さく頷いた。
事なかれ主義の自分。かつてなら、誰かが傷ついていても「自分には関係ない」と目を逸らしていた。
だが、今自分が取っている冷酷な選択は、無関心から来るものではない。大切な二人の命を、そして己の家族への責任を全うするための、最も重く苦しい覚悟だった。
「鈴木、立てるか」
蓮が後ろを振り返ると、鈴木は濡れたズボンを震わせながら、何とか壁をつたって立ち上がった。
「た、立てる……。逃げよう……早くここから……!」
「よし。キャットウォークを渡り切って、非常扉から裏庭の階段へ降りる。音を立てるな」
五人は、二階のキャットウォークの金属網の上を、忍び足で駆け出し始めた。
下のアリーナからは、依然として地獄の悲鳴と肉を引き裂く音が響き続けている。だが、彼らはもう下を見なかった。前だけを見据え、暗がりの中に浮かび上がる非常口の緑色の誘導灯だけを目指した。
しかし、世界は彼らが簡単に逃げ出すことを許さなかった。
『ギシッ……ガラガラッ!』
キャットウォークの先、非常口のドアの手前に設置されていたメンテナンス用の鉄梯子から、突如として何かが登ってくる音が響いたのだ。
「っ!?」
先頭を走っていた蓮が、咄嗟に腕を広げて全員を制止した。
手すりを掴み、キャットウォークの上に這い上がってきた影。
それは、体育館の備品管理を担当していた、年配の女性職員だった。
彼女の制服のベストは破れ、胸元から腹部にかけてが大きく抉れ、赤黒い臓器が飛び出していた。
彼女はキャットウォークの上に立ち上がると、ゆらりと身体を揺らし、蓮たちに向かってその白濁した目を向けた。
『ア……アァァ……』
喉の奥から、乾いた息が漏れる。
「クソッ……下から登ってきたのか……!」
健太が低く唸る。
後方にはアリーナの惨劇。前方は一人の感染者によって塞がれた狭い金属通路。左右は吹き抜け。逃げ場はない。
「……俺がやる」
蓮が、静かに一歩前に出た。
「蓮!? お前、ナイフで……!?」
健太が息を呑む。
蓮の右手には、黒いサバイバルナイフ。
これまで、彼はこの刃を一度も人に、あるいはかつて人だったものに突き立てたことはなかった。
テレビのニュースや父の電話、想像の中で思い描いていた戦い。それが今、目の前の現実として突きつけられていた。
相手は、昨日まで挨拶を交わしていたかもしれない、年配の職員だ。
だが、その瞳に蓮という高校生を認識する心は存在しない。あるのは、生き血と肉を求める捕食者の渇望だけだ。
『ガアアアアッ!!』
女性職員の感染者が、両手を蜘蛛のように広げ、狭いキャットウォークを力任せに突進してきた。
「蓮っ!」
葵の悲鳴が背後で弾ける。
時間が、スローモーションのように引き伸ばされた。
蓮の脳内で、父の言葉が強烈なフラッシュバックとなって再生される。
(躊躇するな……! ここで怯んだら、葵が、健太が食われる……!)
蓮の身体から、迷いが蒸発した。
感染者が飛びかかってくる瞬間。
蓮は左腕のガムテープ防具を前に突き出し、感染者の噛みつきを左腕の教科書で直接受け止めた。
『ガブッ!』
分厚い国語辞典の表紙に、感染者の牙が突き刺さる。強烈な衝撃が蓮の左腕に走ったが、ガムテープの何重もの層が牙の貫通を完全に防いだ。
「うおあぁぁぁぁぁっ!!」
蓮は叫びを上げながら、右手にしたサバイバルナイフを、感染者の左目と眉間の間――無防備に晒された頭部に向かって、全身の体重を乗せて突き立てた。
『ズスッ……!!』
鈍く、しかし確かな手応え。
鋼の刃が、皮膚を裂き、頭蓋骨を破り、脳組織へと深く刺さり込む感触が、柄を通して蓮の掌にダイレクトに伝わってきた。
感触。重み。生命が途絶える瞬間の、生々しい抵抗。
『……ガ……ッ……』
感染者の動きが、ピタリと止まった。
白濁していた目が力なく泳ぎ、全身の緊迫が一瞬で解けていく。
蓮は足を踏み込み、ナイフを横に捻りながら一気に引き抜いた。
『バシャッ』
黒く汚れた血液が少量噴き出し、感染者の体が崩れるようにキャットウォークの床へ倒れ込んだ。
金属網の隙間から、その体が下のアリーナの暗闇へと真っ逆さまに落ちていく。
『ドサッ』という重い音が下から聞こえ、そのまま動かなくなった。
「ハァ……ハァ……ハァ……ッ!!」
蓮は、ナイフを握りしめたまま、荒い息を吐き出した。
ナイフの刃先から、どす黒い血液がポタポタと床に落ちる。両手が、激しく震えていた。
自分の手で、かつて人間だったものの息の根を止めた。
吐き気が込み上げてくる。胃の中のものが逆流しそうになる。
だが、蓮はその吐き気を力任せに飲み込んだ。
「……行ったぞ」
蓮は振り返り、呆然と自分を見つめていた仲間たちに向かって、血のついたナイフを構え直して告げた。
「道が開いた。走れ!」
健太が、息を呑んで蓮の顔を見た。
そこにあったのは、もはや事なかれ主義の気弱な少年の顔ではなかった。
絶望の地獄を潜り抜け、大切なものを守るために己の手を血で染める覚悟を決めた、一人の生存者の顔だった。
「お……おうっ!!」
健太が叫び、葵の手を引っ張って前へと走り出す。
五人は、非常口の扉へと飛び込んだ。
『バタンッ!』
扉を閉め、内側からロックをかける。
体育館のアリーナから響いていた惨劇の悲鳴が、防音扉によって遮断され、一瞬にして遠のいた。
そこに広がっていたのは、夜の冷たい風が吹き抜ける、非常階段の暗闇だった。
見上げれば、雲の隙間から冷ややかな月光が落ちている。
見下ろせば、裏庭へと続く鉄製の階段が、闇の底へと伸びていた。
「ハァ……ハァ……助かった……のか……?」
鈴木が、手すりに縋り付きながら泣きじゃくる。
「まだだ。裏庭を抜けて、フェンスの外へ出るまでが脱出だ」
蓮は、ナイフについた血を制服の裾で拭い、鞘へと収めた。
胸の奥で、心臓が痛いほどの脈動を打ち続けている。
だが、彼の瞳は、夜の闇を見据えて冴え渡っていた。
「行くぞ。我が家へ帰るんだ」
少年たちは、階段を駆け下り始めた。
閉ざされた校門、絶望の全校集会、血に染まった体育館。
学校という平和な箱庭は、完全に壊滅した。
だが、蓮、健太、葵。
彼らは夜の闇の中へ、確かな一歩を踏み出していった。
次の話は、翌日7:10の投稿になります。お楽しみに!
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